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万屋八百万と顔探し
ガチャン!と高い音を立ててティーカップが割れた。
ダイニングテーブルの上ではティーポットが倒れ、紅茶が床へと滴り落ちている。
ティーポットを倒し、ティーカップを叩き落とした弟の譲に、姉である麗は目を見開いて固まった。
肩で息をする譲は目尻を釣り上げて麗を睨み付ける。
「姉さんに……姉さんに何が分かるんだ!」殆ど金切り声に叫んだ譲は、そのまま麗の肩を押しやった。
後方にたたらを踏んだ麗がか細い声で譲を呼んだ。
しかし、譲は伸び始めた黒髪を滅茶苦茶に掻き回す。
「分かるわけない!姉さんなんかに、分かるわけがないんだ!」
「ゆず、ゆずる……。ちょっと、落ち着いて……」
「本当は姉さんの顔も見たくないんだ!!」
弟を落ち着かせようと伸ばす手を、譲は勢い良く払い退けた。
乾いた鋭い音が響き、先に涙を落としたのは麗の方だ。
「泣きたいのはこっちの方だ!」譲が濡れて揺れる瞳をグッと瞑ると、そう吐き捨ててダイニングを飛び出した。
バタバタと聞こえる足音は階段を駆け上がり、自室の扉を力強く閉める音が続く。
それは紛れもなく拒絶の音だった。
固まっていた麗は、ゆっくりと自分の顔を両手で覆う。
「かおも、みたく……ない」喘ぐような呟きは、ダイニングに落ちて消えた。
***
「うびゃっ!」
犬神 聖華は、薄暗い部屋の中で悲鳴を上げた。
「な、なな、何ですかコレはー!?」
「いやはや。今日も元気ですね」
尻もちをついて叫ぶ聖華に、開けっ放しの扉から顔を覗かせた八百万 桔梗は朗らかに言った。
扉の脇に付いている電気のスイッチを入れ、部屋を明るくする。
四畳半の部屋には家具らしい家具は置かれておらず、ただ壁一面にお面が掛けられていた。
聖華は、それに驚いて叫んだのだ。
「何をホケホケ笑っているんですか!何ですか、アレ!」
ズリズリと尻もちをついたまま、桔梗の足元に這い寄る聖華は壁一面に広がるお面を指差している。
可能な限り顔を背けそちらを見ないように。
「『面』ですね」
「お面が瞬きをするんですか!人肌の温度なんですか!質感がリアルでドン引きです!」
「酷い事を言いますね。『顔』だから、瞬きしますし人肌ですしリアルですよ」
桔梗の着ている着流しの裾を掴んだ聖華は「ぴッ」とこれまた奇妙な悲鳴を上げ、意識を飛ばそうと頭を後方へ倒す。
しかし、腰を屈めた桔梗がその後頭部を支えトントンと額を人差し指で叩く。
「コラコラ。気絶しちゃいけませんよ。貴女は直ぐに気をやるんですから」
そのまま、聖華の首根っこを掴んで、まるで猫の子でも持ち上げるような形で立ち上がらせる。
「コレ!そういうヤツですか!?」
聖華は腰が抜け、桔梗の胸元を掴んで寄り掛かっている。
濃紺の着流しの奥に潜むしなやかな体は、女性よりも厚く硬い。
細身ながらも寄り掛かれる安心感があり、聖華は「ねぇ!ねぇってば!」と叫びながらも桔梗から離れなかった。
胸板に頭を寄せる聖華に、桔梗が落ち着かせるように丸い頭を確認するように撫でてやり「いいえ」と穏やかに答える。
「違いますよ」と続けながら。
「でも、貴女はしょっちゅう気を失うんですから。慣れた方が良い。無防備でいると体どころか中まで食われますよ」
安心させるような笑みに対し、言葉は安心感に欠ける。
警告のようなものだ。
「い゛ーッ!」
聖華は小動物を思わせる威嚇音を響かせ、しゃかしゃかと桔梗の体に這い上って引っ付いた。
まるでコアラだ。
落ちないように、両手両足をしっかり体に回している。
桔梗はビクともしない体幹を自慢げに見せ付けながらカラカラと笑い声を上げた。
壁一面に広がるお面がパチパチと瞬きをした。
***
ドンドンドン、と強く扉を叩く音で目が覚めた譲は、寝癖の付いた頭を掻く。
扉を叩く音は少し離れて聞こえ、叩かれている扉は譲の部屋のものではないと分かる。
ベッドの上であぐらをかいた譲は暫く黙っていたが、扉を叩きながら聞こえてくる声に舌を打って部屋を出た。
「朝からうるせぇんだよ!」
扉を勢い良く開ければ、隣の部屋の扉を叩いていた両親が目を見開いて譲を見る。
譲は舌打ちと共に二人を睨み付けた。
「うるさいんだけど」
「ご、ごめんなさいね。ゆーちゃん。でも、お姉ちゃんが……」
「譲。お前、麗に変なことをしていないだろうな」
「ハァ?」
既に出勤用にスーツを着込んでいる両親だが、反応は全く違う。
困惑し切りの母に対し父は妙に高圧的だ。
母が父の袖を引くが、父は「麗とお前とは違うんだ」と言う。
「麗は」
「ハイハイ。麗は頭が良い。麗は運動が出来る。麗は器量が良い。中学校も私立。高校だって進学校。大学は有名どころで大学院も確実。麗は、麗は、麗は。完璧な麗に唯一欠点があるとするのなら、それは出来損ないの弟がいること」
「ゆ、ゆーちゃん……」
譲はハッと鼻で一つ笑う。
「だから俺は学校にも行かず、外にも出ずに姉さんの邪魔にならないように過ごしてやってるんだろ。それの何が不満だよ。何に文句があるんだよ」
態とらしく首を竦めて見せた譲に対し、父は「お前はッ!」と激昂し胸倉を掴んだ。
母の悲鳴が聞こえる。
「そういう態度を含めて、お前は問題だらけなんだ!何故分からない!」
「分かりたくもないね」
べえ、と突き出された舌に、父は手を振り上げた。
鈍い音が響き、殴られた譲は尻もちをつく。
腰の骨を強かに打ち付けて呻くが、父は気にも止めずにもう一度、麗の部屋の扉を叩いて何か声を掛けた。
仕事へ向かう時間が差し迫っているようだ。
そのまま身を翻して階段を下りて行く。
母の方は父と開かない扉と譲とを見比べて、扉の方に短く一言二言声を掛け、譲の前に膝を付いた。
譲の殴られた頬に手を伸ばすが、結局触れずに「良く冷やすのよ」と気遣わしげな視線を向けて、母も仕事へ向かう。
暫くして、譲は立ち上がって扉を睨んだ。
握り拳で一つ強く扉を叩く。
「当て付けかよ」
もう一度扉を叩く。
「姉さんのそういうところが」
続くはずの言葉が、キィ、とか細い金属音に掻き消される。
内側から鍵が掛けられていると思っていた扉が開き、隙間を作る。
譲はそれに眉を寄せた。
開いてるじゃん、と。
両親は一体何を大騒ぎしていたのだ、と呆れてしまう。
仕方なしに譲はノブに手を掛けて扉を大きく開く。
麗の自室はカーテンが閉め切られ、電気も点いていない。
規則正しい姉にしては珍しい。
譲は手探りで部屋の明かりを点ける。
ベッドの上は掛け布団がこんもりと丸く膨らんでおり、麗の居場所は分かった。
寝苦しそうな体勢は確実に起きている。
譲は「オイ!」と掛け布団を引き剥がそうとするが、中からは「嫌ッ!」と悲鳴が漏れた。
中と外で掛け布団を引っ張り合い、軍杯が上がったのは譲だった。
「いい加減にしろよ」
疲労の滲む溜息は、直ぐに吸い込まれてヒゥと短い悲鳴のように喉へと戻った。
掴んでいた掛け布団が床に落ちる。
麗の真っ白な顔がそこにはあった。
「見ないで!……みないで」
おねがい、その声は泣き声らしく震えていた。
凹凸のない麗の顔は白くつるりと光り、涙は流れなかった。
***
『万屋八百万』は不可思議と非日常を煮詰めたような場所だった。
看板猫は三毛柄の猫又で、原材料が人間の人間椅子の上で丸くなって眠るのがお気に入りである。
なので、今更藤の間と呼ばれる部屋に転がされた聖華は、天井から垂れ下がっている藤の花を見ても驚かない。
ただボンヤリと綺麗だなぁ、と思うばかりだ。
「これ、どうなってるんですか?」
六畳の藤の間には、丸いちゃぶ台と黒地に藤の花の刺繍が施された座布団しか置いておらず、聖華は畳の上で仰向けになっていた。
人差し指を視界を覆うように垂れ下がる藤の花へ向けるが、お茶を入れる桔梗は「さあ」と鈍い答えを寄越す。
しがみついていた聖華を引き剥がし、藤の間に転がした桔梗はのんびりとお茶を啜る。
「目に見えている通りですかね。藤の間だから藤の花が咲いている。藤の花が咲いているから藤の間です」
「いや、私が聞きたかったのは……。いえ、良いです」
どうぞ、と聖華の分のお茶が差し出され起き上がる。
聖華が聞きたかったのは、藤棚が天井なのか、天井の下に藤棚があるのかという点だったが、見たままならば深く問う必要はなかった。
そもそも、万屋八百万において疑問を持っても解決することは少ない。
起き上がった聖華は座布団の上で両足を横に流して座り、湯呑みを手に取った。
湯呑みの中に茶柱が一本立っている。
聖華がそれを一口飲むのを確認した桔梗は口を開く。
「万屋八百万にある『顔』は持ち主から離れてしまったものなんですよ」
「……『顔』は離れたりしません」
「そう不満げな顔をしないで。簡単な話です。顔色が朝から優れないとどう思いますか?」
「どうって……やだなぁって思います」
「そうですよね。ですがあの『顔』はその日の調子に関係なく、持ち主がずっと自分の顔を嫌だ、嫌いだと思い続ける事で持ち主から離れてしまったんです」
聖華は納得のいかない表情で湯呑みを置き、自分の顔を確認するように両手で頬を揉んだ。
「そんなこと、可能なんですか?」その問い掛けに、桔梗は間髪入れずに「勿論」と頷く。
「強い思いは確かな形を持つものです。生霊を飛ばすのと同じことですよ」
「生霊と同じ扱い……」
頬を掻く聖華の前で、桔梗は三つ目の湯呑みにお茶を注ぐ。
「今日のお客様です」桔梗の言葉の後、聖華の背後で「にゃあ」と看板猫が鳴いた。
ハッと振り向けば、藤の間の出入口である障子がいつの間にか開いており、三毛柄で尻尾が二本ある猫又の看板猫がちょんと座っている。
その背後には件のお客様らしい少年が立っていた。
「……あの、スンマセン。店先に、誰も、いなくて」
黒いパーカーを着込んだ少年は、おずおずと深く被っていたフードを払い顔を見せる。
機嫌の悪そうにも見えるツリ目がちな黒目に、同じ色の黒髪は伸びっぱなしで少年にしては爽やかさに欠けた。
靴はキチンと脱いでいるが、左右の靴下は若干色が違う。
聖華は暫く少年を凝視したが、少年用の座布団を自分の座っていた位置に用意し、桔梗の隣へ移る。
「さて、今日は何をお探しですか?」
桔梗の問い掛けに、居心地悪そうに座布団に座った少年が肩を揺らす。
『万屋』だというのに第一声の違和感を覚える聖華は、桔梗と少年を見比べた。
「……いや、俺、オカルト掲示板で見ただけで」
「私も見ますよ。中々に本質に触れる話題もあって楽しいです。実際『万屋八百万』に来る方法も嘘みたいな真実ですから」
「……じゃ、じゃあ。じゃあ、何でも願いが叶えてもらえるって話も、ホントっスか」
これには、桔梗と聖華が顔を見合せた。
「万屋は確かに何でも屋ですけど」
「そうですね。そもそも、目的のないお客様は辿り着けませんから。先ずは、何をお探しになっているのか、聞かせてもらっても?」
薄らと笑みを称えての問いに少年はグッと下唇を噛んだ。
それから口の中で言葉を選ぶように転がし「かお、を」と答える。
「顔を、探してるんスけど」
***
麗が部屋に引きこもって三日目に、譲は張り付いていたオカルト掲示板で『万屋八百万』を知った。
『万屋八百万』には何でもある。
どんな願いも叶えてくれるのが『万屋八百万』だ。
そんな文言と一緒になって『万屋八百万』への行き方が記されていた。
一縷の望みに賭けて、辿り着いた『万屋八百万』は我楽多屋のようで、人の気配が薄かった。
出迎えたのは店先の椅子に丸くなって眠っていた三毛猫で、譲の気配に気付くと起き上がり、体をグッと伸ばして椅子を下りる。
「なぁ」と一声鳴いて、店の奥へと譲を案内したのだ。
店の奥、藤の間と呼ばれる藤の花が垂れ下がった部屋で譲を迎えたのは、濃紺の着流しを着た優男とブレザー姿の少女だった。
少女の方は譲と年齢はそう変わらないように見え、優男の方は二十代の若造という印象だ。
顔立ちを眺め、兄妹にしては似ていないな、と考えていれば優男は『万屋八百万』の店主八百万桔梗と名乗り、少女はアルバイトの犬神聖華と名乗った。
譲も名乗れば何故か桔梗は「成程」と頷いた。
それから譲の「顔を、探してるんスけど」という言葉に、聖華の方は口の端を僅かに引き攣らせ、桔梗はホホと笑った。
巫山戯ていると、からかっていると思われたのだろうか、譲が唇を噛む。
しかし桔梗はスックと立ち上がって「では、行きましょうか」と言った。
どこに、とも聞けずに聖華が立ち上がるのに釣られて立ち上がる。
店の奥は自宅になっているのか随分と広い。
板張りの床は三人が歩いても軋まず、漆喰の壁はシミ一つない様子は真新しさを感じる。
足音を立てずに歩く桔梗の真横を三毛猫が寄り添うように歩き、ある一室の前で立ち止まった。
藤の間とは違い、障子ではなく扉の一室だ。
この店の造り、家の造りはどうなっているのか、疑問に思っている譲の前で桔梗が扉を開けた。
扉の前に来た段階で「げ」と呟いた聖華は、目の前で開く扉に「げげ」と更に呟く。
扉が完全に開き、部屋の明かりが点けられる。
ヒュと息を飲んだのは譲も聖華も同じだった。
「どうぞ。お探し下さい」
桔梗は体を横にして譲を部屋の中へ招く。
その部屋はまるで顔の部屋だ。
聖華は三毛猫を抱いて廊下で待機している。
「なん、スか。これ……」
震えた声の問に、淡白な答えが返る。
「お客様がお探しの『顔』です」
「い、や。俺の探してる、のは」
「この中から、お客様のお探しの『顔』をお探しして頂きたいのです」
その部屋には顔しかなかった。
壁一面にお面が掛けられたように、老若男女様々な顔が張り付いて譲を凝視していた。
***
「良いんですか」
廊下に立ったままの聖華が猫又を撫でながら問う。
問われた桔梗はハテと小首を傾げる。
「部屋に彼だけ残して」
「ああ。ええ。構いませんよ。それに、私達では手を貸すのは難しいでしょう」
今度は聖華が首を捻る。
閉じた扉を背にして佇む桔梗は袂に手を差し込みながら答えた。
「彼に顔はあったでしょう。ですから、彼が探しているのは彼の身内か知人か。兎も角、彼の近しい人間の顔です。私や貴女では探せませんよ。彼だけが探せるんです。今回は、特に」
猫又が「んなアァ」と鳴く様は同意しているようだ。
「それに『顔』を探すのは大変なんですよ」
***
ついて回る視線に、譲は汗を流し、パーカーの袖で額を拭った。
脚立を借り、壁の一番高い位置の顔から順番に見ていくことにしたが、まだ一面も終わっていない。
壁から引き剥がして良いものなのか聞きそびれたために、譲が脚立と一緒に移動しながら見ていくので時間も掛かる。
「あぁ……もう!こっち見るなって!」
何も言わない顔がジットリと自分を見つめるのが我慢ならない譲が、とうとう脚立を蹴り倒して叫んだ。
一体どれほどの時間が経っただろうか。
クソッ、と吐き捨てる譲は視界を狭める前髪を掻き上げた。
「大体、何なんだよここ。気持ち悪ぃ。そもそも、何で、俺が……」
姉の顔がなくなって三日目『万屋八百万』へ行き方を知り、今日は四日目だった。
相変わらず姉の麗は部屋にこもりきりで、両親は毎朝毎晩熱心に部屋の扉を叩いて呼び掛けている。
譲も初日以降は麗の真っ白な顔を見ていない。
目も鼻も口も付いていないまっさらな顔を思い出す度、譲の胸の内はザワザワと奇妙にさざ波立つ。
自分の深い感情を理解せずに気分が悪い、と一括りにしてしまう譲はそのまま床に転がった。
真っ白な天井は顔のない姉を思い出すから目を閉じる。
暫くして扉の開く音と共に桔梗が部屋に入って来た。
その後ろでは廊下から部屋を覗き込む聖華もいる。
「お探しの顔は見付かりましたか?」
譲が目を開く。
淡い笑みを乗せた顔で桔梗が譲の顔を覗き込んでいる。
「見付かったように見えるんスか」
「いいえ」
「……あの、そもそも、知ってる顔なら簡単に見付かるはずじゃないんですか?確かに、数は多いですけど」
ぶすくれた譲に笑う桔梗、間に割り込む聖華は、しかし部屋に足を踏み入れなかった。
『顔』を探すのは大変、と桔梗の言った言葉を気にしているのだ。
むっくり起き上がる譲は思い当たる点があるのか眉を寄せる。
「自分から自分の意思で『顔』を手放した方なら直ぐに見付かりますよ。これも、自分から自分の意思で取り戻しに来るんですからね」
「……じゃあ、姉さんを連れて来れば良いんスか」
「いいえ。恐らく、お姉さんは自分の『顔』を見付けられないでしょう」
「言ってることが違うじゃないスか」
苛立ちを覚えた様子で指で床をコツコツ叩く譲を横目に、聖華は慣れた様子で「状況が違うってことですか」と更に問う。
「ええ。そうです。お姉さんが『顔』を手放すことになった理由、ご存知でしょう?」
にっこり、綺麗なお手本のような笑みを浮かべる桔梗の言葉は、問い掛けのようで答えを知っているようでもあった。
譲がビクリと体を揺らす。
「っ!駄目なんスか。顔も見たくないって思うのは。優秀な姉の影に覆われて、息苦しくて身動きも取れない俺が姉を嫌うのは間違いか?俺ばっか悪いのかよ!」
叫んだ譲に桔梗は笑みを絶やさず「いいえ」と答える。
「私は貴方の姉弟関係に口を出すつもりはありません。家庭環境も同様です。ただ、貴方はお姉さんの顔を見たくないと思ったのではなく、口にしたのでしょう。お姉さんが自分の『顔』を手放したのは、貴方の為でしょうね」
「……」
「見付けられない理由は簡単です。貴方がお姉さんの顔を思い出せないからです」
「そ、んな。そんな、こと……」
「そんな事、あるんですよ。言葉には力が宿ります。貴方は貴方の口にした言葉に責任を持たなくてはいけません」
まるで聞き分けのない子供を窘めるような口調だ。
聖華は口を噤んでいる。
桔梗の言葉は受け取り方を間違えれば、希望はないと言っているように聞こえるが、答えを提示していた。
そもそも『万屋八百万』に来る時点で、解決方法があるということだ。
必要な者にこそ店の扉は開かれるのだ。
それを知っている聖華は桔梗に習って黙っている。
「……顔も見たくないって、そういうつもりで言ったんじゃねぇ……し、姉さんが俺に気を使ってるのも、俺を気にかけてくれてるのも、知ってる。姉さんを言い訳に、俺が勝手に駄目になってるだけなのも、知ってる。今回だって、俺が原因かもって思ったから、思ったから、こんな所まで来たんだろうが!俺は姉さんの『顔』を探しに来てんだよ!最後に見たのが泣き顔なんて嫌だろうが!俺だって、別に喧嘩したくてしてるわけじゃねぇよ!帰って、ちゃんと謝って……姉さんの笑った『顔』を見るために来たんだよ!」
飛び跳ねるように立ち上がった譲の手が、桔梗の胸倉へ伸びる。
しかし、その手が桔梗に届くより前に譲は麗の声を聞いた。
弟を呼ぶ姉の声だ。
「……姉さん」
振り向いた先には、両親よりも見慣れた姉の『顔』があった。
桔梗が「見付かりましたね」と笑い、桔梗が殴られるのではと部屋に一歩踏み込んでいた聖華はホッと息を吐く。
二人の様子を気にも止めずに、譲は姉の『顔』へと手を伸ばした。
***
「最初から教えてあげれば良かったじゃないですか」
自分の半分ほどはある脚立を肩に引っ掛けた聖華が不満げに言う。
「それじゃあ意味が無いでしょう。彼の言葉は、彼の言葉で打ち消さなくては」
聖華は愉悦愉悦と笑う桔梗に溜息を吐いた。
今後も末永い付き合いを予期させる相手がこれでは気苦労が絶えない気分だ。
今日だって殴られたらと心配したというのに。
はぁ、と二つ目の溜息を吐く。
すると、桔梗は夜よりも深い黒の瞳で聖華を見た。
それから、大きな手を伸ばしヒョイと聖華の肩から脚立を抜き取る。
「あ。私の仕事!」
「うふ。ふふ。聖華も女の子ですから」
「……桔梗さんに言われても怪しいだけですから!」
二人の足元で猫又がヤレヤレと言うように唸った。
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