十四.分別

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十四.分別

 分別なんて付けたくない。聞き分けのいい子でなんていられない。  それなのに世間は分別をつけろと促してくる。なぜそんな自分本位なことを言えるのだろうか。  重要なことは分かっている。世間一般の常識的に考えて正しいのである。  しかし私は納得できていない。  たとえそれが、世界を敵に回すことだとしても。私はやっぱり社長が好きだ。  そこまで大きくないこの会社では、従業員同士の距離が近い。それを受け入れられない人もいれば、馴染む人もいる。  私は前者であるが、今では上から数えたほうが勤務期間が長くなっている。新卒採用で入社してから、多くの人を見送るたびに感傷に浸る。  アットホームな社風は元々得意ではない。それでも我慢できるのは、社長がいるからである。  一目惚れだったと思う。知らない間に視線で追うようになり、気づけば片想いをこじらせている。  当然のことながら口にできるはずもなく、ただ隣で秘書の業務を請け負うことしかできない。 「失礼致します。この案件に関して、いかがなさいますか?」 「保留にしておいて。明日には決めるわ」 「承知いたしました」  差し出したタブレットを見ると私に視線を合わせる。  作業に集中している最中に起きるどこかうわな空で気だるそうな視線が、全身の血流を昂ぶらせていく。  その視線で、もっと私を見つめて。  そういって欲する私は、もう壊れている。これ以上にないくらい、深くよどんだ沼に堕落している。  そんな私に社長は気づくことはいないだろう。  社長は人に興味を示さない。表面上では人と上手に関わり笑顔を振りまくが、心底は分厚い壁を作っている。取り繕うことに長けているおかげで、誰もがそれに気づいていない。  社長は温厚で人柄がよく、誰とも分け隔てなく接して聞き入れてくれる。会社がホワイトカラーなのも社長が社員に理解を示しているからである。  それが社内での社長の評価である。  ”模範的な社長”  その言葉がよく似合う。社外の人からもいい噂しか耳にしない。  もっぱら、社内の人に社長の悪口をいうことの方が珍しいのかもしれない。  それでもみな、口を揃えて言うのだ。「いい社長の下で働けて幸せですね」と。  本当にそうだろうか。表面上に見えている社長は虚構そのもので、本質はどこか別にあるのではないだろうか。  そう疑ったとき、社長という泥沼にはまっていった。 「さっきの案件、断っておいて。理由は任せるわ」 「珍しいですね。わざわざ私のデスクまで来られるなんて」 「単なる気分転換よ」  そういって、ふらっと現れた社長は、フロアを出ていった。  この会社の社長室は、ガラスで区切られているが、一般社員と同じフロアにある。  ただし来客中や集中しているときは、すりガラスのように中が見えないように切り替わる。それ以外は、ほとんどがオープンで、社長の行動は社員からも見えている。  逆をいえば、こちらの行動も社長から見えていることにもなる。大きな問題が起きない限り、社長は口出ししてこないが、それがある種の抑止力になっていることは間違いない。  社長がデスクまで来ることは珍しい。大概は自分のデスクで仕事をし、指示は全てメールや電話、社長室に呼び出されて話をすることもある。  秘書であっても同様で、用事がなければ常に一緒にいることはない。社長室の傍らにデスクはあるが、重要書類を扱う業務上、パーテーションで区切られているが、扱いは他の社員と変わらない。  スケジュールを確認すると社長に同行して外部との打ち合わせが入っていた。  私が同行することは、そんなに多くない。社長は一人で大概のことはできるし、事業も社長一人で拡大してきた。その苦労は微塵も見せず、笑顔を振りまいている。  この人の根底には何が見えているのだろう。  私はそこに写っているのだろうか。それすら疑念に感じながら、社長を追っている。  取引先との打ち合わせが終わった。その後の予定は特にない。  そのまま社長を送り届ければいいのだろうか。そう思っていると思いがけない誘いが舞い込んでくる。 「これから友人と食事会があるの。もしよければどう?」 「……それはプライベートでということでしょうか?」 「そうなるわね。興味がなければそれで構わないわ」 「もしよければ参加させてください」  断る理由などない。これ以上ない貴重なことだと思った。  社長のプライベートが知れる。その上に友人にまで会える。  一気に距離が縮んでいるような浮遊感に襲われる。コンサバな服装だが、何があってもいいように華やかになるアクセサリーは持ち歩いている。秘書という立場が役に立った。  どんな食事会なのだろう。  プライベートな社長はどんな感じなのだろう。  私を誘った真意はなにがあるのだろうか。  もしかしたらただの人数合わせなのかもしれない。  それでもいい。ただ私は、社長のそばにいたい。  もっと破滅的な社長に侵されたい。    社長が人に興味がないと悟ったのは、入社して半年経った頃だった。  誰しもが社長の誕生日を祝福し、部署ごとにプレゼントを贈った。笑みを浮かべながら嬉々として受ける姿は、好感が高く素晴らしい社長だと感じられた。  この会社に入ってよかったと思った瞬間だった。同僚との距離が近く鬱陶しいが、社長が慕われていることは悪いことではない。  ここで頑張ろう。そう決意した夜、ある出来事に遭遇してしまう。  残業で終業が遅くなった私は、正面玄関ではなく、裏口からオフィスビルを出ようとしたときだった。  ゴミの集積場に社長の姿が見えた。挨拶をした方がいいだろうと思い、近付いていく。 突然、陶器が割れながら、ビニールがこすれる不快な音が響き渡る。周囲を見渡してみるが、社長しかいない。ゴミ袋が放り投げられたのだと瞬時に察知した。それは奥の方へと転がり、死角へと消えていった。  社長自らゴミ出しをするなんて、よっぽどできた人なのだろう。  そう思っていると死んだ魚の目をした蝋人形のように表情が失せた人が、めんどくさそうにヒールを鳴らしながら自動車へと乗り込んでいった。  目を疑った。確かに社長である。それなのに同一人物とは思えないような腐敗ぶりである。  駐車場から自動車が立ち去るとゴミ集積場を覗き込む。社長は何を投げ捨てていたのだろうか。  手前のゴミ袋をどかすと一驚した。  昼間渡したプレゼント一式がシュレッダーの紙くずと一緒にゴミ袋に詰められている。状況が把握しきれないまま、覗き込むと空箱ではなくそのまま捨てられているようだった。  社長はプレゼントを持ち帰っていない。それどころか、真っ先に捨てている。あんなに嬉々としていたはずなのになぜ。  思考は混乱していく。  これは誰かに見られたら、大問題になりそうである。そっとゴミ収集場の死角へと隠し、足早に駅へと向かった。  それからである。社長は人に関心を示さないと分かったのは。  最初こそ行動の真意が分からなかったが、入社して二年経つ頃には、見逃してしまうほど僅かで微妙な表情の嫌悪感が読み取れるようになった。  これには誰にも気付いていないと断言できる。  アットホームな社風からか、社長に対して好意的な人しか残っていないからである。  誰一人として疑うことはなかったし、数年経った今でも誰も口に出すことはなく、耳にすることもなかった。  どうしてこんなに社長の微少な機微に気付けるのだろうか。苦悶する日々が続いていた。  そのときでだったと思う。  狂おしいほど破滅して欠如している社長に執着心という名の恋心が芽生えていると自覚したのは。  それからというもの、私は知らず識らずのうちに甘美な蜜に毒されていく。  知ってはいけない濃密なそれは、僅かに触れただけでも目眩がするほど強烈で刺激的である。  知ってしまった今、後に引くことなんて、到底できない。  食事会の指定されたレストランへ行くとすでに数名が待ち構えていた。挨拶をしようとしたが、社長が静止した。 「同じ会社で働いている子なの。こういう場に慣れていないから、お手柔らかによろしくね」 「初めまして」  朗らかに笑う女性は、社長と同年代のように思えた。反応に困っていると社長が耳打ちをする。 「ここでは、仕事の話は厳禁よ。食事を楽しみましょう」  ふいに囁かれた声に全身の産毛が逆だった。  吐息がかかり、オフモードの社長の艶やかさに目を奪われた。  高揚しないはずがない。  だって私は、恋に落ちているのだから。  食事会では終始、夢心地だった。  社長の知り合いが集まり、思い思いの話題で盛り上がっている。  それなのに仕事の話題は出てこない。人との繋がりを大切にしているようで、名刺交換の場ではないのだと思い知らされる。  なぜ私を招待したのか。それは分からないままである。  それでも綺羅びやかな店内で飲むワインは美味しかったし、気のおけない雰囲気は肩の力が抜け、楽しさに溺れていた。  社長は名前で呼ばれていたし、相手のことも名前で呼んでいた。役職なんて関係ない雰囲気が社長には気楽なのかもしれない。  自然な笑顔を見せる社長。  無駄に気負っていない言葉遣い。  いつの間にかされた上品なネイルとオフモードの華美なメイク。  ゆったりと食事を楽しむ姿。  新たな注文をするときにワインにこだわる社長。  大ぶりのシルバーチェーンのアクセサリーは、耳元と首元で輝いている。  人に興味を示さない社長が、他人と共存している。  いや模範手な的な社長ではないという方が正しいのかもしれない。普段見ている社長像から、少しずつメッキが剥がれ落ちていく。  それでも私は社長が好きだ。その気持ちは変わらない。  他の人が社長と気さくに話しているだけで嫉妬してしまう。  表面に出してはいけない。理解しているの出してしまいそうになるのは、独占欲が勝っているのかもしれない。  食事会が終わり、社長と同じタクシーで帰宅することになった。お酒で赤らんだ社長の顔は、妖艶で色気がだだ漏れている。 「どうして今日、誘っていただけたのですか?」 「どこかいつもつまらなさそうにしていたから、気分転換になればいいと思って」 「私、そんな顔、してましたか?」 「そうね。少なくてもアットホームな社風にはうんざりしてるように感じ取れたわ」 「申し訳ありません」 「いいのよ。別に。大きな問題じゃない」  そう微笑む社長は車窓を眺めながら、言葉を続けた。 「それと私だって、他人に好奇心を抱くことだってあるわよ」  私のマンションに到着すると社長が私の頬に手を重ねた。潤んだ瞳で見つめると唇を合わせた。  何が起きているのか分からないまま下車するとタクシーは走り出した。  これはいったいどういうことだろう。  明日、どんな顔をして会えばいいのだろう。  分別がつかないまま、夢見心地にシャワーを浴びた。  社長のよれた赤い口紅だけが、脳裏に深く刻まれている。
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