花と蕾

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「HR始めるから席につけー」 聞き慣れたチャイムの音を合図に、担任である笹塚(ささづか)が教室に入ってきた。 笹塚は普通の中年男性だが、如何せんいつもやる気が無い。自分の担当教科である数学の時間だけは嬉々としてやっているがそれ以外はてんで雑。 たが、雑な分色々な意味で楽ではある。 各々友人達と話していたクラスメイト達は、笹塚の言葉を合図に自分の席へと戻っていった。 「今日はHRの前に転校生を紹介する。砂野入ってこいー」 転校生が来るだなんて誰も聞いていなかった為、困惑からかざわつく教室内。 ―――何故こんな5月の微妙な時期に? そもそもに転校生が来ること自体、稀有な事なので茉央自身驚いている。 そして笹塚に呼ばれて入ってきた男子生徒を視界に入れた瞬間、茉央は目を瞠った。 「砂野、簡単に自己紹介してくれ」 「砂野悠理(さのゆうり)です。今まで都立高校に通っていたのですが、忙しくなってきてしまったのでこの高校に転校してきました。宜しくお願いします」 砂野悠理ーーーー。 彼は今をときめく売れっ子若手俳優だ。 誰から見ても整った、まるで作り物のような秀逸な甘い顔立ち。長い睫毛に縁取られたやや切れ長の目は美しくもあり恐ろしくもある。 その上高身長で手足が長く、スタイルも抜群に良い。 芸能科の生徒は殆どが一般人よりも見目が良い者が多いが、彼はずば抜けている。 「じゃあ砂野の席は、高橋の隣な。高橋、手あげてやれー」 悠理の席は、幸人の隣になった。 確かに、以前から幸人の隣の席は空いていたが、クラスの人数が奇数なので特別誰も気にしていなかった。 幸人の隣、つまりは茉央の後ろの席。 悠理が自分の席に向かう時に横を通った瞬間、ふんわりと仄かに花のような甘い香りがした。……香水だろうか。 それにしては、きつくもなく寧ろとても良い香りだった。 それと、一瞬だが目があったような気がする。……まあ、気のせいだろうと茉央は首を傾げつつも気にするのをやめた。 それからいつも通りにHRが始まり慌ただしく1日が過ぎていき、今は昼休み。 クラスメイト達は休み時間に悠理に話し掛けていたようだが、彼は笑みを浮かべつつも当たり障りない程度に適当にあしらっていたようだった。 幸人は仕事の為、先程早退してしまったので茉央は1人で屋上へ向かう。 屋上は周りの建物との兼ね合いで日当たりが悪いせいか年中ジメジメしているので滅多に人が来ない穴場だ。 幸人の他にも世間話をする程度の友人はいるが、一番仲が良いのは間違い無く幸人だし、それに何となく今日は他の人と必要以上に関わりたく無い気分だった。 特に何があったとかではなくて、たまにこういう時もあるというだけ。 今朝、学校へ向かう途中のコンビニで買った菓子パン2つと紙パックの珈琲牛乳をビニール袋から取り出し、さて食べようかという所で屋上のドアがガチャリと音を立てて開いた。 「あ………砂野」 滅多に人が来ないはずの屋上に訪れたのは、砂野悠理だった。 悠理は一度こちらに視線を寄せたかと思うと、迷い無くおもむろに茉央の側まで歩いてくる。 歩いているだけで絵になるから凄い。これが本物の芸能人ってやつかと茉央は漠然とそう思った。 「―――あのさ、伊澤茉央くんだよね?」 悠理は、屋上のフェンスを背に座り込んでいる茉央の目の前に立ったまま見下ろし、感情の読み取れない顔でそう尋ねてきた。 ……何で俺の名前を知っているんだろう。と茉央の頭に疑問が浮かぶ。 悠理とは今日が初対面だし、自己紹介もしていないし何ならまだ一言も言葉を交していないのに不思議だった。 「あ、うん。そうだけど…」 あまりにも唐突かつ衝撃的な出来事に一人で混乱していると、悠理は茉央の目の前にしゃがみ込み申し訳なさそうな何とも言えない表情を浮かべた。 近くで見ると、シミ一つ無い健康的な白い肌が本物の陶器みたいで思わず魅入ってしまいそうになる。 「突然ごめん。実は、前に見た映画で伊澤くんの事を見て一目惚れしちゃって」 「…………ん?え、……ヒトメボレ…?」 ヒトメボレって米の品種の事じゃないよな?だなんて馬鹿みたいな事を思ってしまうくらいにはとても混乱している。 茉央は、全くもって状況が飲み込めていない。 今日って、エイプリルフールだったっけ。いやでも今は5月だし。 混乱している茉央を知ってか知らずか、悠理はそのまま言葉を続ける。 「転校してきたら、まさかの一目惚れした相手が居たからいても立ってもいられなくて屋上まで追いかけてきちゃった。……本当は、いつか仕事で一緒になる機会があったら言おうって思ってたんだけど」 ――うん、いや……ちょっと待ってくれ。 一体今自分に何が起きているのだろうか。 茉央は只々混乱の最中にいた。 出演していた映画を見て一目惚れしたって……。確かに一度映画には出た。でも茉央は本当に端役で、ある一人のモテる女子に何人もの男が告白して見事に玉砕するという話の何人もの男の中の1人の役だった。 1時間半の物語の中で『ずっと○○の事が好きでした!付き合ってください』という台詞しかなかったし、殆どその一瞬しか映っていない。 あれのどこに一目惚れなどする要素があったというのだろうか。 あんな一瞬を見てくれたのは正直物凄く嬉しいけれど、それにしたって。 戸惑いの表情を浮かべる茉央に、悠理は優しく微笑む。 「あの映画の主人公の子が同じ事務所でさ。…正直彼女の事が羨ましかったし、役の中の話だけど伊澤くんを振るなんてとんでもない女だなって思っちゃったんだよね」 「………」 「こんな綺麗な人初めて見たし、もう気が付いた時には伊澤くんの事で頭がいっぱいだった」 「綺麗って……砂野くんのほうがよっぽど綺麗だと思うけど。現に俺は端役しか貰えないし、オーディションも落ちまくりで仕事も殆ど無いし…」 悠理は目がおかしいのだろうかと、茉央は本気でそう思った。 綺麗な人に綺麗と言われるのは嬉しいけれど、悠理は売れっ子で茉央は落ちこぼれのような存在だ。 これは卑屈でも何でもなくて、目に見えて天と地ほどの歴然とした差がある。 「……そもそも俺男だけど、砂野くんは男が好きな人なの?」 色々と聞きたい点はあるが、そもそも論だ。 この業界に同性愛者は割と多いと話には聞くが、実際に出会ったことは無かった。 マイノリティ等に偏見は無いが、それとこれとはまた別の話で。 「…男が好きってわけではないかな?というか、今まで自分から誰かを好きになった事自体なかったからよくわからないんだよね」 茉央の問に答える悠理は、そう言って苦笑いをこぼす。 「女の子に告白されて付き合った事はあるけど、どうしても好きになれなくて全然長続きした事もなかったし。だから、伊澤くんが俺の初恋だね」 「俺が砂野くんの初恋……」 「そう、初恋。だからできれば成就させたいし、まずはお試しでいいから付き合ってもらえませんか?」 『できればというか、絶対成就させたいんだよね』と、悠理は爆弾のような発言をとても綺麗な笑顔を浮かべて投下しまくってくれたのだった―――。
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