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森宿駅から二人で電車に乗り、学校の最寄り駅でもあり事務所の最寄り駅でもある目青駅へと向かう。
車内は混雑していて、ピーク時のすし詰め状態とまではいかないものの悠理と茉央の距離は物凄く近い。
電車が揺れて悠理に少し自分の肩が触れる度に茉央は何故だがドキドキしてしまう。
そんな茉央の様子を知ってか知らずか、混雑のどさくさに紛れて手を握ってきた悠理に驚き、慌てて彼の顔を仰ぎ見ると悠理は悪戯っ子のような顔でニッと笑った。
「……っ、悠理!」
茉央は突然の出来事に反射的に大きな声が出そうになったが、ぐっと堪えて小声で訴えかける。
こんな公共の場で男同士で手を握っていたら目立つし、例え男同士じゃなかろうがそっち方面は赤子同然の茉央にとっては恥ずかしい事この上ない。ましてや芸能人なのに。
昨今は、大した事のない話題や嘘か本当か分からないような噂でもすぐに週刊誌の餌食になりSNSでの火種になる時代だ。
それこそ茉央自身は売れているわけではないからまだいいが、悠理は違う。
「大丈夫だって。混んでるし誰も気付かないよ」
「そうかもだけど、でも!」
「だって本当は今日、もっと茉央と二人っきりで楽しみたかったのにもうすぐ二人っきりじゃなくなるじゃん。だから充電」
「充電って…」
「あと3駅だし、いいでしょ?ね?」
そんなに綺麗な顔で可愛い発言をするのはやめてほしい。あざとすぎる。駄目だと思うのに断れなくなるじゃないかと茉央は困惑した。
それに、だんだん茉央自身もこのままがいいだなんて意味の分からない感情が湧いてきてしまって、完全に悠理に絆されている気がした。
悠理の手は体温が低いのか、少し冷たくて気持ちが良い。
距離が近いせいか、またあの花なような甘い良い香りもする。
茉央は悠理の事を恋愛的な意味で好きなわけではないのに、繋いだ手の温もりが何故だか酷く心地良かった。
二人は電車を降りて駅から歩いて坂を下り、事務所に向う。
茉央の所属する"ナナプロ"は業界でもわりと大手の芸能事務所だ。
今をときめくトップ歌手もいるし名女優やベテラン俳優などの大御所等、素晴らしい方々が沢山所属している。その分茉央のような売れない者が沢山いるのも事実ではあるが。
事務所につくと、エントランスで受付を済ませてからエレベーターで4階に行き、富樫からLIMEで指示されていた第三会議室へと足を運んだ。
会議室には既に富樫と砂野のマネージャーらしき30代前後の若い男性の姿があった。
「砂野くん初めまして。茉央のマネージャーをしている富樫です。急に来てもらっちゃってごめんね」
「初めまして、スターツ所属の砂野悠理です。丁度一緒にいたし仕事の事なので全然大丈夫ですよ」
いつも通り柔らかい雰囲気の富樫と、茉央といる時とは違う雰囲気の悠理。彼はまるで学校にいる時のような、悪く言えば猫を被ったような人好きのする笑みで富樫と挨拶を交わした。
スターツというのは悠理のいる事務所で、ナナプロほど大手ではないが悠理を筆頭に新進気鋭の若手が何人も所属していて業界でも注目されている事務所だ。
「伊澤くん初めまして、砂野のマネージャーの廣瀬です。本日は突然お邪魔してしまって申し訳ない
。これから宜しくお願いしますね」
「初めまして、ナナプロ所属の伊澤茉央です。こちらこそ宜しくお願いします」
悠理と富樫のやり取りを横目で見つつ、茉央も悠理のマネージャーと挨拶を交わした。
廣瀬は、勿論悠理専属のマネージャーなので渡された名刺には氏名の上方に"砂野悠理専任マネージャー"と記載されていた。
茉央のマネージャーである富樫は、茉央の他にも若手や売れない子達を複数掛け持ちしている人なので専任ではない。
だけど、富樫とは事務所に入った頃からの仲なので茉央にとってはとても信頼のおける唯一の人だ。
いつか自分が売れっ子になった暁には専任になってほしいなと茉央は密かに思っている。
「じゃあ本題に入るけど、まずは茉央。おめでとう!茉央には電話で話した通りキャスティングを担当している田尾さんから直々に連絡をもらって、秋からクランクインのボーイズラブ映画に出演する事に決まりました。漫画の実写化だから、なるべく原作に近い人物を使いたかったみたいで茉央は主要キャスト3人のうちの1人であるハーフの子のイメージそのままだったんだそうだよ」
それぞれ席に座り、富樫から説明を受ける。
富樫の話を聞いて、茉央は実感が湧くのと同時になるほどなと思った。ハーフの役だから自分は選ばれたのか。
今までハーフが俳優業の弊害になる事が多かったので、正直純日本人のような慎ましさのある控えめな容姿が羨ましかった。けれど、今回のようにハーフの役ならば自分にもチャンスがあったんだと茉央は目から鱗だった。
「――それで今日廣瀬さんと砂野くんにも来てもらったのは、もう一人の主要キャストについてなんだ」
「もう一人は模索中なんですよね?」
「そう。田尾さんいわく、なるべく自分から声がけして揃えたかったんだけどどうしても見つからないみたいでね。それで、そろそろ決めないと困るしって事でもう一人のキャストについてはオーディションをする事にしたみたい」
「オーディションですか」
なるほどと茉央も悠理も揃って頷く。
原作の著者もキャスティングの田尾も、きっと妥協したくはないのだろう。ある程度の妥協というのは致し方ない部分ではあるが、原作ありきの実写化はその辺りがとても難しい。チョイスを間違えれば最悪、公開前から大顰蹙をかうことだってあるご時世だ。
なのでオーディションというのはいい案だと二人は思った。
けれど、オーディションがあるからって何故悠理も此処に呼ばれたのだろうかと茉央は首を傾げる。
きっと悠理のマネージャーの廣瀬は既に理由を知っているのだろうけど、悠理自身は全く知っている様子は無い。
「そう。で、二人にきてもらった理由は2つあるんだけど、2週間後に行われるオーディションに審査員として茉央と砂野くんにも参加してほしいっていうのがまず一つ」
「俺と悠理がですか?」
「うん。田尾さんから、オーディションまでに原作を読んでもらった上で二人にも審査員を努めてほしいってお願いされてね。砂野くんは先に決まってたからもう原作は読んでるかもしれないけど」
「はい、一度拝読させて頂きました。……で、もう一つは?」
悠理が富樫にそう尋ねると、富樫と廣瀬はどういうわけか何とも悩ましげな雰囲気で顔を見合わせた。
まるで、二人にどう話を切り出そうか迷っているみたいに。
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