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夢現(ゆめうつつ)
―――泣き声が……
誰かの、すすり泣く声が聞こえる。
切なくて、哀しくて、俺まで辛くなってくる。
そんな風に泣く人を、俺は知らない。
『大丈夫だ』と、
何がそんなに哀しいのかと問いたいのに、
声を発する事ができない。
――ああ、俺、夢を見てるんだ。
なら、この押し寄せる悲しみも、泣き声と同化する胸の痛みも、
全部夢、なのか。
目を閉じたまま、そんな事を考えてみた。
この意識は、覚醒している。
それでも目が開かないのは、痛み止めに入っている睡眠導入剤のせい?
夢と現をたゆたいながら、今の状況をぼんやり考えていて――
再び意識を失くしそうになった俺は、首の傷に触れられ、
ピクッと、小さく身じろいだ。
『―――誰?』
とは、聞く必要もない。
この部屋にいるのは、俺と、もう一人だけ。
傷跡を覆う包帯の上に、じんわりと人肌の温もりを感じる。
先に寝付いたはずなのに、俺の隣で上半身を起こしているのは、
この部屋の主。
気配を感じて呼びかけようとしたものの、やっぱり声は出ない。
傷の上に添わされていた手が、ゆっくりと離れていく。
何をしていたのか、わからない。
だけど俺も、動く事ができないでいた。
しばらくの間 無言でいた彼が、細く息を吐いた。
「……瑞希の馬鹿」
何?
今、聞き捨てならない言葉を聴いた。
「……なんで――」
言いかけて、黙ってしまったその続きを、ひたすら待った。
『なんで』
何を、言おうとした?
続きが聞きたいのに、眠気がそれを凌駕する。
遠退きそうな意識の中、完全に口を閉ざしてしまった彼の、
上から見つめる視線だけ、妙にはっきり感じていた。
朝になれば、多分これも夢の中の出来事として……
いいや、全部忘れ去っているだろう。
だから、今訊かないと。
焦る気持ちとは裏腹に、瞼は開く気配も見せず、
ひたすら睡魔と格闘していた。
あの泣き声を、聞いたことがある。
遠い昔――
最近ではもうほとんど見なくなっていた、事故の後の記憶。
眠る俺の傍らでしゃくりあげていた幼い泣き声は、
聞いている者まで心が痛くなるような、どこまでも純粋な悲しみだった。
泣いていたのは……北斗?
お前だったのか?
どうして?
何がそんなに辛いんだ?
教えてくれたら何でもする。
俺にできる事があれば、何だって。
だから、もっと頼って欲しい。
それとも……こんな俺じゃ、頼る気なんて起きないのか?
そう思っただけで、眠りながら涙が滲んできた。
果てしなく深い、哀しみの感情。
これは『共鳴』だ。
北斗の哀しみに、俺も共鳴している。
でなければ、こんな事で涙なんか―――
「―――瑞…希? 起きてるのか?」
不意に呼ばれ、
『うん』
と、夢の中で頷いた。
「………」
自分では答えたつもりでも、相手には聞こえるはずもない。
「……俺の代わりに、泣いてるのか」
囁くように言われ、切なさと、息苦しいほどの哀しみがまた、俺を襲う。
そう、かもしれない。
あの、哀しみに押し潰されそうな泣き声が、
その心を映しているのなら――
そんな事を考えて、新たな涙が溢れてくる。
心地良いとは言い難い、かさついた指先が、
まなじりを伝う涙をそっと拭っていった。
「――ごめんな、瑞希 ……ありがと」
涙を拭った指先が、髪に触れる。
何を謝っているんだ?
これは『夢』? それとも『現実』?
俺には、もうわからない。
確かなのは、北斗が起きてるはずないって事。
だって、薬のせいで俺より先に眠ってしまった。
きっと朝まで目覚める事はない。
わかっているのに、北斗の微かな息遣いを傍らに感じていた。
前髪を梳くように掻き上げられて、額の傷跡が露わになる。
そこに、感触の違う温かさを感じる。
――柔らかく、そっと触れるだけの、北斗からのキス。
寝ている時にしかしないそれは、やっぱり肉親に対するものでしかなくて……
それでも数ヶ月前の俺なら、じろっと睨み付けて、
「俺は女じゃないっ!」
と、怒っていた。
だけどどうしてだろう、今夜は何だか物足りない。
こんな、羽毛の触れるような中途半端なものじゃなく、
もっと近くに、もっと熱くて情熱的な口付けが……欲しい。
思うのと同時に腕が動いた。
抱き締めたのは、北斗の首?
「瑞……」
呼びかけた言葉が、途中で消えた。
北斗の頭を、強く引き寄せたからだ。
夢の中の彼は、どんな反応を見せる?
やっぱり現実と同じに、すごく驚くかな?
だって、俺から仕掛けるなんて、思いもしないだろう。
それともまた、「こんな事したら駄目だ」って、怒るのか?
それなら、夢の方がいい。
唇が重なり、心の中に明りが灯る。
夢でなら、今の俺の本心を解放しても、朝になれば忘れてる。
万が一覚えていても、惚けて誤魔化すことも。
こんな、非ー常識は、夢のノリでないといけないんだ。
輝きに満ちた北斗の未来に、俺の居場所はない。
一番の友人で、幼馴染。
それ以上の関係なんか、俺達の間にも、この世の中にも在りはしないのに。
俺は北斗に、一体何を望んでいるんだろう。
寝ぼけた俺の拙いキス。
突き放すこともせず、少しだけ戸惑いを見せた北斗が、
暫しの間を置いて応えてくれた。
夢でも、やっぱり北斗は北斗だった。
重ねられた唇の熱を確かめるように、優しく触れる口付けから、
次第に深い交わりへと、それは確実に変化していった。
熱く、身体の芯まで痺れるような口付け。
経験値のほとんどない俺には、それだけで十分だった。
深く、浅く、幾度となく角度を変えられ、熱を帯びた激しさに煽られ、
慣れない交合に翻弄される俺は、自分の意思でそれを受け入れていた。
北斗の頭に回していた腕を、背中へと滑らせる。
そこに、何物にも隔たれる事のない素肌を感じ、奇妙な興奮が沸き起こる。
……北斗の身体、しっとりしていて気持ちいい。
そして、同時に気付いた。
――ああ、やっぱり……これは夢だった。
でも、それでいいのか。
そんな風に割り切って考える冷静な自分と、
胸一杯に切ない気持ちが広がり、新たに溢れ出す涙に戸惑う自分。
こんな夢を見るのは、やっぱり心のどこかで、
北斗を自分に繋ぎ止めておきたいと思っているから?
俺からキスを望むのは、その願望の象徴なのかもしれない。
明日、目が覚めて万が一この夢を覚えていたら、
どんな顔して向き合えばいい?
――大丈夫、全部忘れてしまえる。
だから……今だけ、
もう少しだけ、夢を見させて。
この幸せな夢の続きを見る資格は、俺にはないとわかっているから。
少しの罪悪感と、満たされた想いを胸に抱いて、
今度こそ何の未練もなく、意識を手放した。
北斗の腕に抱かれ、安心しきって眠りに付いた俺は、
頬に落ちた温かな雫にも気付かない。
深く、安寧とした眠りへ、誘われていた。
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