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出会いがしらに上擦った声で俺を呼んだ瑞希が、へなへなとへたり込んだのには驚いたが、向こうもよほどびっくりしたんだろう、腹立ち紛れに喚かれても、それが却って瑞希らしくて、怪我の事も、それに付随していた諸々の想いも忘れ、久しぶりに会えた喜びが、しみじみと身体中を満たしていくのを感じていた。
それなのに、手を差し伸べ、助け起して気が付いた、襟元に覗く真っ白な包帯が、俺をあっさり現実に引き戻した。
嫌でも目を引く、首に巻かれたその布の下には、どれほどの傷が隠されているのか。
知りたくてたまらない。
それと同じ分だけ、逃れようのない事実を突きつけられるのが恐かった。
瑞希の身体に付けられた傷痕をこの目で見た時、俺は……平静を保っていられるだろうか。
その恐怖は、あまりにも平然としている瑞希への苛立ちにいつの間にか転化され、俺達の間をどんどん険悪にしていった。
昂ぶる感情を抑える事ができず、素っ気無く応対する事でどうにかかわしていたのに、瑞希にはそんな俺の心情が理解できなかったらしい。
爆発寸前のわざとらしい冷淡な対応に、さすがに瑞希も不審の色をのぞかせはじめた。
「久しぶりに会ったのに、何をそんなに怒ってるんだ?」
そう指摘され、ぐっと返事に詰まった。
「そりゃ電源入れ忘れたのも連絡しなかったのも、確かに俺が悪かった。軽率だったし反省してる。けどすごく忙しかったんだ。それくらい――」
「わかってるそんな事! それでも腹が立つんだ、仕方ないだろ」
至極当然の理由を言われ、取り繕う事も出来ないまま、心の内をぶつけていた。
傷付けたいわけじゃない。
けど、のほほんとした態度を突き崩したい衝動に駆られたのも事実だった。
「――お前が…ほんのちょっとでも怪我した事を気に病んでたら、こんな気分にはならなかったんだ」
そんな風に思わないのが瑞希の良さで、そういうところにも憧れに近い感情を抱いていたのに、あの時は責めずにいられなかった。
言ってみても始まらない事は十分承知していて、剣道一筋の一途な奴に、自分の中の苦しみをぶつけた。
案の定、きょとんと見返した瑞希は、どうにか俺を理解しようとしていたのに、それすら矛盾だらけの神経に障った。
「お前のその平然とした態度がッ、俺の神経を逆撫でするんだよ!」
そう口走った俺は、もう本当に最低だった。
自分の狭量さに嫌気がさす。
あのまま言い合っていたら、きっともっと酷く瑞希を傷付けただろう。
大した熱でもないのに皆に言いくるめられ、病院のベッドで呑気に寝転んでいた自分。
慰労会を欠席していた間の俺の置かれていた状況は、目の前の幼馴染に比べあまりにも情けなくて。
瑞希に明かしながらも、ギリッと歯噛みしそうになった。
たとえそれが西城高での混乱を避けるための根回しだったとしても、事前に事実を知っていたなら、何があろうと、どんな事態に陥ろうと戻っていた。
「――お前の怪我を本人以外の奴から聞かされて、しかも慰労会に出たその足で病院に向かったと教えられて、…俺が――」
喉の奥が塞がれるような苦しさは、抑えきれない感情の波に支配されかけたせいだ。
瑞希の前でそんな醜態、晒したくもなかった。
「俺がどれだけショック受けたか、お前に見せてやりたい」
精一杯の虚勢でそれだけ言い放ち、唇を噛み締めた。
瑞希の顔を見るまで、頭ではわかっていた。
相手が瑞希でなくても、そんなに酷い怪我じゃなくても、昨日の俺の有様を知っていれば、自分の事なんか打ち明けられる心境ではなかっただろう。
実際、瑞希達が千藤監督の配慮により、俺達の試合を生で見た事は、山崎に聞いていた。
もし逆の立場なら、俺だって何も話せない、話さない。
それでもどうしようもなく腹が立ち、責めてしまった。
それは、俺がまだガキだから、なんだろう。
深く残された傷痕。
それに関してあまりにも頓着のない態度への怒りも、相当あった。
だがそれ以上に、被害者であるはずの瑞希に当たってしまう自分に、一番いらついていた。
「――俺は、千藤先生みたいに大人じゃない。だから、お前の努力を思いやって言葉を選んだりできないし、する気もない」
瑞希に対する苛立ちは、彼の尊敬する監督への反発にも容易く変化した。
「一番大切にしてるものを傷付けられて、それを笑って許せるほど、俺の許容範囲は広くない」
と。
「その対象がお前なら……瑞希を傷付ける奴は、誰だろうと許さない」
そう言い切った。
今までも散々苦しんできた。
……いや、苦しみはまだ続いている。
いつ解放されるとも知れない、一生背負う事になるかもしれない苦悩。
この上、怪我を負わされる必要がどこにある。
彼の母親が命がけで守った命を……その身体を、俺も『守る』と誓った。
だから、余計に許せなかった。
なのに。
そんな自己陶酔に近い自惚れに、手痛い一撃をくれたのは、他でもない瑞希自身だった。
「俺を傷付けてるのは戦った相手じゃない、北斗じゃないかッ!」
そんな風に喚かれても、意思を翻す気なんて更々なかった。
瑞希が涙声になっているのを承知しながら、それを眼差しで封じた。
互いの視線が真っ向からぶつかる。
譲ろうとも、妥協しようともしない俺達に一触即発の緊張が走り――
そして、瑞希が静かに口を開いた。
「――俺が…今日まで支えにしてきたものは、怪我したら危ないとか、危険だからさせられないとかいう中途半端なものじゃないんだ。危険なのは十分知ってる。それを承知で剣道を選んだ」
微塵の迷いもない、真っ直ぐな眼差しに射抜かれ、言葉を失くした。
幼い頃のみーちゃんの、明るく快活だった瞳と似ているようで、全く異なもの。
内に宿る魂の穢れない強さに、目を奪われてしまった。
と同時に、同じ口から出た、俺への激しい拒絶。
「それでも許せないって言うなら、もういい。北斗なんか知るか! 俺はお前の人形でもペットでもない、意思を持った生身の人間だ。半人前でも俺の身体だ。どうなろうと俺の勝手だッ!!」
『どうなろうと俺の勝手』
その言葉には、強烈な魔力でもあるのか。
気が付けば、右手を振り上げていた。
瑞希もまた身の危険を感じたんだろう、すぐにきつく目を瞑った。
端から、逃げようとはしなかった。
俺の平手を覚悟した上での甘受。
そんな潔さに、俺の方こそ横っ面を張りとばされた気がした。
カッとなって上げた右手。
寸でのところで固く握り締め、思い上がりも甚だしい自分自身に、居たたまれなくて顔を背けた。
瑞希に対する俺の怒りは、子供の我侭みたいなものだった。
大切な宝物を傷付けられ、泣き喚き、元に戻せと駄々をこねるのは、幼児だけの特権。
本当に子供なら、そんな理不尽な激情も親があやしてくれる。
だが、俺は子供じゃないし、瑞希も俺の所有物ではない。
そう、本人に指摘された通り、彼は俺の人形でもペットでもない、意思を持った生身の人間だった。
どれほど深く傷つこうが、一人で立ち上がれる強さを持った奴。
それは心でも身体でも変わらない、瑞希の生き様そのもの。
だからこそ、惹かれた。
そして、大切にしようと誓ったんだ。
「北斗、ごめん、俺……」
「――なんで謝る。謝るのは俺の方だ」
先に謝られ、出鼻を挫かれた俺は、素直に頭を下げる事も出来なかった。
「だって、心配してくれたのに、酷い事……言った」
止めてくれ。
お前に謝られたら、俺はもっと惨めな気分になる。
胸に渦巻いていた激情を消してしまったのは、紛れもなく瑞希で―――
そこには俺の介入など必要としない、しなやかで強靭な強さがあった。
「悪いのは俺だ。お前の言うとおり、瑞希の人生は瑞希のものだ。怪我しようが病気になろうが、それを第三者が偉そうにとやかく言う権利なんか、初めからなかった」
こんな言い方しかできない自分に本当に嫌気が差し、この場から逃れる為の切り札を出した。
「けど、悪い。今は……頑張ってきたお前を祝う気に、どうしてもなれない」
それだけ告げて、背を向けた。
『祝えない』。
そう言えば、瑞希は俺を追わない。
欲しい言葉など、初めから知っている。
それを励みに厳しい稽古に耐えてきた事も。
県大会で優勝した夜、二人で乾杯したのが懐かしい。
あの時は楽しかった。何より、心置きなく祝福してやれた。
あの日の事が遠い昔のような気がして、今のこの憂鬱な気分に一層拍車をかけていた。
文字通り、全身全霊を賭けて戦った証しを最後まで否定し、足早に脱衣室から離れかけた俺は、後ろからいきなり羽交い絞めされ、一瞬息が止まった。
そんな真似されるなど、思いもしなかった。
「――いい。我慢する」
それは、瑞希なりの精一杯の譲歩。
俺の身体を力一杯抱き締め、肩口に頬を押し付けて、『行くな』と全身でぶつかってくる奴を、どうすれば突き放せるというんだ。
「誰よりも北斗に祝って欲しかったけど、…欲しいけど」
……ああ、そうだな。
俺も、お前の目を真っ直ぐに見て、『準優勝おめでとう』と、言ってやりたかった。
ごめんな、瑞希。
少しだけ、俺に時間をくれ。
心の整理がついたら、また二人で祝おう。
それまで、待っててくれるよな。
そんな事を考えていた。
その気持ちに応えるように、身体に回された腕に急に力が込められた。
偶然のタイミング。
なのにそれが可笑しくて、笑うことはできなくてもほんの少し癒された。
俺を引き止め、引き寄せる。
この手があるから……伸ばす勇気を持っている奴だから、俺はいつも救われる。
目の前にあるその手に、自分の手をそっと重ねた。
互いの体温を感じるほどに近付いて、気まずかった再会にようやく終止符が打たれた。
そう、それで一件落着のはずだった。
瑞希が、あんな事を言い出したりしなければ。
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