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それぞれの事情
「北斗、熱い」
背中に張り付いたままボソッと呟かれ、重ねていた手を離し溜息を吐いた。
「お前がしがみ付くからだろ」
冬ならともかく、この時期にこれだけ密着したら暑いに決まってる。
まして好きな奴に力一杯締め付けられれば、ない熱だって上昇するだろう。
戒めを解き、心配そうな眼差しを向ける瑞希は、俺が熱中症になりかけたのを知っていたようだが、言い合いの直後にも係わらずこれほど至近から覗き込める精神構造は、やはり理解できない。
それ以上に、今の瑞希に俺の心配なんかされたくなくて、夕飯の事を訊かれたのを幸い、話を逸らせるつもりで「お前は?」と返してやった。
ところが、その返事は想像の域を超えていて、実はかなり驚いた。
ただ、言い難そうにしながらも俺の母親と一緒だったと明かした様子から、お袋達との食事を楽しんできたのは一目瞭然で、内心胸を撫で下ろした。
「瑞希君の母親役なんて、ちょっと図々しかったかしら」
とは、二ヵ月前、『オアシス』での祝勝会の帰り際、お袋が俺にこっそり洩らした本音だ。
幼い頃の瑞希を知っているからか、容姿には怯まなかったお袋も、県大会で個人優勝するほどの剣道の実力には、戸惑いを隠せなかったようだ。
あの時は何と返事していいものか迷い、結局苦笑いで誤魔化したが、瑞希にはそんな気兼ねや遠慮など全く必要ないものだった。
怪我した事をお袋に伝えるなんて、俺にはとてもできない。
中一の時の接触事故で、看護師である母親の職権乱用を目の当たりにして、もう二度と親の勤めている病院には行かない……行って堪るかと心に誓った。
だから少々怪我をしても、お袋にはひたすら隠し通した。
本人ならまだしも、息子の怪我―それもたかが捻挫と裂傷―で、入院までさせた人だ。瑞希も相当弱ったに違いない。
それでも、あいつは必死にお袋の肩を持った。
「おばさんまで巻き込んで心配掛けたのは悪かったけど、すごく楽しかったよ? 途中で仁科さんも来てくれたし、それに――」
一生懸命言い訳する瑞希が何だかいじましくて、本当に百合おばさんと同等に思っていると知り、それが妙に照れ臭く、そして嬉しかった。
だが、お袋を相手にするには親子関係の経験値が足りなすぎる。
きっと病院では言いなりになっていたんだろう。そしてお袋は、口ごたえもしない瑞希をいい様に振り回したに違いない。
そう決め付けて、少しだけ同情した。
……まぁ、診察自体はあの病院の方が信用できるが。
そこだけはちょっと思い直し、総合病院でよかったと正直な気持ちを添えてやった。
その一言で、安心したように笑顔を見せた瑞希だが、俺の体調を気遣ってかやたら早く休ませようとするから、意地でも寝たくなくなった。
気まずい再会ではあったけど、やはりこんな風に顔を見て直接話が出来れば嬉しい。
瑞希は?
どうだろう。
今は、同じようには思ってくれない、か。
あんなに当り散らしてしまったんだ、自業自得と言うしかないが。
それでも久しぶりに会えたんだ。今までずっと寝ていたし、瑞希との言い合いで感情が活性化しまくったせいか、落ち着いて眠れるような精神状態でもなくなっていた。
あれこれ心配して口を出す瑞希に「疲れてたんだ」とだけ答え、お互い様だろ? と目で問えば、
「ランディーの散歩はできても?」
と、思い切り的外れな事を真剣に聞いてくる。
こいつとのアイコンタクトは永遠に取れそうにないな、などとくだらない事を思いつつ、瑞希が戻って来た時の自身の状況を説明してやった。
それと共に、あの出会い頭での怯え切った顔が脳裏に蘇る。
そこでようやく、『可笑しい』という感情が生まれた。
瑞希の怪我を知らされてから、笑う事を忘れていた俺は、おかげでまた一つ、いつもの自分を取り戻せた。
なのに笑みを漏らした途端、「うるさい!」と怒られてしまった。
「お前はさっさと二階に上がって寝てろ!」
何が気に障ったのか、どうあっても俺と居たくないらしい。
それならそれで構わない。
諍いの理由には納得できずとも、「我慢する」と俺を尊重してくれた瑞希の為に、風呂上りに何か冷たい飲み物でも用意しといてやろう、そう思いついた。
が、わざわざ口にするほど野暮じゃない。
それに二階での様子を話していて、冷房なしで寝ていたのも思い出した。
「いや、汗かいたし、俺も寝るより風呂入ってさっぱりしたい気分だ」
浴室に目を向け、瑞希の寝ろ寝ろ攻撃をさりげなくかわす。
これで、風呂が空くのを待つ間、俺の行動は自由だ。
着替えを取りに二階に上がろうが、ダイニングで待とうが、あれこれ詮索される事はないだろう。
実際、読みは完璧だった。
なのに、その一言に瑞希がちゃっかり乗っかった。
「あ、なら一緒に入る?」
「は?」
言葉は耳に入っても、その意味を理解するのに数秒要した。
そして――
何度忠告しても懲りない奴に、呆れた気分で一瞥を投げた。
すると、俺の言わんとする事が珍しく瑞希に伝わった。
「なに、その目。また子供っぽいとか言いたいんだろ」
敏感に反応され、
「よくわかってるじゃないか」
とか何とか適当に返しながら、脳細胞を総動員して断る口実を考えていると、思いがけない方向性でもってゴリ押ししてきた。
「違うって! ほら、俺 怪我してるだろ?」
襟元からのぞく包帯を指で示され、言いたい事を瞬時に理解した。
同時に、いつもはあまり出番のない表情筋が忙しなく動き始めた。
瑞希は間違いなく吉野のおじいさんの直系の孫だ。
頼み事の持ち掛け方がそっくりなのは、血筋としか言いようがない。
俺をこれほど困らせるのも、承諾せざるを得ないよう仕向けるのも、吉野の血がそうさせるのか?
いつもいつも、性欲には淡白な方だという自己分析を、試すような頼み事ばかりする。
俺をここまで翻弄し慌てさせるのは、後にも先にもこの一家しかないんじゃないだろうか。
それが――承諾した後の結果が、自分にとって決して嫌なものではないから……それどころか、おくびにも出せない『願望』だったりするから、尚更厄介なんだ。
あの時もそうだった。
吉野のおじいさんとはほんの数回顔を合わせただけなのに、「ここで、瑞希と一緒に暮らしてくれんか」と頼まれた。
これ以上ないほどの真剣な眼差しでもって。
そう言えば、あの時も暫し固まっていた気がする。
忘れもしない、これまで生きてきた中で間違いなく最高に幸せだと感じた、あの日。
締め括りに落とされた爆弾発言の威力は、それはとても凄まじいものだった。
おかげで俺は今もその威力に抗いながら、問題が勃発する度、その処理に頭を悩ませている。
こんな風に、自分の本心と戦いながら。
「背中とか洗ってくれたら包帯濡れなくて済むし、傷にも障らないだろ。だから助かるなって」
はっきり口にされ、よろけるように入り口の柱にもたれ掛かった。
「やっぱりか」
心で思った事が口を突いて出たのに、「うん」と頷いた瑞希は、俺の胸中なんか気付きもしないんだろう。
ホテルのバスタブが思いがけず狭かった事を引き合いに出し、
「あれに比べたらここなら二人で入っても十分広いし」
などと、にこやかに言う。
「あのな、この際風呂の広さは関係ないんだよ」
無駄だと知りつつ一応反発して見せて、それでも盛大な溜息が零れたのは仕方ないと思う。
ただ、ホテルの風呂では一人四苦八苦していたと明かされ、千藤先生には頼まなかったと察すれば、やはり嬉しさは隠せない。
「確かに背中は洗い辛いか」
独り言のように呟いて、期待に満ち満ちた瞳を向ける瑞希を見遣れば――
お預け状態で待っている奴が、その呟きを聞き逃すわけもなく、
「そうと決まれば着替え取ってくる」
満面の笑みで決め付けられた。「北斗のも持ってくるから、お湯頼む。そろそろ一杯になってるはずだから」
浴室を指差し、口早に告げて俺の横をすり抜けて行く。
その反応の素早さに唖然としつつ、
「俺に拒否権はないのか!」
と後姿に喚いてみたが、それも後の祭りだった。
複雑な想いはあるものの、これ以上あいつを落胆させることなどできず、ささやか過ぎるその願いを聞いてやろうと、渋々ながら腹を決めた。
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