それぞれの事情

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   浴室への引き戸を開けると、蛇口からの水量が妙に少なくしてある。  それでも普段より大目に溜まっているのを見て湯を止め、さっさと服を脱いだ。  瑞希が下りてくるまでに洗髪だけでも済ませておこうと思ったからだ。  傍で洗えば、飛沫が包帯にかかる。  この暑い夏場、傷口からばい菌でも入ったりしたら、それこそ大事になりかねない。  そう思い、急いで浴室に入り、シャワーの取っ手をフックから外しかけて、埋め込みになっている等身大の鏡に映る自分に、ふと目がいった。  ―――大丈夫か? 俺  ……わかるわけない、か。  そう、思わず自問自答したくなるくらいには動揺していた。    瑞希と一緒に風呂に入ったのは、田舎の温泉。  あれ以来何度か行きはしたが、吉野の家の風呂に二人で入るのは初めてで、胸の動悸が治まらない。  それでも、と一縷の望みに賭けた。  体力を消耗している今なら、どうにか乗り切れる気がする。  実際、瑞希に抱きつかれても平気だったし。  シャワーの湯を頭から被りながらそんな事を考えて、思わず一人赤面した。  …ったく、何で俺が一々そこまで気を回さなければならないんだ。  思えば思うほど馬鹿馬鹿しくなってくる。  辺り一面にシャンプーの泡が飛び散るのも構わず、短髪をガシガシ洗いながら、いつまで経っても慣れないどころか、振り回されている自分を自覚していた。  吉野が『みーちゃん』だとわかった時点で、生きていた事はもとより、誰にもない繋がりがあったのが嬉しかった。  反面、何も知らない他人を知っていく面白みや、新鮮さはなくなってしまったと思い、少し落胆した自分が恥ずかしい。  みーちゃんと繋がった後も、あいつは変わらず俺を……俺の心を揺さぶり続けている。 『何をしでかすかわからない、予測不可能な奴』という印象は、二年目の付き合いになる今でも十分すぎるほど健在だった。 「おーい北斗、お前の着替え、Tシャツと短パンでいいだろ」  ドア越しに声を掛けられ、もう下りて来たのかと心臓が跳ねた。 「ああ、サンキュ。先に頭洗ってるぞ、しぶき飛ぶから」  自分の素直な反応に呆れつつも平静を装って答え、髪をすすぎかけて、浴室の床に散った泡に気付いた。  あいつの事だ、この泡に足を滑らせて転倒……なんてオチがないとも言い切れない。  そう思い、瑞希が替えのボディーソープを出している間に、床の隅々、果ては壁に点在する泡まで綺麗に消していった。 「お待たせ~、って北斗、益々日に焼けたんじゃないか?」  壁も床も元通りになり、再び自分の頭をすすぎ始めたところで、背後から声が掛かった。 「なんか…ウエルダン? 美味しそう」  すっかり日に焼けた俺の素肌を下手な冗句でからかうが、真夏のきつい日差しに毎日身を晒していれば、誰でもこのくらいの色にはなる。 「海水浴ならともかく、そんなに焼けるわけないだろ」  適当にあしらいながら、浴室に入ってきた瑞希が濡れないようにシャワーを止めて、後ろを振り向いた。  「そういうお前 ワッ!」  話しかけた声が叫び声に変わるのに、時間は必要なかった。  すぐ目の前に、自身の身体を隠しもしない、生まれたままの姿があった。 「助詞デカッ」  クスクス笑ってボトルを差し出されても、受け取る事なんか出来るかっ。 「いつの間に服脱いだッ!?」  顔を背けて叫んだら、「はあ?」と変な声を出す。 「今に決まってるだろ」  平然と答え、入り口のドアを閉めて俺の目の前にボトルを置いた。  「夏服なんか二十秒もあれば脱げるよ」  自慢げに言いながら後ろにまわり、浴槽に手を入れて温度を確かめる。  が、湯加減よりも気にして欲しいモノがあるぞ!  背後で鼻歌混じりに湯をかき混ぜる瑞希に、絞り出すように告げ……いや、懇願した。 「――頼む、前くらい隠せ」  と。  それなのに、瑞希の大胆な格好の原因が、数日前の俺自身にあったと知り、一糸纏わぬ姿で浴室から脱衣室に出た、あの日の行動を激しく後悔した。  瑞希を遠ざける為に蒔いた種が、こんな形で発芽するとは。  だが、その芽を育てさせるわけにはいかない。  早々に引き抜いておかないと、その内とんでもない実が付きかねない。  そう思い、はっきりと言い切った。 「あの時は、瑞希しかいなかったからだ。俺は他の奴の前で裸を晒したりしない」 「え、ほんとに? 合宿中や甲子園の宿舎でも?」 「当たり前だ。そんなの常識だろうが」  驚きもあらわに聞き返され、『お前は、俺をどんな人間だと思ってるんだ』と言いたくなる。  出の悪くなったボディーソープの頭を身代わりにバシバシ叩いて、情けない気分をどうにかやり過した。 「ったく、人を露出狂扱いしやがって」  力任せに洗剤を泡立てながら、出てくる泡のごとくぶつぶつ言ってると、 「へえ、そうなんだ。なら俺も他の奴の前では止めとく」  後ろから、俺の危惧を肯定するような危険な台詞が飛び出した。 「……是非そうしてくれ」  力なく頷いた俺だったが、その後で瑞希が告げた本心に、キリッと胸が痛んだ。 「なんてね、冗談だよ。俺だって自宅(ここ)以外では絶対無理。北斗もよく知ってるだろ」  さらりと言われ、それまでのやり取りが精一杯の虚勢だった事に気付かされた。 「――ああ、そうだったな」  答える口元が、歪む。  紛らわしい冗談なんか言うな、馬鹿。  お前のその手の冗句は、一々胸に響いて痛い。  口にするお前はもっと辛く苦しい想いをしてるっていうのに、笑い飛ばしてやる事もできないだろ。  そんな事を考えていたら、後ろから腕が伸びてきた。 「それよりさ、それ貸して」  その声で我に返ったものの、何を言ったのか瞬時に理解できなかった。 「背中、これからだろ? 俺も洗ってやる」  こちらの戸惑いを察したのか、念押しするように言われ、事態を飲み込めはしたが、頷くなんて有り得ない。  そう思い素気無く拒否すれば、いつもの如く家訓を持ち出される始末。  挙句の果てに「早く貸せ」と、実力行使で奪い取ろうとするから、イスごと非難する羽目になった。  頑として譲りそうにない瑞希を前に、俺の方が折れるしかなくなる。  こっちの忍耐力をわざと試しているんじゃないだろうか、と疑いたくなるような申し出に、一緒に風呂に入る事を承諾した己の甘さを悔いながらも、本音では、邪な事など微塵も思っていない、瑞希の純粋な好意が嬉しく――  それと同じ分だけ、苦しかった。 「そういえば、北斗がマウンドに立ってるの見て、俺だってひどく驚いたよ」  いきなり切り出された話題は唐突で、まさかここでその話になるとは思いもしなかったが、『驚いた』と言われ、(だろうな)と一人密かに突っ込んだ。 「……やっぱり見てたか」  山崎に聞いてはいたが、本人の口から聞かされるのとでは、受けるインパクトが雲泥の差だ。 「うん。監督が手配してくれたんだ。閉会式終わって即テレビのある部屋に走ったよ」  その時の状況が容易く脳裏に浮かび、口元に笑みが浮かぶ。  あんなに俺達の試合を見に来たがっていたんだ。  たとえそれが自分の試合終了直後でも、テレビ中継という媒体越しでも、一番に駆け出したに違いない。  それほど楽しみにしてくれていた。  それなのに……。 「――ごめんな、瑞希」  ぽつりと零れた謝罪の言葉。  資格もないのに、あれだけ多くの応援に後押しされながら、初勝利を手にする事も叶わなかった。 「甲子園、呼んでやれなくて。お前の怪我を怒るより先に、謝るべきだった」  顔が見えなくてよかった。  こんなに沈んだところなど、これまで誰にも見せたことない。  気取られた事すらないはずだ。  そうそう落ち込む事もない俺だが、今夜はどうも駄目だ。  瑞希のマイナス思考が移ったみたいに、浮上するきっかけが見えず、滅入るばかりだ。  一昨日の、明峰との試合開始直前に教えられた決勝進出の一報は、間違いなく野球部への追い風となって、普段以上の力を発揮させてくれた。  県予選に始まり、玉竜旗大会、全国大会と、瑞希は見えない力で俺達を高みへといざなう。  こんな事を比べるのはどうかと思うが、やはり瑞希のもたらすそれは、他のどんな応援よりも効果絶大だった。  日本独特の武道が……穢れない精神がそうさせるのかわからないが、もしも剣道がもっとメジャーなスポーツに位置付けられていたとしたら、瑞希は間違いなく俺達以上に注目を集めただろう。  そんな人間に、俺のした事と言えば――  自己嫌悪の固まりと化し, 静かに落ち込んでいたら、同じく沈黙していた瑞希が、また俺の身体に腕を回し、抱き締めてきた。  今度は泡の上からそっと、滑らせるように。 「いいんだ」  囁きにも似た呟きが、背中に押し当てられた額から直に響いて、感情の波を抑えているのが伝わって、俺の方が何も言えなくなる。  何もかも許してしまう瑞希に、苛立ちは少しも感じない。  もっと我侭を言って欲しいとか、はっきり責めてくれた方が楽だ、とも思わない。  その代わり、いつまで経っても離れようとしない瑞希に、愛しさが募る。  普段の俺以上にスキンシップ過多になっていると感じるのは、気のせいなんかじゃない。  やたらひっついてくるのは、さっきの言い合いが原因なのか、それとも一人でいる時間が長かったせいで人恋しくなっているからか。  いずれにしても、これ以上密着されると俺の方が冷静でいられなくなる。 「――瑞希、包帯濡れる」  そんな想いを悟られないよう、さり気なく声を掛けた。  自分一人で克服する強さが必要だと、スランプの事を打ちあけなかった。  それなのに結局瑞希にばれてしまい、その後は気遣わせてばかりの情けないことになってしまった。  そして今も、強く抱き締める腕を自ら離す事ができない。  それでも、と思う。  こんな俺でも慕ってくれる瑞希に、相応しい自分でありたい。  その精神の気高さの半分でいい、俺にも勇気が欲しい。  回された愛しい腕を、外すための勇気が。 「交代。お前に任せといたら、朝までここに居座りそうだ」  前に回された両腕に手を掛け、やんわりと外させ、イスを譲った。
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