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瑞希の望み通り、包帯の際から背中全体を丁寧に洗っていく。
ただし人の背中など野球部のメンバー以外洗った事がないから、力の加減がわからなくて困る。
あいつらのは見た目通り、日焼けした頑丈極まりない皮膚をしているから、どれほど力を入れて擦っても大丈夫なんだが、瑞希のは違う。
真近で見て、触ると、一層はっきりその違いに気付かされる。
日焼けしてない全身は女性と見紛うくらい白く、キメの細かな滑らかな肌は、触れるのが恐いほどで―――
止め! 駄目だ、女と比べるなんて!
自分の首を自分で絞めてどうする。
危ない方向に思考が行きかけたのを辛うじて踏み止まり、無我の境地で洗うことに集中していると、こっちの健気な抵抗に気付きもしない奴が、またろくでもない事をお願いしてきた。
「頭、ついでに洗ってくれないか?」
そう持ち掛けられ、あと少しで終わると耐えていた俺の、タオルを持つ手が止まった。
「……面、今日は被ってないだろ」
暗に「我慢しろ」と促したつもりだった。
なのに瑞希にその気は更々ないらしい。それどころか、
「昨日は被りまくってたよ。けどさすがに頭までは洗えなかったから」
などと、とんでもないことを暴露する。
「当り前だ!」
昨日の風呂でさえ普通は控えるもんだろう、と怒鳴りたくなる。
気付けばチームメートにするように、目一杯本気の力で背中を擦りかけていた。
「イタッ、痛いよ北斗。さっきと今の中間にしてくれ!」
悲鳴に近い声で訴えられ、我に返って謝った。
瑞希からは「なんでそう極端なんだ」とぼやき声が上がるが、『お前が余計な仕事を増やすからだろう』と言いたい。
もう何も言わず、きっちり背中だけ洗ってやり、固く絞ったタオルで包帯の近くの水気を丁寧に拭き取った。
その間、瑞希も口を利かなかったのは、こっちの意向を気にしていたからだ。
俺と同じに黙り込むその胸中を想い、短く嘆息して向き合った。
「で、どうすればいいんだ?」
「え、何を?」
きょとんと聞き返され、わざと素っ気無く告げる。
「頭、洗うんだろ。どの態勢で洗えばいいか訊いてんの」
言うのと同時に、瑞希が喜色満面で振り向いた。
「ホントに!? いいの?」
嬉しそうな表情は、再会してから一番の笑顔だ。
そんな顔を見せられたら、もう「嫌だ」とは言えない。
ズルイよな、と思いつつ、洗い終えた時の為に乾いたタオルを脱衣場に取りに行き、戻ってみると、瑞希が浴槽の中でグルグル回っていた。
「何やってんだ、お前は」
まるで子供だ。
いや、まだ半分以上子供な奴だった。
こんな面を見せるから、成長も四、五年……それ以上に遅れているのでは、と、真剣に思えてくるんだ。
「は~、この絶妙な湯加減、もう最っ高!」
心から満足げに、バスタブの中で湯と戯れている。
確かに、ホテルの狭いユニットバスでは、これほどゆったり湯に浸かるのは無理だ。
それに試合を控えた身では、俺達同様、寛ぐ時間さえなかったはず。
唯一、夕べだけはのんびりできただろうに、この怪我のせいで限りなく制限されたに違いない。
気持ちよさそうに湯の感触を楽しむ瑞希を眺めていて、そんなに水が好きなら、怪我が治ったらマリンパークのプールにでも誘ってやるかと思いついた。
『カナヅチ』って事もないだろうけど、もし泳げなかったら教えてやれる。
インストラクターは俺のバイト内容の一つだ。
そこで唐突に思い出した。バイト、もう随分行ってない。
和泉高校の代理として全国大会への出場が決まったその日に、報告も兼ねて謝罪しにマリンパークに行くと、
『甲子園から戻るまで、気長に待ってるよ』
と、スイミングスクール責任者である片平さんに逆に激励されたが、こうもいい加減な事をしていれば、さすがに気になる。
向こうにとってはたかがバイト、代わりは沢山いるだろうが、俺には死活問題だ。
早めに復帰の挨拶をしに行かないとやばい。
急に心配になり、頭の中で明日の予定を組み直していると、下からのんきな声が掛かった。
「んじゃ、よろしくお願いします」
頭を浴槽の縁に出して俺を待つ奴が、『リードを付けろ』とせがむランディーと重なるのは、何故だろう。
向かい合うようにイスを動かし、腰を下ろして、シャワーの湯加減を確かめる。
目の前で俯く瑞希の耳元に手を添え、うなじから下に向かって湯を掛けていった。
こんな事、床屋でされた事はあっても、誰かにした事なんて一度もない。
またしても初めての体験、だ。
ただ相手が瑞希だからか、さほど緊張もせずどうにか真似事みたいな洗髪にはなった。
一度目は少し多目にシャンプーの液を取り、ざっと洗い流す。
二度目は少量でしっかり、尚且つ丁寧に洗ってやると、それまで結構饒舌だった奴が急に黙ってしまうから、何となく気詰まりになった。
ど素人の俺が洗っているんだ。もしかしたら息がしにくいのかもしれない。
そんな心配が沸き起こり、ちょっとふざけて話しかけてみた。
それこそが、間違いの元だった。
瑞希はいつもと全く変わりなかった。
どうやら自分の世界に浸っていただけらしく、俺の呼び掛けですぐに現実へと戻ってきた。
それどころか―――
俺の指が気持ちいいなどと臆面もなく言うから、思わず自分の手を見詰めた。
直後に俺を襲った激しい羞恥は、よからぬ事を妄想してしまったせいだ。
自分が赤くなった自覚が有り過ぎて、顔を上げかけた瑞希の頭を思わず押し付けた。
一瞬とはいえ、邪な事を考えた直後の表情なんか見られてたまるか。
そう思い、俺も必死だった。
その甲斐あって顔を見られる事はどうにか阻止できた。
なのに肝心の『息子』が、俺の努力をあっさり裏切った。
ヤバイと思えば思うほど、身体の中心に熱が篭る。
それは、どうにも治まりそうにないほど昂ぶりを見せ始め――
鎮めるのは無理だと諦めて、細く息を吐いた。
瑞希の肌を見ても反応を見せなかったのは、確かに体調不良もあるかもしれないが、自分を抑え続けていたからこその成果だった。
それが、何気ない一言であっさり瓦解してしまった。
とにかく、気取られないようさっさと終わらせなければ。
それだけ考えて、焦る気持ちをひた隠し仕上げのトリートメントまできっちり施した。
すすぎ終え、液を綺麗に流しきり、バーに掛けていた乾いたタオルで水気を拭き取ってやる。
仕上げにそのタオルを肩に掛け、「終了」と告げた。
これでようやくお役御免だ。
瑞希がいなくなれば後はどうとでもなる、そう考えていた。
まさか、俺の変化が瑞希にばれていたなど、思いもしなかった。
「俺を早く上がらせたいのって、そのせい?」
唐突に言われ、視線の先を追った俺は、気まずさもあって、つい舌打ちをした。
それが、瑞希にどんな影響を与えるか、考えもせずに。
「気付いてたのか」
顔も見ずに問えば、
「うん。……あの、ごめん」
と頭を下げる。
自分のせいだという自覚があっての事か、気付いてしまった事への謝罪なのか、判断に迷う。
だが、どちらにしても謝るべきは瑞希じゃない。
「別に、お前が謝る事じゃないだろ。俺の鍛え方が足りなかっただけだ」
クスリと笑ってみせたが、とても上手くいったとは言えないものになってしまった。
「けど……」
まだ何か言いたそうにする瑞希を、敢えて遮った。
「ちょうどいい。ちょっと外してくれるか? 俺もこのままじゃ辛いし」
瑞希にはわからないだろうから、きっぱりと言った。
知られたなら仕方ない。
みっともないことこの上ないが、はっきり告げれば、たとえ自分の身体が途中までしか洗えてなくても、瑞希は出て行ってくれる。
その確信があった。
ところが――
「あの、出ないとだめ?」
普段の瑞希なら有り得ない言葉がその口から飛び出したりするから、いきなり不安になった。
「……お前、また『見たい!』とか言い出すんじゃないだろうな?」
俺が隠そうとするものは、何故か異様に見たがるのを思い出し、恐る恐る訊いてみた。
すると、頭を洗ってやると言った時以上に嬉しげに、瞳を輝かせた。
「え、いいの?」
そう返されるとは思いもせず、自分の台詞をむきになって否定した。
ブンブンと首を振ったのを見た瑞希が、あからさまにがっかりした様子で、「だよなぁ」と頷く。
『わかってるなら言うなよ』
声にならない文句を心中で言い放ち、言葉の代わりにじろっと睨み付けた。
つもりが、浴槽の中、勢いよく立ち上がった瑞希の身体に、もろに焦点が合った。
慌てて顔を逸らしても、目に焼きついたそれは消えてくれない。
見ないように意識しすぎて、完璧逆効果になっていた。
数学の公式か英語の文法だったらよかったのに。
そんな事を思うくらいには、しっかり脳裏に刻まれてしまった。
瑞希のそれは、少年期から大人へと変わる前、ほんの僅かな瞬間の狭間に醸し出される、独特の穢れない清純さで――
俺にも、確かにそんな時期もあったのに、他人の身体だと……いや、瑞希だから、か。
とにかく、受ける印象が全然違う。
見てはいけないものを見てしまった罪の意識に苛まれつつも、その清らかな肢体に惹かれずにいられない。
顔を背けたまま、一刻も早く瑞希が出て行くのを待っていた俺は、その時、瑞希がどんな表情をしていたのか、まるで気が付かなかった。
ドアが開き、ホッと息を吐いたのと、
「ごめん、北斗」
振り向いて謝った瑞希の言葉とが、重なった。
「またか。もういいから」
『悪いのはお前じゃない、謝る必要なんかない』
そう言ってやればよかったのに、瑞希の身体に目を奪われた自分が、少し…恐かった。
プールの監視員兼、インストラクターなんかしていれば、女性の裸に近いような格好を目にする機会などいくらでもある。
にも拘わらず、男の真の欲望など、これまで感じた事もない。
胸をやたら強調させる水着を着て、俺を煽る大人の女性なんか端から受け付けない。
Tバックの下着みたいな水着で、自慢のボディー……なんだろう、見せびらかされても、何の感情も沸かない俺は、どこかおかしいのかも。
それなのに、さっきは明らかに違っていた。
目の前の、大人になりきれないと嘆く瑞希を、綺麗だと思ってしまう。
だから、遠ざけようとした。
そんな心中を察せられるはずもないのに、振り向いた瑞希の切実で素直な言葉が、逃げかけていた俺の心を貫いた。
「――俺さ、ホントにそういうの全然わかんないから、……男なのに、男の身体って今一理解できなくて……」
それを、男のお前が口にするのに、一体どれほどの勇気が必要なんだろう。
声を詰まらせてまで言わなければならない事なのか?
辛いなら、何も言う必要ない。
お前の気持ちはわかっているから、黙って出て行って構わないんだ。
そう、思っていた。
「……好奇心、旺盛過ぎた」
その言葉を聞くまでは。
「北斗のプライバシー、侵害する気なんか更々ないから、許して」
それだけ告げて、足早に浴室を出て行った。
さっきまで手の届くところにいた俺達が、半透明の壁に遮られる。
残された俺を包んだのは、瑞希がいなくなった事への安堵―――
なわけなかった。
壁を作ったのは、俺。
締め出したのも。
瑞希の本心も気付かずに、自分の身体の欲求だけ、当然のように優先させていた。
……馬鹿だ、俺は。
瑞希は最後まで、俺を尊重してくれたのに。
『出ないとだめ?』
あれは、間違いなく瑞希の本音だった。
知りたいんだ、きっと。
誰にも言えなくて、ようやく俺にだけ明かす事ができた、重すぎる悩み。
相談できるのも、それについて話せるのも、俺しかいない。
なら、それを教えてやるのは、俺でありたい。
あいつのおかげで、初めての体験を沢山してきた。
一度くらい返しておかないと、割が合わない。
―――大丈夫…だよな。
暴走、したりしないよな。
ちらっと視線を下に移せば、あれこれ考えていたせいか、そこにはすっかりしおらしくなった自身が。
……なんだ。
結局俺も、瑞希がいないと駄目みたいだ。
そうと気付いて、一人密やかに笑みを洩らした。
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