光明

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   どのくらい経っていただろう。  その間、あまりにもガチガチに緊張している瑞希をどうにかしてやりたいと、ずっと考えていた。  そこで、部屋での会話を思わせるように、「なあ、瑞希」と呼び掛けた。  ところが、「は、はい?」と返された声が、すでにいつもの(もの)じゃない。  笑うところではないが、瑞希を相手にしているとどうも調子が狂う。  ある程度予測はしていたが、それを遥かに上回る態度が、ありがたいことに俺の強張りをどんどん解していった。 「……そんな緊張するなよ。俺にまで伝染(うつ)る」  微かに笑んで言えた俺は、普段の自分をかなり取り戻していた。  一方の瑞希は、と言うと、未だだんまりを続けている。  きっとどうしていいかわからないんだろう。  当然だ。  生まれて初めての体験をしようとしている。  いや、正確には『見る』のか。  どちらにしても隣でこれほど緊張されていると、俺の方が無理な気がする。  細く息を吐き出して、瑞希の右手首をおもむろに掴んだ。  甲子園のマウンドで、駿が落ち着く為に俺の心音を聴きたがったのを思い出したからだが、手首を掴まれた瑞希が、「あっ」と声を上げた。  それが妙に切羽詰ったものに聞こえ、ああ、と思い出した。  去年の春、大川の土手で俺の身体の昂ぶりを教えるのに、このシチュエーションで導いた、それと重なったらしい。  だが、今はそんな心配無用だ。 「怯えなくていい、ほら」  そう言って、瑞希の手の平を俺の心臓の上に押し当ててやると、瑞希が戸惑いつつも少し顔を上げる。  それだけで、俺の心臓が昨日の試合以上に激しくなった。  正直すぎる反応に、苦笑が浮かぶ。 「瑞希にもわかる? 俺の心音。すごいドキドキしてるだろ」  隠す必要も飾る必要もない。  ありのままを教えると、瑞希にもその意図が伝わったのか、やっと会話が成立した。 「え、うん。…駿にも、これを伝えてたのか?」 「ああ。あそこじゃこれが一番手っ取り早く、みんな一緒だって伝わるからな」  言いながら、何万人もの歓声が脳裏に蘇る。  あんな体験、そうあるものでもないというのに、たった一人の存在がそれをこうも簡単に凌駕してしまう。  そんな事、気付きもしないんだろうと思いつつ様子を伺えば、瑞希も思い出したのか、固かった表情がほんの少し和らいでいた。 「そうか、…そうなんだ」  やたら神妙に頷いて、「なら」と、初めて俺を見返した。 「今は北斗、俺と同じ?」  そう訊かれ、頷きかけて止めた。 「いや、多分お前以上に緊張してる」  なんせ人前でするのは初めてだ。  誘いはしたけど勃たない、なんて事になったらどうすればいいんだ。 「それはないよ」  心の声を聞いたように返され、横顔を見ると、「でも」と付け足された。 「うん、ほんのちょっとだけど、落ち着いた」  そう言って、ようやく微かに笑みを浮かべた。  横顔はまだいつも通りとは言えないが、笑えるようなら大丈夫か。  そう思いほっとしつつも、少し、話しておきたい事があった。   「ところで話、戻すけど」 「うん? 何?」 「さっき出て行く時、『男なのに男の身体って今一理解できない』って、言ったよな」  心に突き刺さった瑞希の本心。  それは同時に、瑞希に対する俺の気持ちでもあった。 「あれ、俺も一緒だから」  もちろん、俺が言いたいのは、大人の男の身体についてではない。  だが、瑞希にとっては意外な一言だったんだろう。  先を促すように首を傾げられ、今の正直な気持ちを明かした。 「瑞希の事、よくわかってるつもりだったけど、本当は少しも見えてなかった気がする」 「そんな事」  と口を挟みかけた瑞希の言葉に、俺の独り言が重なった。 「いや、違うか。…お前が『みーちゃん』だったとわかった時点で、いつの間にか『吉野瑞希』に、俺の思い描いてた『みーちゃん』のイメージを重ねていたのかもしれない」  言葉では、上手く伝えられないこの気持ち。 『吉野瑞希』という、初めて会った人間に対して接した半年と、『みーちゃん』だったと知ってから一緒に過ごした十ヶ月余り。  振り返って比べれば、前者は間違いなく無の状態で、後者は無意識の内にみーちゃんならこうするだろうという仮定の上で、接してきたのかもしれない。 「はあ? …なんかよくわからないんだけど」  瑞希の眉間にしわが寄る。  それもそうだろう。俺自身、『瑞希』と『みーちゃん』の違いを見極められないでいるのだから。  ただ、あの頃のまま離れ離れにならずに季節(とき)を過ごしたなら、みーちゃんはおそらく怪我した事、俺に一番に報告していた気がする。  そして―― 「ああ、俺もわからなくなってきた。けど、もしお前がみーちゃんとして、ずっと俺の傍で一緒に成長していたら、こんな真似、絶対しなかった」  それは、ほぼ確信に近い憶測。  その時、みーちゃんは俺の中で確実に孔太郎や西沢達と同列になっていた。  もしかしたら、三人揃って野球浸けの日々を送っていたかもしれない。 「だから、実は今、お前を誘ってみたものの、それがこれから先の瑞希にとっていいのか悪いのか、さっぱりわからないんだ」  そこのところを伝えておきたかった。  問題は俺の気持ちではなく、瑞希の未来。  何も知らない方がいい時だってある。  自ら望んだとしても、後で瑞希が後悔するような事になれば、悔やんでも悔み切れない。  田舎の友達、和彦の一件を思えば、教えてやりたい反面、この後、俺達の間が多少なりと気まずくなるのは必至で、実はそれが一番気がかりだった。  窓からの淡い明りが、瑞希の横顔をぼんやり照らし出す。  表情を読み取ろうと至近で見詰める俺の目の前で、その頬から恥じらいが消え、瞳に少なからず落胆の翳りを映した。 「……それ…って、声掛けた事、やっぱり後悔してる、って…こと?」  そう訊く声が余りにもしょぼくれていて……お預けを喰らったランディーみたいで、そんなつもりじゃないと逆に言い切って、自分で自分に首を捻りたくなった。  俺自身、こんなに迷っているというのに。  それなのに、こんなにも優柔不断な俺を信用し切っているんだろう、否定の言葉を聞いた瑞希が、あからさまに安堵の息を吐いたりするから、あれこれ悩むのが急に馬鹿らしく思えてきた。  本当に、好奇心の塊だ。  ……いや、何年も蓄積されてきた苦しみが、こんな行動に駆り立たせているのか。  いずれにしても、煮え切らないのはどうやら俺の方だ。  瑞希は完全に腹を括っている。  その相手が俺でいいなら、もう何も迷う事はない。 「――もし途中で気持ち悪くなったり、嫌だと感じたら、気遣ったりせず出て行けって、言っときたかったんだ」  万が一にでもそんな事になったら、俺の方がトラウマになりそうだ。  けど、無理は絶対させられないから、そこのところだけはしっかり釘を刺しておく。 「え? 気分悪くなったりするの? 俺」  真剣な顔で不安そうに聞き返すところが、可愛い。  なんて口にしたら、きっと即行で小突かれるだろう。 「感じ方は人それぞれだ。けど、お前の事だ。変に意地張ったり我慢したり、そういうのなしだからな」  そう言ってやると、瑞希もこくんと頷いた。 「――ん、わかった。嫌だと思ったらすぐ出て行く。けど俺、ほんとにここに居ていいの?」  さすがに遠慮する気持ちも多少はあったのか、念を押す瑞希にちょっと意地悪をしたくなった。 「ああ。その代り、お前にも手伝ってもらうから」 「え? あの、何を?」  戸惑いも露わに首を傾げる瑞希の、右手首をためらいなく掴んだ。  導いた先は、今度こそ『息子』のところで。  実は瑞希以外、触れさせるのはもちろん、風呂以外で誰かに見せた事もない。  当然、セックスの経験なんか皆無だ。けど、それがどうだって言うんだ。  朝から晩まで部活オンリー、彼女を作る暇もない。  そんな男子高生なんか、その辺にごろごろしている。  そいつらより、半歩ほど踏み出すだけだ。  それが正しい方向に向かえているかは甚だ疑問であるが、俺の横でドギマギしている奴を思えば、まぁ踏み外すのもたまにはいいか、と鷹揚な気分になるから不思議だ。  川土手での時と同じ、半ば強引に押しつけて、自身を少しだけ高めてやる。  瑞希には迷惑だろうが、このまま俺が自分で触ってイクなど、真っ平だ。  ましてやそんな痴態を瑞希に見せるだけなんて、変態とさほど変わらない。  そこだけは譲れない、俺のささやかなプライドだった。  とは言え、ついさっき「気分悪くなったら出て行け」と言った手前、様子は気になる。 「どう? 大丈夫か?」  黙ったままの瑞希に視線を送ると、案の定、頬を朱に染めながらも、小さく頷いた。  その姿は、突然の俺の行動と反応にわけもわからず怯え、ただ驚くばかりだった、一年前の川土手での時とは明らかに違っていた。  だけでなく、 「あれ? 何で? さっきと違……」  実況中継されかけた。  言いかけた瑞希もさすがにまずいと察したらしく、すぐに口を噤む。  おろおろと視線を泳がす狼狽振りは面白いが、それをからかうほど悪趣味でもない。 「気にするな。お前が出て行ったら急に淋しくなって、こっちも元気なくなった」  本当の事を、その場限りの出まかせのようにコーティングして誤魔化す。  信じる信じないは、瑞希の心一つ。  例えそれが事実でも、重荷になりたくはない。  ただ―― 「またいい加減な事を……」  予想通り睨みつけられ、「いいや」と首を振ってみせた。 「嘘じゃない。だから呼び戻したんだ」  一度は反応を見せたのに萎えてしまい、また瑞希を必要としている。  こんな風に扱われるのは、彼の自尊心が許さないだろう。  そうと知っていてわざと言葉にするのは、精神的負担を少しでも軽くしたいから。  呼び戻したのは瑞希の為ではなく、俺の勝手な都合だと思ってくれればいい。  そんな風に考えていた。  なのに今夜の瑞希は、ことごとく俺の読みの一歩先を行っていた。
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