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「久しぶりに会ったのに、何をそんなに怒ってるんだ? そりゃ電源入れ忘れたのも連絡しなかったのも、確かに俺が悪かった。軽率だったし反省してる。けどすごく忙しかったんだ。それくらい――」
「わかってるそんな事! それでも腹が立つんだ、仕方ないだろ」
乱暴に言い捨てられて、開いた口が塞がらない。
「なに、その支離滅裂な言い分」
「人事みたいに言うな! 俺だって…心から祝ってやりたかった。お前が……一生消えない傷を負わされたりしなければ」
苦しげに吐き出された本音に、怪我の程度がバレバレだった事を知り、咄嗟に俯いた。
そして「あっ」と、気付かされる。
もしかして、北斗も監督と一緒なのか?
準決勝で突きを食らって負けたとしても、怪我するよりましだと、そう思ってるんだろうか?
「北斗…も?」
尋ねる声が、微かに上ずる。「試合に勝つより、無傷な方が…よかった?」
「――誰が、そう言った?」
「監督」
答えたら、少しだけ首を振り、「いいや」と言う。
横顔にはっきりと憤りが見て取れた。
「嘘だ。絶対そう思ってる」
「思ってない」
「だって、声が恐い」
ぼそっと告げたら今度は本気で怒り出した。
「うるさい! それくらい我慢しろッ」
「うるさいのはそっちだろ、一々喚くな!」
精一杯の反論は、北斗の意外な一言で空中分解した。
「八つ当たりくらいさせろ! 抑え込んでたらジレンマでどうにかなりそうだ」
「ジレンマ……」
って、何で?
「お前が…ほんのちょっとでも怪我した事を気に病んでたら、こんな気分にはならなかったんだ」
「それ、どういう意味?」
言わんとする事がまるでわからない。
それでもどうにか理解したくて聞き返しても、
「お前のその平然とした態度が、俺の神経を逆撫でするんだよッ」
ただ、逆鱗に触れただけ。
どうしていいか見当も付かず、途方に暮れてしまう。
「何で? わからないよ俺には。北斗は準優勝でも純粋に喜んでくれると信じてたのに、さっきから怒ってばっかりだ」
「当たり前だ!『おめでとう』なんて、言える訳ないだろッ」
その一言が、これまでにない衝撃を伴って胸に突き刺さった。
「え、なん……で?」
一番大切で、誰よりも頼りにしていた奴から投げ付けられた言葉。
何度も俺を励まし力付けてくれた、その口から放たれた激昂が、必死に頑張ってきた三日間の全てを否定したようで、何も考えられなくなった。
監督に、「負けた方がましだった」と言われた時とは比較にならないほどのショックが、俺を襲う。
そんな自分に戸惑いながらも、懸命に言葉を紡いだ。
「俺、北斗の試合見に行けなくても……全力尽くすって…決めて、必死に頑張ってきたのに。…優勝はできなかったけど、準優勝でも北斗は……喜んでくれるかな…って、それだけ……楽しみに――」
言い募る内、どうしようもなく悲しくなって鼻の奥がツンと痛くなる。
グスッと啜り上げただけで、
「泣くなッ」
容赦ない言葉が低く、鋭く、脱衣室に響いた。
バンッ!と戸口の引き戸に平手を叩き付けられて、ビクッと身体が竦む。
「泣きたいのはこっちだ。山崎に事情を知らされた時の情けなさ」
チッと、苛立たしげな舌打ちが届き、涙で滲んだ視界のまま北斗を見返すと、叩き付けた手の平を固く握り締めた。
その拳が微かに震えていて、わけがわからないなりにも憤りの深さを直に感じて、何も言えなくなった。
「――大した熱でもないのに皆に言いくるめられて、病院のベッドでのんきに寝転んでたんだぞ」
絞り出すように告げられたのは、慰労会を欠席していた間の北斗の状況。
恐らく西城高での混乱を避けるため、生徒会と連携した水面下での根回し、だった。
「その間、瑞希に会うのだけを楽しみにしてたんだ。それが、ようやく会えると思った学校で、お前の怪我を本人以外の奴から聞かされて、しかも慰労会に出たその足で病院に向かったと教えられて、…俺が――」
ふつっと途切れた言葉。
いぶかしむより先に、北斗が再び口を開いた。
「俺がどれだけショック受けたか、お前に見せてやりたい」
悔しげに唇を噛み締められても、自分の事で一杯で掛ける言葉が見つからない。
浮かんだ涙を手の甲で擦り、
「そんなの……」
と、口ごもった。
なら、昨日の内に怪我した事を教えておけばよかったのか?
あんなに……脱水症状起こすほど頑張って疲労困憊してた奴に、追い討ちを掛けるような真似。
例え北斗がそれを望んだとしても、できるわけない。
俺は怪我した事に後悔がなくても、北斗はきっと自分の事以上に落ち込むだろう。
それがわかっていたから余計言い辛かった……言えなかったんだ。
口を閉ざしたままの俺を一瞥した北斗が、遣り切れない想いを吐き出すかのように、大きく息をついた。
「俺は、千藤先生みたいに大人じゃない。だから、お前の努力を思いやって言葉を選んだりできないし、する気もない。第一、俺の憤りはもっと単純なものだ」
「………」
そう言われ、黙って耳を傾けた。
北斗の怒る理由、それは……
「一番大切にしてるものを傷付けられて、それを笑って許せるほど、俺の許容範囲は広くない。ましてその対象がお前なら……瑞希を傷付ける奴は誰だろうと許さない」
「違う! 俺を傷付けてるのは戦った相手じゃない、北斗じゃないかッ!」
相馬君は、もう十分すぎるほど傷ついていた。しかも実の父親のせいで。
そんな彼を、北斗まで責めて欲しくない。
そう思い、堪らず涙声で言い返して――
怒りを隠そうともしない眼差しに射抜かれ、言葉を失ってしまった。
初めて見せた北斗の凄まじいまでの怒気に気圧され、流されそうになる。
そこでようやく気が付いた。
これは『憎しみ』だ。俺を傷付けた相手――相馬君に対する激しい憎悪。
理解した瞬間、これまでの態度の全てに合点がいった。
俺が少しも気に留めなかったせいで、余計相手への憎悪を煽ったという事実も。
もしかしたら夕べ怪我した事を北斗に伝え、文句なり愚痴なり言っていれば、それなりの対応をして済んでいたのかもしれない。
その機会すら与えられず、憤りだけが膨らんでしまったらしい。
意外だったのは、落ち込むとばかり思っていた北斗の正反対のこの反応。
こんなに怒気を露わにするなんて本当に初めての事で、加納君に会いに行った帰り道、揉めた事すら些細なものに思えてしまう。
それほど今の北斗には、殺気に近い感情が漲っていた。
その引き金になったのが俺の怪我だというなら、俺を思ってくれる気持ちは痛いほど伝わってるし、大切にされていると十分過ぎるほど実感できる。
その事は、正直嬉しい。
それでも、ここで俺が折れたり、引いたりするわけにはいかない。
「怪我なんか…関係ない。時間が経てば治るんだ。けど心の傷は違うだろ?」
深く息を吸い込んで、それまでの感情を必死に抑えどうにか言葉を紡いだ。
「俺は北斗の……野球部の為に頑張ったんだ。それをお前は全部否定するのか?」
「それとこれとは」
「同じだよ!」
言いかけた北斗を遮り、思いの丈をぶつけていた。「怪我したってなんだって、俺は勝ちたかった。それをそこまで拒絶されたら――」
口にして、改めて気付いた、『拒絶』。
北斗は、俺が怪我した時点でその後の結果を受け入れてない。
それが悔しい。
なら、俺がこれまで必死に戦ってきたのは、一体何の為だったんだ。
まるで意味のないものだったのか?
そんなはずない。俺の選んだ道は、そんな甘い世界じゃない。
「俺が…今日まで支えにしてきたものは、怪我したら危ないとか、危険だからさせられないとかいう中途半端なものじゃないんだ。危険なのは十分知ってる。それを承知で剣道を選んだ」
北斗が、何か言う前に―――
そんな焦燥に駆られ、口早にまくし立てていた。
「それでも許せないって言うなら、もういい。北斗なんか知るか! 俺はお前の人形でもペットでもない、意思を持った生身の人間だ。半人前でも俺の身体だ。どうなろうと俺の勝手だッ」
言ってから、ハッとしてすぐにきつく目を瞑った。
北斗の手が、ヒュッと振り上げられたからだ。
また感情に任せてバカな事言った。
自分の勝手だなんて思ってない、大切にしようって決めたばかりだったのに。
ぶたれて当然。
そう思い覚悟した俺は、いつまで経っても感じない痛みに、閉じていた目をそろそろと開けてみた。
目の前で、右拳を固く握った北斗が顔を背け俯いている。
そこに、さっきまで纏っていた激しい怒気は、感じられない。
ただ――
その横顔が言いようもないほど哀しそうで……
北斗の、俺を気遣う優しさまで踏みにじった気がして、川土手でぶたれた時以上の後悔が、どっと押し寄せてきた。
むきになって言い返したのは、俺が怪我を負ったせいで『剣道』そのものを否定されるかもしれないと不安になったから。
以前にも訊いた事がある。白井先輩と稽古していて打ち身を負った時。
『もしかして、剣道…嫌いになった?』と。
相手を直接怪我させるかもしれない。その不安は常に付きまとう。
北斗に対してだけじゃない、田舎のじいさんはともかく、ばあちゃんは特にそうだ。
自分の大切な人に剣道の危険性を指摘される事が、俺は一番恐い。
生き甲斐を否定されるみたいで、それは俺にとって半身をもぎ取られるようなものだ。
あの時北斗は、
『嫌いになんかならない』
そう否定してくれた。
だけどその表情には自己嫌悪みたいなのが浮かんでいて、それがなんだか無性に気になっていた。
北斗に剣道を悪く言ってほしくなかった。
北斗も剣道も、俺には何よりも大切な、かけがえのないものだから。
その想いからの焦り、だったんだ。
「北斗、ごめん、俺……」
「――なんで謝る。謝るのは俺の方だ」
それまでの激情を消し去ってしまった淡々とした物言いに、いきなり不安になる。
「だって、心配してくれたのに、酷い事……言った」
「悪いのは俺だ。お前の言うとおり、瑞希の人生は瑞希のものだ。怪我しようが病気になろうがそれを第三者が偉そうにとやかく言う権利なんか、初めからなかった」
冷ややかに告げられたのは、俺の放った言葉への応え。当然の結論だった。
言わせたのは俺。
こんなに寒々と聞こえるなんて、思いもしなかった。
まるで俺と北斗の間に、目に見えないバリヤが張られたみたいだ。
テレビ画面を通して見ていた、あの画面の向こう側にいるような感覚。
手を伸ばせばそこにいるのに、目の前の北斗が言いようもなく遠く感じて……もどかしくてたまらない。
「北斗……」
「けど、悪い。今は……頑張ってきたお前を祝う気に、どうしてもなれない」
ぽつりと零し、脱衣室から出て行きかける。
その後を追って、羽交い絞めするみたいに抱き付いた。
北斗が一瞬息を詰める。構わずに、力一杯抱き締めた。
「――いい。我慢する」
肩口に頬を押し付けて、離れて行きそうな身体を必死に繋ぎ留めた。
「誰よりも北斗に祝って欲しかったけど、…欲しいけど」
その代わり、背中を見せるなよ。
後姿は飽きるほど見てきた。
グラウンドで、マウンドで、躍動するユニフォーム姿。
それは俺の知ってる奴とは思えないほど凄くて……眩しくて。
いつか置いていかれる事を、予感せずにいられない。
だからせめて今、この家でだけは傍にいて、俺だけの北斗でいて欲しい。
目を逸らさずに、俺を見て欲しい。
自分勝手で我侭な願い。
十分承知しているから、口には出せないけど……
心に願うだけなら許されるだろうか。
北斗は?
今、なに考えてる?
逃げるでもなく黙って佇む北斗が、途方もなく遠い。
こんなに近くにいるのに、お前の気持ち、俺にはわからない。
それが嫌で、一層強く抱き締める腕に力を込めた。
硬くなった手の平が、俺の手に重なる。
上からそっと包まれて、たったそれだけの事なのに、言葉にできないほどの安堵が心を満たしていった。
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