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このままじゃ駄目だと頭ではわかっているのに、病み上がりのせいか普段の何倍も疲れ、意思と手足がバラバラで、思うように動かせない。
「………瑞希の…馬鹿」
ただ一ヶ所、どうにか動いた口から出た言葉は、到底褒められたものではなかった。
上半身を支えるように浴槽の縁に手を掛けて、こんな事になってしまった張本人を、恨みがましく睨み付けた。
「あのタイミングで『いやだ』はないだろ」
止める事もかなわなかった最悪の事態に、瑞希を責めてしまうのは仕方ないと思う。
「ご、ごめん、つい……」
真っ赤になってどもりながら謝られても、この惨状を目の当たりにすれば、腹が立って当然だ。
「『つい』、じゃない! いきなり抱きついたりするから……」
続く言葉を飲み込んで、自分の放ったモノの行き先に、再び大きな溜息を吐いた。
本当に、こんなはずじゃなかったんだ。
なのに、手近に何か拭き取るものを探して目を離した隙に、瑞希が自分の腹部に滴るそれを、あろう事か触り始めた。
振り向いて、その光景にまた愕然とする。
「触るなっ! 頼むから動かないでくれ。すぐ洗い流すから」
老体……に近い状態の身体に鞭打って、どうにか立ち上がり壁に掛けていたシャワーを外す。と、
「何で? これって汚くなんかないんだろ?」
きょとんとした顔で見上げられ、平然と訊かれた。
「いいや、十分汚い」
はっきりきっぱり否定する俺は、瑞希の顔をまともに見ることもできない。
居たたまれない気分で蛇口のレバーに手を伸ばすと、沈んだ声が届いた。
「それでも、俺には一生縁のないものかもしれない。それに北斗が付き合わせてくれるのは、これが最初で最後、なんだろ?」
瑞希の心と身体、両方を侵食し続けている『暗い闇』。
ストレートに口にされ、俺の方が返事に詰まった。
――『最初で最後』。
当たり前だ。
今でさえ、迷いに迷った末、ようやく決断したんだ。
大体、他人に見せたり付き合わせたりするものでもない。
なのに瑞希の淋しげな声を耳にしたら、返事をするのがどうしてか躊躇われて……
振り切るようにシャワーの水を勢いよく出し、水音に混じって「そうだ」と答えた。
わざわざ確認しなくとも初めから察していたんだろう、ゆっくりと頷いた瑞希が、今宵限りの願いを囁くように唇に乗せた。
「なら、もう少しこのままでいさせて」
息苦しくなるほどの切ない願いに、動きが止まる。
いきなり水を掛けるわけにもいかず、じれったい思いで温度が安定するのを待っていた俺は、もう……何も言えない。
その願いは、俺にしてみれば羞恥心を増幅させるだけのもので、今すぐにでもここから出て行きたくなる。
だが、瑞希の心情を思えばそんな真似できるはずもなく、黙って視線を外し、レバーを『止水』に合わせた。
再び静かになった浴室で、諦め気分でシャワーの取っ手を持ったまま、瑞希の横に背を向けて座る。
今の瑞希を見たくない。
見るのが……恐かった。
「――ったく、よりにもよってお前にぶっ掛けるなんて、最悪……」
自己嫌悪丸出しで呟けば、
「でも、行為が嫌だったんじゃないんだ」
瑞希が焦って言い訳する。
本心からの言葉だと知っているから……現実を目の前に突き付けられて、怖くなったんだと気付いたら、これ以上責められない。
でなければ、あのタイミングであんなに必死にしがみ付いてきたりしない。
「わかってるよ、そんな事。本当に嫌だったら、俺、とっくに突き飛ばされてる」
それはわかっている。
が、結果がこれでは気まずくなるのも当然で―――
一人にさせて欲しい気分で敢えて背を向けていたら、
「なんか変な匂い。精液ってこんな匂いするんだ」
背後から眩暈のしそうな台詞が聞こえた。
「一々口に出すな! それににおいも嗅ぐんじゃない」
あまりの恥ずかしさと憤りがない交ぜになって、怒鳴りたい気分で振り返れば、
「だって、どんなものか興味あるよ、やっぱり」
こっちの動揺も意に介さず、興味津々な眼差しで、指に掬ったそれを眺めている。
「それは……そうかもしれないけどなっ、……」
これまでの苦悩を思えば、それらの行動も理解できなくはない。
だが、しかし……。
口を開け、何か言おうとしたけれど、結局何も言えず頭を抱え込んでしまった。
見過ごしていいのか?
わからない。
だが、強制的に止めさせる事もできそうになかった。
「――北斗? …あの、自分の…って、そんなに嫌なもの?」
そんな事、訊かれても困る。
それを体験できない今の瑞希に、この気持ちを伝える術など知らない。
「……じゃなくて、お前が触るのが嫌なの。そんなのさっさと洗い流してしまいたい」
一人の時ならとっくに始末している。
今回も瑞希が抱きついたりしなければ、そうしていた。
なのに俺のぼやきを聞いた奴が、やけに嬉しげな笑みを浮かべた。
「まだ駄目、もうちょっと味わいたい」
その一言で、一気に血が上った。
「バッ……お前~、変態モード入ってるぞ」
俺の放ったモノを身体で受け止めても動じないどころか、指に掬い、興味深げに眺めるのを見れば、日頃のこいつを知っているだけに、おかしなスイッチでも入ったんじゃないかと心配になる。
瑞希も少しは自覚があるのか、
「あ、やっぱり? 俺もそうじゃないかなぁとは思ってるんだけど、止まんない」
などと、惚けた事を言う。
その余裕、どこから来るのか、俺こそ知りたい。
もしかして、俺が思う以上の大物なのか? それとも底なしの鈍感か。
いずれにしても、もう俺のスケールー常識ーでは、測りきれない。
「……なあ、その好奇心、どこまで続くんだ?」
ほとほと弱り果てて問えば、情けない俺をからかうように、わざとゆっくり首を傾げてみせる。
「ん? う~ん、…視覚に触覚、それから嗅覚で、あと、味覚?」
そう言われ、脳裏に浮かぶ危険な妄想。
「駄目っ! もう流すッ!! こっちまでおかしくなる」
「あっ、ウソ! 冗談だよ冗談」
慌てた瑞希が制止を掛けるも、俺の忍耐が限界だった。
「うるさい!」
シャワーの取っ手を放り出し、片付けていた洗面器で浴槽の湯を目一杯掬って、腹部に至近からぶちまけた。
全身ずぶぬれになったが、そんなのに構ってられるかっ。
「うわっ! ひどっ北斗! 人がせっかく満喫してるのに」
喚く瑞希に、
「知るか! 自分のでしろ!」
問答無用に言い捨てて二杯目を掛ける。
「できないから頼んだんだろ」
売り言葉に買い言葉だったのか、諦めにも取れる台詞を口にされ、堪らず叫び返した。
「できる!」
と。
驚いたように見返され、激昂した自分を恥じて、諭すように言葉を紡いだ。
「――俺は、そう信じてる。だから、…自分を汚すなよ瑞希。頼むから」
それは、祈りにも似た切なる願い。
心からの偽りのない心情だった。
瑞希にもそれが伝わったのか、ふてくされたまま渋々呟いた。
「……わかった。じゃあ…流す」
その顔には不満の色がありありと出ていて、どう接すればいいのかわからなくなる。
瑞希への欲望が、抑えようもなく溢れそうな気がしていた。
あのシチュエーションではそうならない方が変だろう。
それなのに、穢れのない真剣な眼差しが、俺の中の下心を完全に沈静化してしまっていた。
あんなモノをいつまでも身体に纏って嬉しそうにされれば―――
どれほど大人の身体に憧れ、その時を待ち望んでいたか、嫌でも察しがつく。
心の軋む音が聴こえてきそうで……俺の方が辛くなる。
「――馬鹿だな」
それは、どちらにともなく零れた想いだった。
「え? 何て?」
赤みの残る顔で見上げられ、何でもないと首を振り洗面器を床に下ろした。
「俺が洗うから、お前はじっとしてろ」
そう言い置いて、ドアに向かった。
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