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浴室の明かりを点けると、眩しさに目が眩む。
その明るさにようやく落ち着きを取り戻し、いつもの自分を自覚して瑞希の傍に戻った。
バーに直していたタオルを外し、新しいボディーソープの液を染み込ませる。
空気を含ませながら瑞希の正面に膝立ちでしゃがみ、十分に泡立ったそれを真っ先に腹部に当てた。
その間、一言も口を利かない瑞希が何を思っているのか、すごく気になっていた。
もしかしたら、後悔しているのかもしれない。
それとも湯を掛けた事を怒っているのか。
諸々の憶測が浮かんでくるが、さすがに良い方向に向かえそうな要素は少なかった。
「――なあ瑞希」
身体を洗いながら呼び掛けてみると、
「うん、何?」
いつもと変わらない調子で返してくる。
少しほっとして、切り出した。
「もしも……これから先、お前に誰か好きな女ができて――」
それが話題になると以前なら即反発していたのに、「うん」と大人しく相槌を打たれ、瑞希の中で確かに何かが変わったと感じた。
瑞希が、俺から離れて行く。
そう思っただけで形容しがたいほどの寂寥感が、俺を襲った。
「――セックスする時はコンドーム忘れるなよ」
当たり前の一般常識。
女性を……相手を大切に思うなら当然の配慮だ。すると、
「それくらいの知識、俺にだってあるよ」
口にした途端、軽やかに笑われた。
やっぱり、今までなら「子供扱いするな」と怒るところを余裕でかわす。というか正面から受け止めている。
いつの間にか、この手の話にも強くなった。
言い様のない淋しさを胸に秘めつつ、これなら大丈夫かと、男としてのもう一つの常識を口にした。
「それと、自分の残滓は自分で始末する事」
「『ざんし』って、何?」
そこは変わらず、即訊いてくる。
こんなところは相変わらずだ。
「これ」
言いながら、瑞希の腹部を指差した。
「……それも、常識?」
そう訊かれ、「一般」ではなく「俺の常識」だと教えてやる。
その意味をどう受け取ったのか、瑞希が驚きの声を上げた。
「え!? 北斗、やっぱり経験あったのか」
……『やっぱり』ってのは、何だろう?
俺は経験者だと思われていたのか。
そうと知り、複雑な笑みが浮かぶ。
否定する必要はないが、俺が誰とも付き合ってこなかったのは知っていたはずなのに、それでどうして経験があると誤解できるのか、不思議だ。
もしかして、誰彼構わず大人の付き合いをしてきたと思われているんだろうか?
それはそれで複雑だが、まあ今更だ。そこは敢えて誤解させておいた方がいい。
そう結論付けて、話をうやむやに逸らした。
「だから瑞希の身体も、こうやって俺が洗ってる」
言葉通り、先に洗った背中以外の全てを泡立ったタオルで丁寧に撫でていった。
「背中ならともかく、前は……かなり恥ずかしいよ」
「だろうな。まあ今回だけ大目に見て。瑞希を巻き込んだお詫び」
自分の為に瑞希を呼び戻した風を装い、そう告げた。
頬を微かに染め恥ずかしげに俯く瑞希を、もっと…ずっと見ていたい。
このタオルの代わりに身体の隅々まで口付けを落としたら、どんな反応を見せるだろう。
そんな事を考えかけて、我に返る。
たった今達したばかりなのに、またやばくなるところだった。
こんな機会ももうないだろうが、もし傷が治るまで付き合って欲しいと言われても、二度とごめんだ。
……その前に、瑞希が頼まない、か。
そう考えて安堵する気持ちと、淋しさを拭えない本心に、自分が一番戸惑っている。
次は、絶対自分を抑えられない。
それは予感ではなく、確信。
燃え上がるような、全身を貫く快感を知ってしまったせいだ。
瑞希が男の性を知ったように、俺にとってもあの感覚は、それと同じほどの衝撃だった。
「あのさ、北斗」
物思いに沈んでいたら、今度は瑞希が遠慮がちに呼び掛けた。
「ん?」
「その、……」
話しかけてきたくせに、中々用件を言い出さない。
まさか、また妙な頼み事するんじゃないだろうな。
そう思い、身構えて先手を取った。
「どうした? 傷が疼き出したのか?」
身体を洗う手を止め覗き込んで、すっかり色の変わってしまった首の包帯に気付いた。
……これは俺のせい、だよな。
そんな事を思っていると、「違う」と首を振った瑞希が、視線を向けた。
「今夜の事……だけど、もしかして同情、だったりした?」
その声音が、どういうわけかこれまでになく辛そうで、面と向かって返事出来なかった。
「――『同情』? …そうなのか?」
そっくり返してみたものの、『同情』とは違う気がする。
ただの『同情』なら、あんな真似までしない。
だが、そう訊いてくるという事は、俺が自分を満足させる為に瑞希を呼び戻した、という口実は、見破られているのかもしれない。
「わからないから聞いてるんだよ」
呆れたように言われ、止めていた手を再び動かしながら考えた。
「……さあな、俺にもよくわからない。けど、瑞希が大人の身体に興味を持って、知りたくなったなら、最初に教えてやるのは俺でありたい、そう思った。それだけ」
その相手に、他の誰でもなく俺を選んでくれたなら、どんなに……。
そんな事を思いかけて、はっとした。
瑞希は、自分の意思で戻って来た。
選択を強いたのは俺だが、選んだのは確かに瑞希の意思だった。
それ以上、何を望むと言うんだ。
「そう。…なら、いい。ありがと北斗。俺、今晩の事一生忘れない。北斗の……優しさも」
終始優柔不断だった俺をそんな風に言える瑞希は、俺よりもずっと強く、潔い。
「大袈裟な奴」
素直な感謝の言葉に、今の俺は不似合いすぎる。
礼なんか、言う必要はないんだ。
それを伝える為、タオルを浴槽の縁に置いて、腰掛けた瑞希に目線を合わせた。
「気にしなくていい。――気持ちよかったよ、俺は」
口にして、知らず笑みが零れた。
……本当に。
自分でも驚くほど感じて、反応した。
それも疑いようのない事実。
俯いたまま中々顔を上げようとしない奴の頬を、わざとつついてやる。
「瑞希、顔真っ赤」
その表情も、態度にも、後悔の翳は見当たらない。
その事にほっとしつつも、一歩前進した瑞希にこの想いは伝えない。
瑞希の全てを受け入れて、ありのままを愛せる女性は、必ずいる。
いつか、その女性が教えてくれる。
何も知らない無垢な身体が――
その手によって、彼女の色に染まっていく。
俺は、それを黙って見守り続ける。
耐え難い想いを心の奥底に封印して。
それは、みーちゃんとの死別を悟った時より、遥かにましな痛みに違いないのだから。
それでいいんだと自分自身を納得させながらも、瑞希を過去に変えるのはまだまだ先になりそうだと、高鳴る心音が告げていた。
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