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「おーい、お前の着替え、Tシャツと短パンでいいだろ」
半透明のドア越しに声を掛け、着替えをかごに放り込んでさっさと制服を脱いでいく。
「ああ、サンキュ。先に頭洗ってるぞ、しぶき飛ぶから」
そう返されて、完璧いつもの俺達に戻っていると実感しつつ、ここを発つ前の事を思い出した。
「あ、シャンプー! 切れてない?」
「まだある。けどボディソープが少ない」
「りょうかーい。ちょっと待ってて」
天袋の扉を開け、中からストックしてあるプッシュ式のボトルを取り出す。
もちろんこんな細々した気配りは全部、北斗と同居を始めてから。あいつがし始めた事だ。
俺はと言うと、押してみてなくなってるのに気付き、その日は中身をさらえて使い、翌日買う(忘れなければ)という、何事においてもかなり行き当たりばったりな生活をしていたように思う。
「お待たせ~、って北斗! 益々日に焼けたんじゃないか?」
風呂用のイスに座り頭を洗うその背中が、逞しさを増したのは知っている。
ただ、素肌を見たのも久しぶりで、鍛え抜かれ一層引き締まった身体に嫉妬するより、惚れ惚れと見入ってしまう。
「なんか…ウェルダン? 美味しそう」
こんがり焼けた肌を強調して冗談半分ふざけてみても、北斗はにこりともしない。
「海水浴ならともかく、そんなに焼けるわけないだろ」
短い頭髪をすすぎながら無反応に答え、シャワーを止めて、入り口に立つ俺を見上げた。
「そういうお前 ワッ!」
「助詞デカッ」
クスクス笑いながらボトルを差し出してやると、何故か受け取ろうとせず、顔を背けて叫ばれた。
「いつの間に服脱いだッ!?」
狼狽しまくりの声を上げられ、「はあ?」と首を捻る。
「今に決まってるだろ」
一応答えて入り口のドアを閉め、北斗の目の前に渡し損ねたボトルを置いた。
「夏服なんか二十秒もあれば脱げるよ」
言いながら北斗の背後に回り、浴槽に手を浸けてみる。
うん、予定通り。いい感じの湯加減だ。
上機嫌で身を乗り出して湯をかき混ぜていると、悲愴な声が届いた。
「――頼む、前くらい隠せ」
呻くように言われ、きょとんと北斗の背中を見遣った。
「何で? 北斗だって見られても平気だって言ってただろ」
「え?」
不思議顔で振り返りかけたけど、すぐにいつの事か思い出したらしい。
「あ、…ああ、あれは……」
何か言いかけて口篭ってしまった北斗に、正直な気持ちを明かした。
「俺、お前のそんな何事にも動じない大らかなとこ、すごい憧れてるし、できることは見習いたいって思ってるんだ」
洗面器を取り、浴槽の縁に屈んで湯掛けをしながら答えたら、
「あのなぁ……」
溜息混じりの声がかろうじて聞こえ、バーに掛けてあったウォッシュタオルが力任せに引き抜かれた。
「あの時は瑞希しかいなかったからだ。俺は他の奴の前で裸を晒したりしない」
「え、ほんとに? 合宿中や甲子園の宿舎でも?」
「当たり前だ。そんなの常識だろうがッ」
今度は物に八つ当たりしているのか、出の悪くなったボディーソープの頭をバンバン叩く。
不似合いな、乱暴な仕草を唖然と見遣った。
「ったく、人を露出狂扱いしやがって」
ぶつぶつと文句を言われても、じゃあ何であの時、あんなに堂々と浴室から出て、平然としていたのか、新たな疑問も沸いてくる。
だけどそれ以上に、俺にしか裸を晒さないと聞いてほっとしたのは何故だろう。
「へえ、そうなんだ。なら俺も他の奴の前では止めとく」
すると、あからさまに肩を落とし、ぼそっと零された。
「……是非そうしてくれ」
「なんてね、冗談だよ。俺だって自宅以外では絶対無理。北斗もよく知ってるだろ」
「――ああ、そうだったな」
どうでもいいような口調。
だけど、タオルを泡立てていた手が一瞬止まったのは見逃さなかった。
「それよりさ、それ貸して」
言いながら背後から手を出した。「背中、これからだろ? 俺も洗ってやる」
「いい、自分で洗える」
「わかってるよそんな事。けど一方的にしてもらうのは――」
「あーもーッ!」
言いかけた言葉が喚き声で遮られた。「『吉野家の家訓に反する』、って言いたいんだろッ」
「うん? そう。だいぶわかってきたじゃないか。お前も立派な吉野家の孫だよ」
「……全っ然、嬉しくないぞ」
「そんな事言って、結構気にしてるくせに」
「はあ? 何を」
首を傾げる北斗からシャンプーの香りが微かに漂い、ドキッとする。
そんな自分に戸惑いつつも、誤魔化すように言葉を紡いだ。
「『吉野家の家訓』」
「まさか。瑞希の思い込みだろ」
「違う。孝史ですら、あれだけは受け入れなかったんだよ。うちにもしょっちゅう遊びに来てたけど、覚えようともしなかった」
暴露した途端、北斗が笑った。しかも声を上げて。
それがすごく嬉しくて、再会してからやっと聞けた笑い声に、俺の心まで軽くなっていく。
「ほら、早く貸せって」
肩を揺すりタオルの所有権を主張すると、その手を払い除けた北斗が、丸イスごと離れた。
「わかった、わかったからひっつくな」
「ひどっ! なんで? いいだろ久しぶりなんだし」
「だからやばいんだ、…って言っても、どうせわからないんだろうなぁ、こいつは」
盛大な溜息と共に吐き出された言葉。後の方は何を言ったのか聞き取れなかった。
肩越しにしぶしぶと出されたタオルを手に、そんな事よりも目の前の小麦色に焼けた肌が水を弾いて、その瑞々しさが言いようもなく綺麗で――その方に気を取られてしまう。
目が離せなくなる。
会議室の小さなテレビに映っていた北斗の、頬を伝い落ちる汗を……鋭く冴えた眼差しを、鮮明に思い出す。
あの時は、どんなに望んでも届かなかった。
それが今、目の前にある。
手を伸ばせば触れられる距離。
触りたい。
触れてみたい、その肌に。
けど、肩に手を掛けただけで距離を置かれた俺だ。
そんな事したら、やっぱりキスマークを付けた時みたいにひどく怒るんだろう。
普段なら有り得ない、いきなり湧き出した妙な感情を振り払い、タオルを背中に押し付けた。
あの時のように手酷く拒絶されるのはもちろん、誰より優しいこいつを困らせるのも嫌だった。
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