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「そういえば、北斗がマウンドに立ってるの見て、俺だってひどく驚いたよ」
ゴシゴシと無言で背中を洗っていて、ふと口を衝いて出た話題。
今、このタイミングで口にするのも変だけど、ある程度予測していたのか、その反応はかなり薄かった。
「……やっぱり見てたか」
「うん。監督が手配してくれたんだ。閉会式終わって即、テレビのある部屋に走ったよ」
そう言うと、その時の様子を想像したらしく微かに笑った北斗が、すぐにそれを消し去った。
「――ごめんな、瑞希」
ぽつりと零された、謝罪の言葉。
意味がわからず、背中を擦りながら首を傾げた。
「え? 何が?」
「甲子園、呼んでやれなくて。お前の怪我を怒るより先に、謝るべきだった」
沈んだ声で頭を下げられて、急に胸が熱くなる。
球場のグラウンドで、誰よりも頼もしく見えた背中なのに、俺に見せるのは気落ちした、らしくない姿。
『北斗の精一杯のプレーも、空高く飛んでいったホームランも、しっかり見てた。慣れないポジションでどれだけ頑張ったか、俺は知ってるよ』
そう言ってやりたいのに、なんでか言葉が出てこなくて……
喉の奥が、締め付けられるように苦しくなって……
代わりに、泡だらけの背中を力一杯抱き締めた。
「いいんだ」
拒絶……されてもいい。
困らせたって、気にしない。
あんなに遠かった北斗を今、この両腕で抱き締める事ができるなら、俺はやっぱり迷わずそうする。
「――瑞希、包帯濡れる」
しばらくして溜息と共に呟かれた台詞は、俺の怪我を気遣うもので、押し付けた額を小さく横に振った。
嫌がられると覚悟していたのに、俺の抱擁を黙って受け入れた本心が知りたい。
本当は、こんなの濡れたって平気だ。
それより少しでも長く北斗と一緒にいたい。
北斗にもそう思っていて欲しい。
俺の本音も望みも、ただそれだけなんだ。
この夏は大会に継ぐ大会ですれ違いばかり、まともに話もしてないし、ましてや二人で出かけたのなんて、加納君を訪ねた、あの一度きりだった。
もっともっと二人で過ごす時間が欲しい。
じゃれ合い、声を上げて笑った幼い日々を……突然奪われたあの頃の幸せな日常を、少しでも取り戻したい。
そんな想いが出たせいか回した腕を外せないでいると、いきなり持っていたタオルが奪われた。
「交代。お前に任せといたら、朝までここに居座りそうだ」
両手がやんわりと退けられ、丸イスを譲られた。
「そんなに経ってない」
照れ臭さも加わって、わざとふくれっ面で答えたら、両腕を捉まれ強引に座らされた。
「そういう事にしといてやる。それより、この際のとこは包帯が取れてからでいいだろ?」
確認の為、指先が首筋に触れ、その下に泡立ったタオルが押し当てられる。
「ん…うん、仕方ないよな」
あからさまに肩を落として答えたら、北斗までふっと息を吐いた。
「すぐ外せるさ。今は大判の目立たない絆創膏もあるし」
「そう? ならいいけど」
返事して、泡だらけになっていく自分の足元を見つめる。
他人に洗ってもらうのがこんなに気持ちいいなんて、知らなかった。
それに、腕を動かさなくて済むから傷にも響かないし、痛みも全くない。
昨日の苦戦が嘘のよう。
すごく楽で『極楽』。うん? そう、そんな感じ。
一人のんきに言葉遊びをしていて、これは、と思いついた俺は、遠まわしに頼んでみた。
「あのさ北斗、実は……あと一つお願いがあるんだけど、駄目かな」
「駄目も何も、言ってみないとわからないだろ」
「うん。あの、頭、ついでに洗ってくれないか?」
タオルを滑らせるように背中を優しく撫でていた手が、ピタリと止まった。
「……面、今日は被ってないだろ」
「昨日は被りまくってたよ。けどさすがに頭までは洗えなかったから」
「当り前だ!」
怒鳴りかけた北斗が、今度は背中を力一杯ゴシゴシと擦り出した。
「イタッ、痛いよ北斗。さっきと今の中間にしてくれ!」
「あ、悪い。つい」
なんでそう極端なんだ、とぼやく俺に構わず、無言のままきっちり背中だけ洗い終えた北斗が、洗面器を掴んで湯をすくい身体の泡を綺麗に流した。
もちろん、自分の背中を流す事も忘れない。
最後に固く絞ったタオルで、包帯の近くの水気を丁寧に拭き取っていく。
けど、俺の頼み事はどうなった? 泡と一緒に流されたんだろうか?
聞くに聞けず、されるがままになっていると、ウォッシュタオルをすすいでバーに戻した北斗が、
「で、どうすればいいんだ?」
いきなり切り出した。
「え、何を?」
「頭、洗うんだろ。どの態勢で洗えばいいか訊いてんの」
「ホントに!? いいの?」
「ああ。気の変わらない内に決めてくれ」
「じゃあさ、中に入って頭出すから、イスに座って洗える?」
「――ま、何とかなるだろ。それが一番楽そうだし」
言いながら適当な位置にイスを置いた北斗が、乾いたタオルを取りに一旦浴室を出る。
その間に一足先に浴槽を跨いだ。
「は~、この絶妙な湯加減、もう最っ高!」
久しぶりに一杯に張ったお湯の中をぐるっと回ってー但し、上半身は胸までしか浸かれないのが残念だけどー浴槽の縁に腕を組んだ。
「んじゃ、よろしくお願いします」
頭を外に出して、準備万端北斗を待つ。
「はいはい。ったく、床屋にでも行けっての」
文句を言いながらも向かい側に腰を下ろし、俯く俺の頭髪に湯を掛けてシャンプーを手際よく泡立てる。
耳元でシャワシャワと泡の弾ける音が聞こえ、それが妙にくすぐったくて、笑いたいのを必死に堪えた。
北斗の指が頭皮をマッサージするみたいに動く。
それを追っていて、監督にしてもらったスポーツマッサージを思い出した。
北斗にしてやるつもりだったのに、色々あってすっかり忘れていた。
明日は書店に行けるかな? なんて考えていたら、
「お客様、どこか痒いところはありませんか?」
理容店さながらに訊かれ、プッと吹き出した。
「北斗ってほんと客商売向いてるよ。思わず答えそうになった」
クスクス笑って言うと、意外にも真面目な声が返って来た。
「俺は苦手だ。相手が瑞希だから遊んでるだけ」
何だ、それは。
俺は人形でもペットでもないってさっき言ったばかりなのに。
でも、北斗に髪の毛触られるの嫌いじゃないんだよな、っていうか好きかも。
だってすごく、
「気持ちいい~」
思ったままが口を衝いて出た。
「あぁ? 何だって?」
北斗が動きを止める。それが惜しくて、俯きながら訴えた。
「その指、すごい気持ちいい。もうちょっと強くしてもいいよ」
「…………」
聞こえなかったのか、黙ったままの北斗を怪訝に思い、
「北斗? 聞こえた?」
と、頭を上げかける。それを拒むように、上からぐっと押さえ付けられた。
「なっ!? 何す……」
「いいからっ、お前はもう黙ってろ!」
言い捨てて、俺の望み通りの強さで再び頭を洗い出す。
……何なんだ、一体。
腑に落ちず、一人俯いて心で首を捻っていると、ふと、目の前の北斗の……あれだ、息子の変化が目に止まった。
べ…別に、見ようとして見たんじゃなくて、たまたま、だ。
けど、さっきまで何とも思ってなかった、存在自体気にも留めてなかったのに、それが今、微かに主張しているのを目にして、普通なら密かに落ち込む俺なのに、今晩に限って好奇心がムクムクと頭をもたげてきた。
まるで北斗の変化に反応するように、俺の興味も徐々に膨らんでくる。
タオルに隠されて見えないそれが、すごく気になる。
そんな事を考えていると、「瑞希」と声を掛けられた。
「もういいだろ、流すぞ」
「ん、うん」
返事するのと同時に、シャワーから水が勢いよく出る。
温度が安定するのを待って、北斗がうなじに手を添え、そこから上を丁寧にすすいだ。
シャワーを止め、用意していたタオルで俯いたままの俺の頭をゴシゴシ擦る。
至れり尽くせりで大人しくしていたら、本当に理容院にいるみたいな気分になる。
それほど長髪でもないし髪の量も多くない。乾いたタオルで拭くだけで、水気もほとんどなくなった。
「ほい、終了。満足したか?」
「うん、ありがと。気持ちよかった。それにさっぱりした。北斗に頼んで正解だったな」
「そうか? ならもう上がれ。これ以上浸かってたらまた逆上せるぞ」
「けど、まだ身体半分洗ってないし」
「あ、……」
忘れていたのか、気まずそうに目を逸らす北斗に、思い切って訊いてみた。
「俺を早く上がらせたいのって、そのせい?」
浴槽の中から視線で先を促すと、言わんとする事を察した北斗が、ハッとしたように動きを止めた。
さも嫌そうに舌打ちをして、ぼそっと零す。
「気付いてたのか」
「うん。……あの、ごめん」
「別に、お前が謝る事じゃないだろ。俺の鍛え方が足りなかっただけだ」
クスリと笑いを漏らすのは、数日前の遣り取りを引き合いに出したせい?
「けど……」
その瞳は笑ってなんかない。
自嘲的にさえ見えて、それがなんでかすごく嫌だった。
別に悪い事じゃない。自然な事、なんだろ?
なのに口から出たのは、やっぱり俺を遠ざけるもので……
「気付かれたならちょうどいい。ちょっと外してくれるか? 俺もこのままじゃ辛いし」
そう言われ、反抗心が沸き出した。
「あの、出ないとだめ?」
いつもの自分なら有り得ない台詞が、口を衝いて出た。
「……お前、また『見たい!』とか言い出すんじゃないだろうな?」
剣呑な眼差し…じゃなく、得体の知れないエイリアンでも相手にしているかのような、北斗の恐る恐るの反応が何だか可愛く見えて、つい調子に乗っていた。
「え、いいの?」
「まさかっ!! いいわけないだろッ」
ブンブンと首を振られ、予想していたとはいえ、ちょっとがっかりした。
……え? がっかり? って、何でがっかりしてるんだ、俺。
変化するのは自然現象でも、そういう行為を隠すのは当然で、見たがる方が変だろう。
「――だよなぁ。うん、冗談。言ってみただけ」
自分の気持ちが理解できず、密かに困惑する。
「お前な……」
言葉もなく、睨むような眼差しを向けた北斗が、戸惑いを誤魔化そうと浴槽の中、勢いよく立ち上がった俺を見て、パッと顔を逸らした。
その横顔が微かに色付いていて、それが妙に色っぽく見えるのは、やっぱり俺が変だからだろうか。
それとも、もしかしてまた怒らせてしまった?
もしそうなら、早々に出て行くべきだよな。
そう思い、縁を跨いで――
その前に、からかったわけじゃないと言っておきたくて、ドアを開けたところで振り向いた。
「ごめん、北斗」
言うのと同時に、溜息を吐かれた。
「またか。もういいから」
『早く出て行ってくれ』
声にならない言葉が、聞こえた。
「――俺さ、ホントにそういうの全然わかんないから、……男なのに、男の身体って今一理解できなくて……」
言い訳してる内に声が詰まってしまった。
「瑞希?」
「……好奇心、旺盛過ぎた」
「………」
肯定とも取れる沈黙が、胸に新たな痛みを植え付ける。
バカな事、した。
北斗のスランプがストレスによるものじゃなかったとしても、誰もが持っていて当たり前の秘密の部屋に、ずかずか入り込むような真似して、気分いいはずない。
「北斗のプライバシー、侵害する気なんか更々ないから、許して」
それだけ告げるのが、正直精一杯だった。
足早に脱衣室に出て、後ろ手にドアを閉めると、俺達の間が半透明の壁に遮られる。
自分だけ知らない惨めさも、人並みになれない悔しさも、これまでに数え切れないほど味わった。
どうにか解決策を見出したくて、時間を見つけては書店に通った。
その都度、現実を突き付けられ、自分の身体を呪うしかできなかった。
未来を悲観して、絶望しそうになった事も。
居たたまれなくなるような衝動を、幾度押し殺してきただろう。
そして今も、大人になりきれてない俺は、締め出されても仕方なくて……
喉元に苦い塊が込み上げてくるのを、無理矢理飲み込んだ。
―――大丈夫。
今は…さすがにちょっと落ち込むけど、俺だって以前の俺じゃない。
それよりも、また北斗を追い詰めてしまったみたいで、その事が心に重く圧し掛かっていた。
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