大人への入り口

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大人への入り口

    アクリルのドアを背に、自分の軽率な言動を後悔して遣り切れなさで一杯になる。  北斗の心情と現状を思えば一刻も早くこの場から立ち去るべきなのに、そこから中々動けずにいた。  普段の俺なら、さっさと服を着て出て行く。  だけど、今夜に限って―――  再会直後の激しい言い合いが、まだ尾を引いていた。  多分北斗は、俺が眠りにつくまで二階には上がって来ない。 このまま……気まずいままでこの日を終えるのが、堪らなく嫌だった。 「瑞希」  いきなり呼ばれ、ドキッと心臓が跳ねた。 「まだ…そこにいるんだろ」  様子を窺っていたのか、責めるでもなく静かに訊かれ、慌てて謝った。 「あ、ご、ごめん。そ…だよな、いつまでもこんなとこにいられたら落ち着かないよな」  アハハと乾いた作り笑いで誤魔化して、何とかこの場を取り繕おうと必死になる。 「すぐ出るから」と言い訳しつつ棚に手を伸ばす。  指先がバスタオルに触れるより先に、「待てよ」と、言われた。 「え?」 「電気、消して」 「あ、うん」  言われるまま、浴室の電気のスイッチをOFFにする。  暗くなったドアの向こうから、北斗が再び声を掛けた。 「そっちも」  え、『そっち』って、こっち? 「あの、脱衣室…も?」 「ああ」 「だって俺、見えなくなるよ。服着るまで待てない?」  って、またバカな質問した!?  ぱっと口を押さえて恥じ入るのと同時に、「ククッ」と押し殺した笑いが聞こえた。 「着なくていい。来いよ、こっちに」 「えっ?」 「お前が来たいなら、…いいよ、こっち来て」  そんな風に誘われて、顔が一気に紅潮する。 「けど……」 「……知りたいんだろ、瑞希」  本心をあっさり暴かれて、うろたえながら答えた。 「そ……れは、そう……だけど」  蚊の鳴くような小さな声。だけど、北斗には聞こえているだろう。 「ただし、来るならそっちの電気も消して」 「……本気?」 「本気。――二十秒待ってやる、その間に決めろ」 「二十秒?」  何でそんな中途半端?  そう思いつつ、やっぱり返事できずにいると、 「二十秒あれば夏服脱げるんだろ。なら、シャツくらい着れるよな」  ふざけるでもなく、真面目な声でそんな事を口にする。  さっき言った台詞、覚えてたんだ。言った本人さえ忘れかけていたのに。  そこでようやく、俺の気持ちを尊重していると気付いた。  この誘いに乗らない、もしくは断る場合の逃げ道。 『無理強いじゃない、その気がないなら出て行って構わない。  お前の望む方を選べばいい』  半分冗談にも聞こえる言葉の裏側に、俺への気遣いが見える。  未熟な俺の為に用意された逃げ道は、北斗の優しさだ。  軽く誘ってるように見せかけても、未だ大人になれない現実が俺の心の奥深く侵食し続けているのを、誰よりも理解してくれている。理解しようと努力してくれてる。  ――『デリケートな事』  悩みを打ち明けた時、北斗自身が口にした言葉。  その悩みに、遊び半分でも興味本位でもなく真剣に向き合っているのが、はっきりと伝わる。これ以上ないほどの真摯さでもって。  だって、一度は締め出された。  あれが間違いなく北斗の本心。  本当は入って欲しくなんかないんだろう。  それがわかるから、今、何を思って誘うのか、俺にあいつの心は読めない。  だけど、何よりもはっきりしている事がある。  俺は、北斗のこんな一面も堪らなく好きだってこと。  そんな風に接してくれる(やつ)だから、一年前、勇気を振り絞って告白したんだ。  その選択は間違ってなかった。  離れている時間が長くても、喧嘩して気まずくなっても、本質は出会ってから全然変わらない。  そう思ったら二十秒という俺の為の猶予が、言いようもなく愛おしい時間に変わっていた。  このドアの向こうで、北斗が待ってる。  成長途中の中途半端な俺を、迎えてもいいと言ってくれてる。  聞こえるんじゃないかと心配になるほど昂ぶる心音を宥め、大きく息を吐いて、脱衣室の明かりを消した。  暗くなった浴室は雰、囲気がまるで変わってしまっていて、胸の動悸が治まらない。  ただ、窓から入る薄明かりで、中の様子はぼんやり見えた。  北斗は――さっきまで座っていた丸イスじゃなく、浴槽の縁に腰掛けて、闇と同化するように黙ったまま俺を見ている。  ドアを閉めて向き合った刹那、言い様のない……というか、逃げ出したくなるような羞恥に駆られた。  ――俺、もしかしてとんでもない事、しようとしてる?  そんな後悔が早くも押し寄せてくる。 「北斗、俺……」  どうしていいかわからず、心細さ丸出しで呼び掛けると、 「瑞希、足元……見える?」  問われたのは、俺の身を案ずるもので……  静かに話し掛ける声は、いつもと少しも変わらない。  心臓が破裂するんじゃないかと思うほどドキドキしていた俺は、ちょっと拍子抜けしつつ、どうにか返事を返した。 「う…うん」 「なら、ここに来て。俺の横に」  手振りの一つもなく誘われ、夢遊病者のようにその言葉に吸い寄せられた。  傍まで行くと、北斗の表情が少しずつ見えてくる。  暗闇に目が慣れてきたせいもあるんだろう、口元が優しく笑んでいて、秘め事に誘ったにしてはまとう空気がやわらかで、その心地よさに身も心も包み込まれたような気がした。  顔の火照りは治まらないけど、壊れそうなほど激しく打っていた脈が、ドクドクくらいに落ち着いていく。  招かれるまま、少しだけ隙間を空けて隣に腰を下ろした。  だけど、今度は北斗の顔をまともに見れない。  恥ずかしくて、こんな誘いに安易に乗る俺をどう思うのか、心配にもなる。  黙ったままの北斗の隣で、俺もピクリとも動けず、固まっていた。  どのくらいそうしていただろう。  数秒かもしれないし、一分以上だったかもしれない。  時間の感覚もわからないほど緊張していた俺に、北斗が世間話でもするように呼び掛けた。 「なあ、瑞希」 「は、はい?」  答えた声が裏返りそうなほど高くなり、フッと空気が震えた。 「……そんな緊張するなよ。俺にまで伝染(うつ)る」  微かに笑いながら言うけど、この身体の強張りを解く方法なんて知らない。 『そんな事言われても……』と密かに思い、黙り込んだ。  気まずくなるのは嫌だけど、俺から話しかける余裕なんかないし、第一、こんな時何を言えばいいのかも、全く思いつかない。  口を閉ざしたままの俺をどう思ったのか、細く息を吐き出した北斗が、おもむろに俺の右手を取った。  川土手での出来事が頭を過り、「あっ」と声が出る。  北斗も思い出したらしく、否定の意味を込めるようにゆっくりと首を振った。 「怯えなくていい、ほら」  そう言うと、掴んだ俺の手の平を自分の胸に押し付けた。  ……これ…って、マウンドで北斗が駿にしてやってたのと同じ?  戸惑いつつほんの少し顔を上げると、口元に苦笑が浮かんでいた。 「瑞希にもわかる? 俺の心音。すごいドキドキしてるだろ」 「え、うん。……駿にも、これを伝えてたのか?」 「ああ。あそこじゃこれが一番手っ取り早く、みんな一緒だって伝わるからな」  大観衆の歓声が、耳に鮮明に蘇る。  確かに嘘や偽りのない事実を、確実に伝えられる一番の方法ではある。  ただし、伝える方も相当勇気がいる行為だ。 「そうか、…そうなんだ。なら、今は北斗、俺と同じ?」 「そう。いや、多分お前以上に緊張してる」  そんな風に言われ、『まさか』と首を振って見せた。 「それはないよ」  否定して、「でも」と付け加えた。「うん、ほんのちょっとだけど、落ち着いた」  そう言って、顔を強張らせながらも少しだけ笑った。    ぎこちない反応ではあったものの、北斗には十分だったらしい。 「さっき――」  と、元々言おうとしていた内容に話を戻した。 「出て行く時、『男なのに男の身体って今一理解できない』って、言ったよな」  そう訊かれ、返事の代わりにこくりと頷いた。すると、 「あれ、俺も一緒だから」  思いがけない事を言われた。 「え?」 「瑞希の事、よくわかってるつもりだったけど、本当は少しも見えてなかった気がする」 「そんな事」  ない、と否定するより先に北斗が呟いた。 「いや、違うか。お前が『みーちゃん』だったとわかった時点で、いつの間にか『吉野瑞希』に、俺の思い描いてた『みーちゃん』のイメージを重ねていたのかもしれない」 「はあ? …なんかよくわからないんだけど」 「ああ、俺もわからなくなってきた。けど、もしお前がみーちゃんとして、ずっと俺の傍で一緒に成長していたら、こんな真似、絶対しなかったと思う」 「……それは、うん。わかる」  こんな風に誘うのは、俺がそれを望んだから。  俺にしても、本当の幼馴染だったら、たとえ今と同じ身体だったとして、それを北斗に打ち明けただろうか。  もしかしたら一番知られたくない相手になっていたかもしれない。 「だから、実は今、お前を誘ってみたものの、それがこれから先の瑞希にとっていいのか悪いのか、さっぱりわからないんだ」  そう言われ、熱く火照っていた身体が急速に熱を奪われていくような気がした。 「……それ…って、声掛けた事、やっぱり後悔してる、って…こと?」 「違う」  きっぱり言い切った北斗が、あからさまに安堵の息を吐いた俺に気付いたのか、小さく笑った。 「俺も、正直なとこ瑞希の身体の事、それに対するお前の気持ちも、完全に理解してるわけじゃない。どころか、未知の部分の方が遥かに多いと思う」 「それは――お互い様だよ」 「かもしれない。だから、もし途中で気持ち悪くなったり、嫌だと感じたら、気遣ったりせず出て行けって、言っときたかったんだ」 「え? 気分悪くなったりするの? 俺」  目を見て聞き返すと、 「……わからないから言ってるんだろ」  溜息混じりに零された。「感じ方は人それぞれだ。ただしお前の事だ。変に意地張ったり我慢したり、そういうのなしだからな」  事前にしっかり釘を刺す。  俺の性格、十分把握してるじゃないかと返したい衝動を抑え、素直に頷いた。 「――ん、わかった。嫌だと思ったらすぐ出て行く。けど俺、ほんとにここに居ていいの?」 「ああ。その代り、お前にも手伝ってもらうから」 「え?」  何で? だって俺、()った事も…勃った事すらないのに、何を手伝えるって言うんだ? 「あの、何を?」  聞き返したら、北斗がまた俺の右手首を掴んだ。  導かれた先は――今度は当然ながら『息子』のところで……タオルの上からとは言え、他人のに触れたのは後にも先にも一年以上前のあの一度きり。  それだけでまた心臓がおかしくなりそうだ。だけど―― 「どう? 大丈夫か?」  少しだけ不安そうに見つめる北斗に気付き、真っ赤になってるだろう顔で小さく頷いた。  ただ、さっき目にした時よりも幾分か小さくなっているような? 「あれ? 何で? さっきと違……」  言いかけて、はっと口を噤んだ。  俺のバカッ。  どうしてそう言わなくていい事を口走ってしまうんだ。  すると、さすがに言わんとした事を察したのか、密やかに笑われた。 「気にするな。お前が出て行ったら急に淋しくなって、こっちも元気なくなった」  などと、適当な言い訳をもっともらしく口にする。 「また、いい加減な事を……」  じろっと睨みつけたら、「いいや」と首を横に振られた。 「嘘じゃない。だから呼び戻したんだ」  そんな風に言われても、抵抗がないのは何故だろう。  俺は女じゃない。女じゃないのに、『出て行って淋しくなった』と言われ、ちょっと喜んでいる自分の思考に、戸惑いは大きい。 「……ほんとに?」 「ああ。その証拠にほら」  目で示された先には、再び元気を取り戻したような息子が。  やや強引に触らされているとは言え、少しも気持ち悪くなんかない。  どころか、手の中の質量が気になって仕方ない。おまけにタオルの存在も。 「あの、さ、北斗、これって、その……(じか)に触ったら駄目?」  しどろもどろで訊いてみた。  自分でもどうかしてると思う。けど、何故だか無性に直接触れてみたかった。  北斗はどう言うだろう。また呆れるだろうか? 「……いいけど、無理するなよ」  意外にも、返されたのは俺を気遣う一言で、他人(おれ)の手を嫌がってないとわかったせいか、自然な気持ちが口から零れた。 「無理なんかしてない。ただ、知りたいだけ」  言い切った刹那、右腕が俺の肩に回され、ぎゅっと強く抱き締められた。  素肌が密着して、触れ合う左半身が急速に熱を持つ。  心音が聴かれそうで、もっとドキドキしてしまう。 「――瑞希が知りたいなら、いいよ。触って」  耳元で低く囁かれ、ゾクッと、背筋に電流みたいなのが走った。  相馬君に突きを食らう前に感じた恐怖と似ているようで、全く異なもの。  それが何なのかわからない。だから知りたい。  手首を掴んでいた手が、ゆっくりと外される。  今度は自分の意思で、タオルの下に右手をそっと忍ばせた。
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