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「んっ、……」
指先がそこに触れただけで、北斗の口から声が零れ、身体がビクッと震えた。
聞いた事のない、甘く蕩けるような息遣いに、俺の鼓動が益々大きくなる。
その声に煽られるように、張り詰めかけた北斗自身を手の平に包み込んだ。
「瑞希!」
声を上げた北斗が、タオルの上から俺の手を押さえ付ける。
「あっ、ごめん、痛かった?」
今一…どころか全然加減がわからないから、苦しそうに眉間にしわを寄せる表情を目に、急に心配になった。
「大……丈夫。痛いんじゃなくて、そんな大胆に触られたら……感じすぎて…やばい」
言葉の合間に漏れる荒くなった息遣いが、すでにいつもの北斗じゃない。
これが『感じてる』ってことなら、俺の手でそんな風に思ってくれるのが、なんだかすごく嬉しい。
そんな北斗を、この目で見られる事も。
そういう風に感じる自分も、すごく不思議だった。
「そ…なんだ? よかった。…俺も、なんか北斗の触ってると……気持ちいい」
熱く火照る頬を自覚しつつ感じたままを伝えると、目を瞬いた北斗がなぜか息を詰めた。
「も、…なんでそういう事言うかな」
フウッと大きく息を吐いて、俺の頭に額をコツンと当てる。
「え?」
「人の台詞、取るなよ」
「だって、本当の事だよ。すごく――」
言いかけた言葉は、俺の右手の自由を奪っていたはずの、北斗の手の平で塞がれた。
「瑞希、日頃の仕返しじゃないだろうな?」
胡散臭そうな口調で話しかける北斗の瞳が、少しだけ潤んで見えるのは、気のせいだろうか。
そんな顔を見ると、おかしな気分になる。
それをもっと見たいと思ってしまうのはどうしてだろう。
もっと北斗を見ていたい。
今まで見せたことのない、素の北斗を。
この感情を何と言うのか、そんなのも知らない。
とにかく強い思いに駆られ、腰に巻かれたタオルの結び目に、指を――掛けた。
あっさり解けた結び目は、形を変え浴槽の縁に落ちていく。
「瑞……」
「見たい。見せて、北斗の全部」
迷いも戸惑いもなく望みを口にして、薄明かりの中、顔を見詰める。
無言で見返した北斗の左手が、ゆっくりと俺の右手に重なった。
「感じて瑞希、一緒に。これが俺だよ」
指と指が絡み合い、北斗に導かれ強い刺激を与えられた中心が硬さを増す。
思わず手を引きかけた俺を封じるように、動きが一層激しくなった。
何も考えられず、自分の身体も再び熱を帯びて熱くなる。
北斗に合わせるので精一杯だった俺は、手元に釘付けだった目を、ふと北斗に向けた。
そして―――
思わず、息を呑んだ。
どう言えばいいんだろう。
北斗が……普段、色気とは完璧無縁の奴が、言いようもなく官能的に見えて――
大人の色香を身に纏い、上りつめる様は、夕闇の中、二人で見上げた『夜桜』にも似て、その妖しい美しさに言葉を失っていた。
グラウンドで輝いていた汗とは全然違う。
違うけど、洩れ入ってくる淡い明かりに照らし出され、鈍く光る汗は妖艶で……
北斗が、全然知らない男に見えて、堪らずその身体に抱き付いた。
「北斗っ、いやだッ」
行為が嫌だったんじゃなくて、どこか遠くに行ってしまいそうな気がして――
そうじゃない。
本当に手の届かない、大人の世界にいる事実をまざまざと見せ付けられて、それが嫌で必死にしがみ付いたんだ。
二人とも何も身に付けてなかったとか、限界を感じた北斗が俺から離れようとした瞬間だったとか、そんなの知らない。
きつく抱き締めた素肌は初めての感触で、泡だらけの背中に抱き付いた時とも、まして離れて行きかけた北斗を後ろから羽交い絞めした時とも、全然違っていた。
「ばっ……離せ瑞希、汚れるッ!」
北斗の滑らかな肌が吸い付くように俺の肌に重なって、言い様のない安心感が生まれ、すぐに消えた。
北斗が、俺の身体を引き離したせいだ。
吐く息も荒く叫んだ時には、俺の身体は北斗の放ったモノで――満たされていた。
「………瑞希の…馬鹿」
大きく息を吐き、どうにか呼吸を整えた北斗が、恨めしげな眼差しで俺を睨んだ。
「あのタイミングで『いやだ』はないだろ」
「ご、ごめん、つい……」
真っ赤になって謝るのは、北斗の心情を思えばこそだ。
「『つい』、じゃない! いきなり抱きついたりするから……」
後の言葉を飲み込んだ北斗が、俺の腹部に目を遣り、再び大きな溜息を吐いた。
視線の先を追って俯くと、暗闇の中でも、自分の腹部が濡れたように光ってる。
その、滴る液体を指先で掬い取ってみた。
なんか、ちょっとだけネバネバしていて変な感じ。
「触るなっ! 頼むから動かないでくれ。すぐ洗い流すから」
言うより先に立ち上がり、壁に掛けてあったシャワーを外す。
「何で? これって汚くなんかないんだろ?」
それが、北斗の放ったものだという認識は俺にだってある。
その仕組みに関しての知識だけは、人並み以上に仕入れたんだ。
「いいや、十分汚い」
即座に返され、否定の意味を込めて小さく首を振った。
「それでも、俺には一生縁のないものかもしれない。それに北斗が付き合わせてくれるのは、これが最初で最後、なんだろ?」
「……ああ、そうだ」
勢いよく流れ出す水音に混じって、北斗の返事がはっきりと聞こえた。
その事を残念に思いながらも、薄々感じ取っていた俺は今夜限りの我侭を口にする。
「なら、もう少しこのままでいさせて」
湯の温度を加減していた北斗は、もう何も言わない。
黙って視線を外し、レバーを『止水』に合わせた。
再びシンとなった浴室の中、ポタッ、ポタッと雫の落ちるシャワーヘッドを持ったまま、俺の横に背を向けて座った。
「ったく、よりにもよってお前にぶっ掛けるなんて、最悪……」
自己嫌悪丸出しで呟かれ、そんな心境に駆られる北斗に、焦って言い訳した。
「でも、行為が嫌だったんじゃないんだ」
「……わかってるよ、そんな事。本当に嫌だったら、俺、とっくに突き飛ばされてる」
俯いたままぼそっと告げられ、こいつの事は放置する事にした。
今の俺に、北斗を立ち直らせる力なんか、ない。
「なんか変なにおい。精液ってこんなにおいするんだ」
言った途端、北斗がばっと顔を上げて振り向いた。
「一々口に出すな。それに匂いも嗅ぐんじゃない!」
「だって、どんなものか興味あるよ、やっぱり」
「それは……そうかもしれないけどなっ、……」
大きく口を開けた北斗が、今度は頭を抱え込んでしまった。
「――北斗? …あの、自分の…って、そんなに嫌なもの?」
「……じゃなくて、お前が触るのが嫌なの。そんなのさっさと洗い流してしまいたい」
真剣に訴えられ、笑みが込み上げてきた。
「まだ駄目、もうちょっと味わいたい」
すると、北斗の頬にはっきりと朱が走った。
「バッ……お前~、変態モード入ってるぞ」
「あ、やっぱり? 俺もそうじゃないかなぁとは思ってるんだけど、止まんない」
「……なぁ、その好奇心、どこまで続くんだ?」
諦めにも似た眼差しで訊ねられ、わざとゆっくり首を傾げてみせた。
「ん? う~ん、…視覚に触覚、それから嗅覚で、あと、味覚?」
「駄目っ! もう流すッ!! こっちまでおかしくなる」
「あっ、ウソ! 冗談だよ冗談」
「うるさいっ」
言うが早いかシャワーのホースを投げ捨てて、足元にあった洗面器で浴槽の湯を掬い、俺の身体にぶっ掛けた。
「うわっ! ひどっ北斗! 人がせっかく満喫してるのに」
「知るか! 自分のでしろ!」
「できないから頼んだんだろ」
「できる!」
叫ぶように言い切った北斗を、はっとして見返した。
「――俺は、そう信じてる。だから、自分を汚すなよ、瑞希。頼むから」
『北斗のを触ったって、俺の身体は汚れたりしない』
そう言いたかったけど、北斗があんまり切なそうな表情で訴えるから、何も言えなくなった。
「……わかった。じゃあ…流す」
思いっきり不本意な声音になってしまったのは仕方ない。
だって、まだまだ味わい足りなかった。
そんな俺の不満げな顔を上から見下ろした北斗が、どんな表情をしていたのか……
俯いていた俺に知る術はなく、
「――馬鹿だな」
という呟きも、しっかりとは聞き取れなかった。
「え? 何て?」
「――いや。俺が洗うから、お前はじっとしてろ」
そう言い置いて、ドアに向かった。
明かりの点いた浴室はいつも通りで、鏡には何事もなかったように、少しだけ頬を紅潮させた自分の姿が映っている。
戻って来た北斗がバーに直してあったタオルを再び手に取り、新しいボディーソープのストッパーを外す。
言われるまま浴槽の縁に腰掛けて、北斗の手元を見詰めていた。
「――なぁ瑞希」
「うん、何?」
さっきまでの、熱く、妖艶だった姿から一変、いつもの、どこか掴みどころのない奴に戻ってしまった北斗に、俺もいつも通り返事を返した。
「もしも……これから先、お前に誰か好きな女ができて――」
そんな風に切り出した北斗に、否定する必要を感じず、「…うん」と軽く相槌を打った。
「――セックスする時は、コンドーム忘れるなよ」
真面目に言われ、プッと噴き出した。
「それくらいの知識、俺にだってあるよ」
「それと、自分の残滓は自分で始末する事」
「『ざんし』って、何?」
「これ」
言いながら、北斗が俺の腹部を指で示した。
「……それも、常識?」
「そう、俺の常識」
「え!? 北斗、やっぱり経験あったのか」
その驚きの問い掛けに答えはなく、曖昧に微笑んだだけだった。
「だから瑞希の身体も、こうやって俺が洗ってる」
言葉通り、胸から腹、腕の先まで、泡立ったタオルで丁寧に撫でていく。
『こんな事を他の誰かとも、した?』
『その相手は、やっぱりどこかの可愛い女の子?』
軽く訊けばいいのに、どうしてかそれを口にするのが無性に恐かった。
「背中ならともかく、前は……かなり恥ずかしいよ」
自分の感情を無理矢理押し込めて、平然と振舞う。
それにタオル越しとは言え、身体に這わされる手の平が、どうにも落ち着かない。
「だろうな。まあ今回だけ大目に見て。瑞希を巻き込んだお詫び」
そう言われ、北斗の本心がわからなくなる。
本当に自分の性的欲求の為だけに俺を迎え入れたのか、それとも―――
「あのさ、北斗」
「ん?」
話しかけてみたものの、どうやって確かめればいいのかわからない。
「……どうした? 傷が疼き出したのか?」
身体を洗う手が止まり、心配そうに覗き込まれ、慌てて「違う」と首を振った。
「今夜の事……だけど、もしかして同情、だったりした?」
「同情? …そうなのか?」
逆に聞き返された。
「わからないから聞いてるんだよ」
すると、止めていた手を再び動かしながら、北斗がおもむろに口を開いた。
「……さあな、俺にもよくわからない。けど瑞希が大人の身体に興味を持って、知りたくなったなら、最初に教えてやるのは俺でありたい、そう思った。それだけ」
その返事は、俺の望みとは違っていたかもしれない。
それなのに、不思議と何の抵抗もなく心に沁み入ってきた。
「そう。…なら、いい。ありがと北斗。俺、今晩の事一生忘れない。北斗の……優しさも」
「大袈裟な奴」
膝立ちになっていた北斗が、タオルを浴槽の縁に置いて顔を上げた。
腰掛けた俺と目線がほとんど同じになり、見詰め合うような格好になる。
「気にしなくていい。――気持ちよかったよ、俺は」
間近でふわりと笑われ、思わず目を伏せた。
面と向かってそんな事言われるなんて、思いもしてなかった。
経験のない俺をからかったんじゃない。
俺を招いた事に後悔なんかないと、ストレートに伝えているだけ。
そういう事が平然とできる男なんだ、『成瀬北斗』という奴は。
それがわかっていて、中々顔を上げられない。
さっきの出来事を思い返して、頬が一気に紅潮したせいだ。
「瑞希、顔真っ赤」
そう言い、俺の頬をつついていった北斗の瞳に宿るもの。
その真意を汲み取る事は、俺にはとてもできそうになかった。
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