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「実はさ、その彼、千藤監督の教え子でもあったんだ」
手元を見ながらタイミングを計っていたものの、結局読みきれず、もしかしたら最悪の状態で切り出してしまった。
「え?」
液体の薬を吸収して黒茶に染まった脱脂綿。それを持つ手が止まった。
傷口に押し付けられるのが嫌だった、なんて子供じみた理由では断じてない。間が悪かっただけだ。
「千藤先生の教え子? どういう意味だ?」
顔を上げ、不思議そうに聞き返されて、一瞬口篭った。
ちゃんと説明できるか不安になったせいだ。
「――昔、大学生の時、相馬君の道場にちょっとだけ指導に通ってたんだって」
「へえ。けど何で今頃?」
北斗の疑問はもっともだ。
本当だったら玉竜旗の時に聞いていてもおかしくない情報。
今教える事になったのは、監督がそれを隠していたから。
そこに至るまでの経緯――夕べ広島のホテルで明かされた千藤監督と相馬君の過去を、できるだけ聞いた通り、時間を掛けて詳しく説明した。
相馬君はやっぱりちょっと苦手だけど、素晴らしい剣士であるのには違いない。
父親の存在が彼を追い詰めているのはもちろん、千藤監督が西城に来たせいもあって俺達にいい感情を持てないだけ。
俺は、彼の剣技を自分以上だと認めている。
悔しいし癪に障るけど、だからこそ今度剣を交える時には完璧に勝ちたいと強く思う。
同学年にそんな相手がいること自体、貴重な存在だと思う。
だから北斗にも、『瑞希を傷付けた相手』、などという情けない理由で彼を嫌って欲しくなかった。
俺を大切にしてくれてると知っているから、俺のせいで物事を公平に見る目も心も持っている北斗に、歪んだ先入観を持たせるわけにはいかない。
相馬君の事情を知れば、北斗は俺を傷付けた彼を憎んだりしない、――できない。
それは確信があった。
そしてその読みは、今度こそ見事に的中した。
「そうか、…そんな過去が二人の間に――」
ぽつりと、呟くように零した北斗が、それきり口を閉ざしてしまった。
何を考えているのか、俺にはわからない。
だから自分の正直な気持ちを明かした。
「けどさ、黙ってた監督を非難したり、責めたり、そんな気持ちは全然起きなかった」
「だろうな」
素っ気無く頷いた北斗が、小さく息を吐いて続けた。
「それにしても、色んな親がいるもんだ」
それは、俺の怪我に関して――つまり相馬君に対して、これ以上詮索する気も、非難する気もないという意思の表れだ。
そのことにほっとしつつ話を合わせた。
「うん、俺も思った。試合中に喚かれた時は正直驚いたけど、親のいない俺としてはそんなのもありか、なんて思ってたんだ」
「ああ、瑞希ならそう言えるかもな」
一度だけとはいえ剣道の試合を観戦した北斗には、客席からの声は堪えるものがあったらしい。
県大会の試合を見た後、屋外の試合との違い…というか、感想を聞いた時、一番最初にそれを挙げてた。
その時の北斗の口調が妙に歯切れ悪くて、すごく気になっていた。
『客席からの声』とはどんなものだったのか知りたかったのに、相変わらず上手くかわされて、どうにもすっきりしなかった。
そんな時の北斗は、どんなに頼んでも絶対教えてくれない。
後日、一緒にいたであろう藤木を問い詰めたら、俺を蔑むような内容のものだったと白状して、それを聞いた俺も北斗の態度にようやく合点がいったんだった。
初めて缶チューハイで乾杯した県大会での優勝祝い。
あの時に打ち明けあった、藤木さんとの一戦直後の会場の雰囲気。
あれは数ある大会の思い出の中でも、最悪なものの一つだった。
「瑞希の話聞いてたら、いつまで経っても消毒終わらないな」
ぼそっと零され、上半身半裸状態のまま一向に進んでいない治療に、遅ればせながら気がついた。
「あ、ごめん。言いたい事はほとんど話したから、いつでもどうぞ」
「じゃあ遠慮なく。けど痛くて当然なんだから、お前もちょっとは我慢しろよ」
前もって言われ、微かに頷いた。
「わかってるって。一思いにやってくれ、覚悟が鈍る」
「その台詞、まるで切腹前の武士だな」
呆れ半分に言われ、俯いていた顔を上げた。
「え、そんなに芝居じみてた?」
「いいや。お前は根っからの剣士だよ、妙に合ってる」
クスッと目の前で笑われて、忘れようとしていた風呂場での一件がまた蘇る。
これって、ヤバくないか?
北斗のこの笑顔を見る度に思い出すんじゃ、俺だけ変に意識してしまう。
当人をちらっと盗み見ても、やっぱりいつもと変わらない。
消毒薬を染み込ませた脱脂綿を、首の傷口に慎重に塗っていく横顔は真剣そのもので、思わず口から出た呻き声にも、至近から息を吹き掛けて痛みを和らげてくれる。
何の意図も含みもないのに妙にドキドキして……しかもくすぐったくて、思わず首を竦めた。
ここまでいつも通りにされると、逆になんか悲しい…というか空しい。
何故かと自問自答してみれば、答えは簡単明瞭。
意識しているのが俺だけ、だから。
あれって、ほんとにそんなに何でもない事?
普通の健康な男子高生の間では、お互いにし合ったりするのか?
……そんな事も俺にはわからない。
孝史にでも訊いてみたら、確かな答えを示してくれるんだろうか?
なんて思いついてみても、あんな真似、誰にも言えるわけない。
だからどうしても、一人グルグル考えてしまうんだ。
本当に掴みどころのない人間。もしくは『読めない奴』。
どっちにしても厄介で、それでもって頼りになる男なんだよな。
チューブ式の薬を滅菌済みのガーゼに塗り、傷口に貼り付けた北斗が、真新しい包帯で俺の首を覆っていく。
この傷に携わった、何人かの看護師の馴れた手付きを思い出す。
それに少しも引けを取らない北斗の手際のよさを素肌に感じながら、諦めにも似た溜息が零れた。
「瑞希? 終わったぞ、寝てんのか?」
いつの間にか包帯を巻き終えたらしく、北斗が横から覗き込んだ。
「違う。ちょっと考え事してただけだよ」
『そういつもいつも寝てたまるか』
という突っ込みは敢えて口にしない。
いそいそとパジャマを羽織りボタンを止めていて、急に駿を思い出した。
思いがけない北斗との諍いですっかり忘れてたけど、こんな、ボタンを留める、なんていう何でもない事でも今の駿には大変だろう。
ましてあいつは今、間違いなく一人暮らしだ。
「あのさあ北斗、駿、一人で大丈夫かな?」
いきなり湧き出した不安をそのまま口にしたら、使ったついでに薬箱の中身を整理し始めた北斗から、思いもしない返事が返ってきた。
「あ、忘れてた」
「え、何を? 駿の事?」
「そう。あいつ今、左肩ガチガチに固められてて、上半身満足に動かせないんだ」
「ええっ?」
多岐に渡る薬ー頭痛止め、腹痛、風邪薬等ーを、仕切りごとに広げながら教えてくれた症状は、俺以上に深刻だった。
「大事じゃないか」
「ああ。で、不自由だからしばらくここに来るかって誘ったんだ」
「何っ!? そんな大切な事、忘れてたのかっ?」
大変だ! と慌てて立ち上がる。それを北斗がやんわり制した。
「大丈夫。その申し出は断られたから」
「はあ?」
勢いよく振り向けば、薬の小瓶をチェスの駒のように優雅に動かしている。
パクパクと口を開けては閉じて、ようやくからかわれた事に気付き、腹立ち紛れに人様のベッドにドサッと座り込んだ。
「もう! 紛らわしい言い方するなよ! どっかで待ってるのかって焦ったじゃないか」
じろっと睨み付けても部屋の主は涼しい顔のまま、並べた備品をてきぱきと元通り箱に納めていく。それに加え、
「人の話は最後まで聞け、って、いつも言ってるだろ」
などと偉そうに意見され、ムカッとするものの今は駿の方が気がかりだった。
「それで? 誘いを断ってどうしたんだ? おばさん来てるのか?」
「いや、今回は呼ばなかったらしい。けど久住が世話役で泊まるって言うから、あいつに任せた」
「なんだ、そうなんだ」
それを聞いてほっとしつつ、「でも」と続けた。「久住も家に帰りたいだろ。もう二週間近く空けてるんだから」
「取り合えず直帰して、荷物だけ入れ替えてそのままアパートに行くって言ってたから、そうするだろ」
その口調が北斗にしては素っ気無くて、自分の誘いを断って久住を頼ったのが面白くないんだと、鈍い俺でもどうにか察した。
拗ねたような北斗も滅多に見られるもんじゃない。
そんな一面を覗かせるのも見物ではあるけど、野球部の後輩の中で一番信頼できそうな久住が行ってくれるなら、こんなに心強い事はない。
それは願ったり叶ったりだけど、
「親から文句とか、言われたりしないかな」
そこはやっぱり気になった。
両親のいない俺には、久しぶりの親子の対面は何よりも大切なもののように思える。
だけど北斗が返してきたのは、意外にも久住のプライベートな情報だった。
「久住の親は甲子園に応援に行ってたんだ。だから駿が怪我を負った事も知ってる。それに久住がキャッチャー志望なのも、高校卒業したら野球辞めるのも、全部あいつが決めて親はそれを黙認している。だから心配いらない」
「ふーん、そうなんだ。なら未来のバッテリーの為に目を瞑ってくれたのか」
「いや、後押ししたのはその親達らしい。会食の時、駿に話し掛けてたから。もしかしたら駿、久住の家にも行き来があったのかもな」
そう言われ、
「え、もう?」
と声を上げると、
「なんだ? その『もう?』ってのは」
即、聞き返された。
「だって駿、田舎で同級生の態度の豹変に傷ついてから、友達とか付き合いとか人一倍慎重になってるし、警戒心も半端なく強いんだよ。なのにそんな簡単に家に行ったりするかなって思って」
「ああ、そういう事。さあ、どうかな」
のんびり口調で答えた北斗が、薬を箱の中に全て戻して蓋を閉め、棚に仕舞った。
しきりに首を捻る俺には目もくれず、部屋の真ん中に放置されていたイスを所定の位置ー机のある場所ーに戻し、ついでに部屋の明かりを消す。
慌てて手を伸ばし枕元の淡い間接照明を点すと、北斗が隣に腰を下ろした。
「そんなに気になるんなら、明日直接訊いてみればいい」
できもしない事を言われ、眉間にしわが寄る。
「はあ? なんで直接訊けるんだよ。明日は学校も部活も休みだろ」
「だから、二人をここに招待したんだ」
「えっ? あ、言い忘れてたって、それ?」
「そ。瑞希も会いたいんじゃないかと思って」
「そりゃ会いたいよ、会いたいに決まってるだろ。けど怪我人だよ? 病院は? それに休養も必要――」
言いかけて、ものすごい矛盾に気が付いた。
「なのは、瑞希も一緒だろ?」
先を越され、苦笑いで頷く。
「ん、…うん、そうだった。でも、いいのか?」
「ああ、駿は喜んでた。けど久住も一緒にって俺が言ってしまったから、それは瑞希に謝らないと」
「いいよ。だって後輩の中で一番信頼してるんだろ?」
首を傾げて見せたら、俺にまで見抜かれていたのが意外だったのか、それとも元々隠す気なんかなかったのか、今一掴みかねるけど、
「わかるか?」
と、案外あっさり認めた。
「当然。だから全然構わない。それに駿が今、一番気が合ってるのも久住みたいだし」
「よかった。ありがとな瑞希」
「白々しい。どうせ反対するわけないって初めから読んでたんだろ?」
非難の眼差しで隣を見遣ると、目の合った北斗が決まり悪そうに頭を搔いた。
「まあな。けど来るのは昼過ぎになるらしい。朝は久しぶりにゆっくりしよ」
……珍しい、北斗がそんな事を言うなんて。
「ランディーの散歩は?」
「ま、目が覚めてからという事で。俺も明日はちょっと……いつ起きれるか自信ない」
「俺も~~」
寝慣れた布団にごろんと転がって、久しぶりの感触に思い切り浸る。
「あ~この感じ。やっぱこのベッド、最高に寝心地いい!」
ゴロゴロと肌掛けと戯れる俺を見て、北斗が何か思い出したようにクスリと笑った。
「慰労会でもそんな事、言ったらしいな」
「え!? 何で知って……あ、山崎か」
「当り。けどそんなに信用して大丈夫か? 組み立てたの俺達だぞ、忘れてないだろうな」
「そうだった。同居後初、二人の共同作業、第一…号……」
言いながら、また風呂場での一件が蘇る。
あれも、共同作業?
……まずい。
思い出したら絶対赤くなる。北斗が変に思うよ。
そう意識すればするほど頬の赤みが増していく。
鏡なんか見なくてもはっきりわかるくらい、紅潮してる。
敷布団に突っ伏して、北斗に背を向けた。
「瑞希? どうかした?」
「な、何でもない。もう寝よ、北斗も疲れただろ」
薄い肌掛けを頭まで被り、顔の熱をひた隠す。けど、すぐに遮られた。
「この暑いのになんで布団被るんだ? 汗は傷に障るし、それに蒸れるから止めとけ」
言いながら肌掛けを引き剥がそうとする。
必死になってそれを阻止した。
「いいだろ別に。クーラー効いてるし、汗なんかかかないよ」
布団の中、篭った声で答えたら、一瞬の間を置いて肌掛けを引っ張る力が緩んだ。
「……そんなに俺の顔、見たくない?」
ぽつりと零されて、布団の中で固まった。「だよな。成り行きとは言え、お前にとんでもない事したし、させたし……」
「違うっ!」
ガバッと起き上がり、淡い明かりの中、俺を見つめる眼差しを正面から受け止めた。
「望んだのは俺だ、北斗は付き合わせてくれただけ。だから顔を見たくないんじゃなくて、合わせる顔がないんだよ。だって……」
「――『だって』? 何?」
「……北斗には大した事じゃなくても、思い出したら赤くなるんだよ! 仕方ないだろっ、経験なんかないんだから」
ぶちまけた途端、北斗がプッと吹き出した。
「なんだよ、笑うとこじゃないだろ」
睨み付けてもこの暗がりじゃよく見えないから、赤い顔は気付かれてないかもしれない。
それはわかってるけど、火照りだけじゃなくて過剰な反応をしてしまう幼い自分を知られるのが、何だか癪だった。
「悪い。けど瑞希、それ逆切れ」
言いながら、まだ笑ってる。
俺が一人悶々としてたのなんか、とっくにお見通しだったんだ。
「もうっ、だから知られたくなかったのに……」
などと文句を言ってみても、逆効果なだけ。
無駄なあがきは止め本当に寝てしまおうと背を向けて、一つ思いついた事があった。
「そうだ」
被りかけた肌掛けを跳ね除け勢いよく起き上がると、ベッドの上に正座して北斗に向き合った。
「この際だから訊きたいんだけど」
「んー? 何だ? 改まって」
伸びをして、眠そうに欠伸をする北斗に思い切って切り出した。
孝史にも明かしてない、田舎の友達が大人へと変化し始めてから、ずっと聞きたくて聞けなかった事。
今夜なら……北斗になら、訊けそう。
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