すれ違う心

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すれ違う心

      明かりの灯っていない吉野家。  それを見て暗い溜息が出る。  気を取り直して歩を早め、玄関ではなく愛犬ランディーの元へ向かった。  カーポートを通り抜ける前に「ワン、ワンワン!」と威勢のいい鳴き声が聞こえ、つられるように駆け出した。 「ただいまランディー、いい子にしてたか?」 「ク~ン」  繋がれた鎖を目一杯引っ張って、甘える仕草が素直で可愛い。  その首を抱えるように抱き締めて、北斗に会えない淋しさを紛らわした。 「ランディーも淋しかっただろ。ごめんな、長いこと留守にして」  話しかけていて、足元のトレイに水が並々と入れてあるのに気付いた。 「隣のおばさん、まめに水替えに来てくれたんだ。よかったな」 「ワン!」 「ハハ、そっか、お前も嬉しいのか」  あごの下を撫でてやると、何だか肉がふよふよと弛んでる。 「あれ、ランディー、ちょっと痩せた?」  真ん丸い、つぶらな瞳を覗き込み、「ん?」と首を傾げたら、いきなり頭の上に被さってきた! 「イタッ! 痛いよランディー、俺怪我人なんだから加減してくれよ」  言いながらランディーの太い前足を肩から外し、頭を撫でてやった。 「散歩は着替えてからな」  その言葉がわかったのか、じゃれるのを止めお座りをして俺を見つめる。  立ち上がり、服を叩きながら「後でな」と声を掛け玄関に回った。  ほとんどの荷物をホテルから宅配で送ったんで、手荷物は愛用のザックだけだ。  その内ポケットから鍵を取り出し、暗がりの中、鍵穴を探した。  家に入り手探りで廊下の電気のスイッチを押すと、真っ暗だった我が家にもようやく明かりが点る。  ほっと息を吐いて、風呂場に直行した。  帰りの新幹線で、北斗の母さんに病院の予約を頼んでいた俺は、あの時の想像通り、受付ですでに待ち伏せされていた。  当然、診察も半泣き状態のおばさんに付き添われ、正直参った。  北斗で慣れているはず、と読んでいた俺の推理は、見事に外れたわけだ。 『母親』って、子供が怪我したらこんな風に心配するんだ、と妙な感慨を覚えたけど、俺的には嬉しいとか照れ臭いとかを通り越して、ただただ申し訳ないと胃の辺りがキリキリ痛むような気分だった。  だから診察後、「心配させた罰よ」と夕食に誘われても断る事ができなかった。  久しぶりのおばさんとの夕食は北斗抜きでも十分楽しくて、途中で仁科さんも合流して、思いがけずミニ祝勝会みたいになっていた。  学校での慰労会後の会食をパスしたのが逆によかった。なんて思ったら、西城の皆に悪いかな?  ただ、病院近くの普通のファミレスだったんで『オアシス』ほどは落ち着けず、七時過ぎには帰途に着いていた。  久しぶりに自宅の風呂にゆっくり浸かりたくて、着替えの間に湯を溜めておこうと、浴槽の中を簡単に洗い湯加減を温めに設定して流れる水に手を晒す。  ただし時間稼ぎの為、あまり目一杯は出さない。  水温が徐々に上がり、いい感じになったのを見計らって「よしよし」と鼻歌混じりに脱衣室のドアを開け―――  目の前の人影に「ギャ―ッ」とも「ワーッ!」とも言えず、声にならない悲鳴を上げた!  ありったけの声量で「ドロボーッ!!」と叫ぶ寸前、 「なんだ、風呂入ってたんじゃなかったのか」  とのたまう、聞き慣れた声が。 「ほ…北斗!?」  会いたくて堪らなかった奴の名前。  にもかかわらず上ずった声で口にして……へなへなとへたり込んでしまった。 「なっ! おい、瑞希」  北斗も慌てて声を掛けるけど、足元に座り込んだ俺は身じろぎもできない。  あれだ、あまりにもひどく驚いた後の虚脱状態。  しかし――  なんて間抜けな再会なんだ!  そりゃ、こいつを相手にドラマチックなシチュエーションなんて望んでないけど、丸々一週間ぶりに会ったんだ、もう少し……なぁ。  へたったまま肩を落とし、「はあ」と大きく出た溜息に、膝を折りかけた北斗の動きが止まった。 「失礼な奴だな、人を強盗か幽霊みたいに。勝手に怯えといてその溜息か?」 「そっちこそ! なんでそんなとこに突っ立ってるんだ! 声くらい掛けろよ」  醜態を晒したのをつぶさに見られ、段々腹が立ってくる。  言い掛かりだとわかっていても憤りを止められず、憮然と睨み上げて――  この感じ、前にも体験したと思い出した。  そうだ、この家の玄関で北斗にいきなりキスされた、あの時と。  和彦の一件で、北斗ー成瀬をすごく心配させた。  その仕返しにされた口付けは、感情なんか伴わない、言い換えればペナルティーか罰みたいなものだった。  北斗が自分でそう言った。  なのに、忘れたくても一生忘れられない。  情けないことに、あれが俺のファーストキスだったから。  他人はどうか知らないけど、身体の事もあってそういうものに憧れに近い感情を抱いている俺は、キスや性行為をすごく大切なものだと思っている。  そう、例え相手が男だろうと。  当然その時の記憶も鮮明なわけで、思い出した途端頬が熱くなり、一人狼狽する。  それなのに、屈辱の記憶を植え付けた当人はきれいさっぱり忘れたのか、動じる気配も見せず浴室を顎でしゃくった。 「ノックしようか迷ってたんだよ、水音がしてたから」  言いながら「ほら」と目の前に手を差し伸べる。掴まれって事だ。  しっかり握り返したら、「よっ」と引っ張って楽々立ち上がらせてくれた。  ただ、肝心の俺は足に力が戻らず、情けないことに目の前のシャツにしがみついた。 「ちょっ…と待って~、まだ足に力入らないよぉ」 「ったく、世話の焼ける奴。ほら、しっかりしろ」  ポンポンと背中を叩いて、俺の頼りない足元を助けてくれる。  少しの間手を貸して復活を待っていた北斗が、独り立ちできたのを察したのか、支えていた腕を下ろした。  けど、その離れ方になんとなく違和感を感じた。  日頃スキンシップ過多の奴が、久しぶりに会ったのに抱擁の一つもなく離れるなんて。  いや、それはそれでいいんだけど、わざと距離を置かれた気がして、その端整な横顔を思わず覗き込んだ。 「北斗? どうかした?」 「……瑞希、山崎に聞いたんだけど、この怪我……後遺症とかないんだろうな?」  包帯に目を遣る北斗の声音が、心配…というより機嫌の悪さを如実に表していて――  さっきの慰労会や広島での先輩達の態度、おまけに北斗の母さんのうろたえようを思い出し、一気に暗い気分になった。  玉竜旗大会前日の稽古で打ち身を負っただけで、自分の事以上に心配した奴だ。  急所に近いところを、しかもかなり深く傷付けたなんて知ったら、一体どんな反応するだろう。  とはいえ、遠く離れた会場で互いに全力を尽くし、ようやく帰ってきた我が家だ。  こんな事で二人して落ち込んでたら折角の時間がもったいない。  そう気を取り直し、 「大丈夫大丈夫」  明るく答えて心配ないと手を振った。「掠り傷だし、身体への影響は全然ないから」  すると、胡散臭そうに目を眇めた北斗が、首の包帯に指を伸ばしてきた。  ゴクッと生唾を飲み込んで、極力刺激しないよう大人しくしていたら、傷跡に触れる寸前、何かを堪えるように手の平をぎゅっと握り締めた。  何も言えず、気まずい沈黙が俺達の間に漂う。  居心地の悪さを消し去りたくて別の話題を探していると、 「なら、いい」  異様に長い間を置いて、すげなく返された。  短い返事。何が「いい」のか、思わず訊きそうになる。 「あの」と言いかけた俺を、「で?」と疑問符で遮った北斗が、おもむろに切り出した。 「何で携帯、繋がらなかったんだ?」 「え、携帯? あっ!」  言われて初めてその存在を思い出した。  文明の利器が、ザックの外ポケットの中で、役に立たない物体と化していた事実。  真横にある脱衣室のカゴの中にちらっと目を遣って、どう言い逃れしようか必死に考える。  あからさまなうろたえぶりを見て大方の事情を察したんだろう、北斗がやれやれと言いたげな冷たい一瞥をくれた。 「電源、切ったままだったんだな?」 「そ、そうそう。病院で――」 「それで? 診察終わってからも、俺に連絡入れようとか一度も思わなかったのか?」  表情を全く変えずに言われ、冷や汗をかきつつもそこははっきり主張した。 「うん。だって北斗達、会食には参加するって丸山先生に聞いてたから――」 「ならメールでも構わないだろ」  説明半ばで割り込んだのは、その先を聞く必要はないという意思表示だ。  これは、相当怒ってる。 「六時過ぎても携帯は繋がらない、家の電話にも出ない。疲れて寝てるのかと思って急いで家に戻っても、帰ってきた形跡もない。そんな状況に置かれてみろ、誰だって心配になるだろう」  案の定、次々並べ立てられて、何も言い返せず口ごもった。 「診察の結果が悪かったんじゃないか、俺に言えなくてわざと電源切ったんだろうか。そんな不安ばっか頭に浮かんで、顔を見るまで気が気じゃなかった」 「それは、…ごめん」  神妙に謝って頭を下げても、北斗の怒りは収まらない。 「なのにお前ときたら、呑気に鼻歌交じりで風呂から出てくるし、おまけに人の顔見るなり勝手に腰抜かすほど驚いて……ったく、口にするだけで腹が立つ」 『なら言うなよ!』   ささやかな仕返しは、心の中だけで喚いた。  確かに北斗の言う事は全部もっともで、俺は深く反省するしかない。  けど、そこまで怒るような事か? という疑問も心の隅に湧き起こる。  妙に苛ついて、普段の落ち着いた態度とはあまりにもかけ離れていて、どうにも納得がいかない。  そんな俺の戸惑いを他所に、北斗が素っ気なく訊いてきた。 「それで、何か言う事は?」 「え、『何か』って……あ、ただいま?」  当てずっぽうで答えたら、 「じゃなくて、他にあるだろ」  即、否定された。  けど何を望んでいるのか、皆目見当も付かない。 「え…と、準優勝、したよ?」  すると、今度はあからさまな溜息を零された。 「ああ。――その傷と引き換えにな」  結果を少しも喜んでいない、冷めた声。  耳にしただけで再会の喜びも消え去ってしまいそうな、冷ややかな反応。  そんな態度を取られるなんて思いもしなかった俺は、わけもわからず、ただ不安だけが蓄積されていった。
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