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わたしは、ある王国の市民に属し、城のすぐ近くの町に住む父の娘であったが、あるとき行われた城勤めの侍女の募集に適って、王様の奥様のそばに仕えるようになった。
それはわたしにとってもわたしの家族にとっても名誉あることだったし、街中の一般的な職業と比べればよりよい報酬が安定して得られる利点もあった。
王様の奥様の身の回りの世話をする侍女ということだが、それはそのころの奥様の状況を考えるといささか退屈な仕事でもあったし、その割には神経を使う仕事でもあった。
奥様の侍女は、1年もしないうちに9割方が暇を出されてしまうのだったと知った。だからせっかく城勤めという職業にありつけたのに、寄りによって奥様の侍女というのは運が悪いとも言えた。
わたしが勤め始めたころの奥様はこんな感じだった。
奥様は毎日、朝から晩まで魔法の鏡に自分が美しいかどうかについて問うていた。
鏡の中には、奥様の姿が映っていて、その鏡の中の奥様が、鏡を見ている奥様に返事を返してよこすというものだった。そして返事は決まって、
「この国で一番美しいのはあなたです」というものだった。
奥様が日々、鏡を見て、自分を美しいかどうか鏡に尋ねるのは、恐らくほかにすることが無いという痛ましく虚しい「王の妻」という立場が原因しているのだろうとわたしは思っていた。
王様は美しい奥様に、なるべく苦労なく、何もさせないようにしていたからだ。つまり、現実的な「何不自由ない生活」というのは、そういうものだったのだろうか。
王の妻だから、国内でおおよそどんなことをしても自由だろうと考えるかも知れないが、王の妻だからこそ「してはならない」という、かせもある。名誉や威厳、誇りや品格と言ったもののためには慎まなければならない行動があるのだ。それらのことは奥様に、自分で出来るかしたいこともあえて侍女に命令するとか、普通なら密かに誰にも知られずにしておきたいことをつまびらかにして他人の手に委ねなければならないという大きな負担を強いていた。
奥様の人生の興味が、「自分が美しいかどうか」という、ほぼ一点に掛かっていることは哀しいというほか無いだろう。
奥様は魔法の鏡を手にして、その中にある自分に「わたしは美しいか?」と問う以外に重要なことが無いという、全くばかげた状況に陥っていた。
もしかすると奥様は心のどこかで、鏡の国に吸い込まれたいと思っているのかも知れない。同じようなもうひとつの世界には自分の憂鬱をほぐしてくれるものがあるかもしれない、というような希望を抱いているのかも。とにかく鏡の中の自分に話しかけ、何かしら「いつもとは違う答え」を望んでいたのかも知れない。だが、鏡の中の自分の答えは決まって、
「この国で一番美しいのはあなたよ」
鏡の中の自分は自画自賛するのだった。
奥様の、その鏡に対する執着はやがて誰からも病気と見なされて、王様の悩みの一つになった。
それで国で最も権威のある医者が呼ばれて奥様の診察をしたのだが、医者がいうには、
「これは単なる奥様の我が儘です。病気と言うほどのものではありません。この我が儘さえ収まれば、あとは何の問題も無いでしょう」
そう言って引き取ってしまった。
ですが、その医者の言うとおりに、奥様が我が儘だったとしても、それをどのようにすれば取り除けるのかは、分からないままだった。わたしを始め皆、そう思って途方に暮れていた。そして、奥様自身がまた、無闇と批判されて自分の中に閉じこもり、より一層、鏡の中の自分以外とほとんどことばを交わさなくなってしまった。
城の中で起きたことは、城勤めをする者たちは決して外部に漏らさないようにという規律があった。勤め人同士で話す以外は、外の無関係な人間に内情を話してはならないということだ。そういう約束事は、そうしないと何でもかんでも外に漏れてしまうから作られているのだが、人の口に戸は立てられない。少なからず漏れてしまう。
王様は、奥様の噂がほかから自分に伝わってくるのを快く思っていなかった。それで、王様や奥様の身の回りにいる者は、一層の強い規律意識を求められ、それを果たす代わりに一般の従者とは違う報酬と地位を与えられていた。そして、それと引き換えに約束が違えられた場合の罰も厳しかった。
ある日。いつものように奥様は魔法の手鏡に自分を映し問うた。
「一番美しいのは、だあれ?」
だがその日、手鏡の中の自分が、期待に答えと言うべきか、とうとうというべきかいつもとは違う答えを口にした。
「この国で一番美しいのは……」
鏡の中の自分が答えたのは城下町のパン職人の娘の名前だった。その娘は17才になり、ほんのりと大人の女の仲間入りを果たして。それでその娘は周囲の者からも「白雪の姫」「白雪姫」などともてはやされていた。鏡はその娘の姿を映し出して見せた。
「今はこの娘がこの国で最も美しい」
鏡の中の奥様は高らかに宣言した。
奥様は自分が、最も美しいという座から陥落したことを嘆いて、何かしなければならないと思ったのだろう、一日中、一週間、十日、1ヶ月、化粧を変え髪型を変え服を替え食事を変えした。けれどそれらはどれも徒労に終わった。奥様が鏡に問う度、鏡は白雪姫を映して見せた。
魔法の鏡は言った。
「何をしても、白雪姫の火のついた美しさは、今は誰にも消せないでしょう」
それは奥様が奥様自身に言うのだから、どうすることも出来なかった。
奥様は鏡を見ながら癪に障った心をどうにもすることが出来ず途方に暮れ、鬱憤は頂点に達し、鏡を床に叩きつけてしまった。
わたしはそれをそばで立ったまま止める間もなく「あっ」と声を上げて見ているしか無かった。
鏡は砕け散り。鏡の中の奥様も砕け散り。鏡の中の自分と胴体の奥様もバラバラの欠片になって崩れ落ちたのだ。
「なんということに……」
わたしはこの部屋に幸い奥様とわたししかいなかったことを確かめ、大慌てで、まず大きな衣装箱の中身をあけて空にし油紙を敷き詰めて奥様の欠片を丁寧に集めて入れ、蓋をして誰にも見られないようにした。それから今度は砕けた鏡の破片をまた丁寧に、どんな小さな欠片も漏らさず集めて、羽ブラシでちりとりに取って空けた宝石箱にしまった。
そのときから、忽然として奥様は姿を消したわけだ。消えた理由はわたししか知らない。
わたしは同僚の誰にも、上役の誰にも、国の大臣の誰にも理由を言わなかった。そして王様に呼び出され、奥様の行方を問われたときにも、
「どうかわたしを信じて、しばらくの間は『奥様はご病気』ということにしていただけますよう」と願い出た。わたしは幸い、王様にも信望厚く思ってもらえていたので、わたしの切なる願いを聞き届けて、
「ならばおまえの言い分を叶えよう。だが、それほど長い時間では困るぞ」
王様は静かにそう言った。わたしはそれには頷くだけだった。
わたしはその日から、もうひとつ我が儘を言って、城内に小部屋を借り、わたし以外に誰の出入りも禁じてもらい、そしてわたしは城で、その小部屋での秘密の仕事以外、当面一切何もしないということにしてもらった。
それからの日々、わたしは鏡の修復に取りかかった。それ以外に奥様をお助けする方法は無いという確信があった。その確信に自信があったわけでは無いが。
わたしは小さな部屋に奥様の欠片をしまった衣装箱と鏡の破片をしまった宝石箱を引き込み、小さなテーブルの上に平らな石の板を置いて、その上にまず鏡の破片の大きなものから順に丁寧に息を殺して並べていった。
日がな一日、鏡の破片を並べていた。最初の数日は、鏡の外枠や大きな破片ではかどった、しばらくするとその仕事は困難を極めた。どの破片がどの場所のものか、皆目分からなかった。そして、疲れて気詰まりになり、溜息でもつこうものなら、鏡の破片を吹き飛ばしてしまいかねなかった。
そのころ、王様の奥様の姿が見えなくなったのはどうしてだろうか?と噂が立ち、侍従の口も一層堅くなった。そのせいでわたしも城外に出ると人から何かしら聞かれたし、ほかにも新聞記者や特ダネを狙う物書きが近づいて来てわたしに金を握らせ、高価な贈り物を偲ばせて来ることもあった。わたしはそれらをことごとく撥ね付けた。
わたしは家に帰っても家族の雰囲気が以前より重苦しいことに気づいた。恐らく奥様の情報を聞き出したい誰かがわたしの家族にも近づいているのだと思った。だからわたしは、
「奥様はご病気ですが、時期によくなります。みんなで奥様の早い回復をお祈りしていてネ」
そう言った。そんな通り一遍の文句で声を掛けてもわたしの家族は顔に生気を帯びて喜んだ。
わたしは、その日の帰宅を最後に、
「これからはしばらく忙しいので、お城に泊まります。心配はしないで」
そう言って、翌日から城の小部屋に缶詰になった。
わたしは奥様の鏡パズルの最も細かい複雑な割れ目の修復にさしかかっていた。
奥様の欠片を修めた衣装箱は中でどうなっていたか、わたしには怖くて見ることができなかったけれど、希望は捨てていなかった。
わたしは希望を捨てていなかったけれど、もう1ヶ月あまりも経って、城の人間も、特に王様は絶望感を持っていた。
わたしはとにかくできる限り鏡を元通りにした。けれど鏡の表面の細かいひび割れを、粉々になった破片で埋めることは出来ても元に戻すことは出来なかった。
最後の破片をすべてノリで固めて、かつての手鏡の形が完成した。
わたしはそれで一応の満足感を得たが、それより大事なのは衣装箱の中の奥様だ。
衣装箱の中でガタガタと何かがざわめく音がした。わたしは衣装箱の蓋をゆっくり恐る恐る持ち上げた。
箱の中に身を縮めていた奥様が外の光に照らされて見えた。
奥様は箱の中で立ち上がった。わたしは何を考えることも無く、ただただ涙がこぼれ落ちた。それは奥様も同じだった。わたしは奥様と抱き合った。それから奥様はわたしの手に掴まって衣装箱の外に踏み出し、ついに床に立った。
わたしは奥様の顔に鏡のそれと同じく、縦に横に走る薄いヒビのあとを見て悲しく思った。申し訳なくて残念だった。わたしはそのことをすぐに奥様に告げることが出来ず目を背けてしまった。
奥様はわたしがテーブルの上に再現した魔法の手鏡を覗き込んだ。鏡の中にまた奥様の分身が現れた。鏡は今の奥様の姿そのままだ。
「わたしはもう、美しくはなくなったわね」
奥様は鏡の中の自分に告げた。鏡の中の奥様が何を言うのか、わたしは不安に思ったが、意外な事を口にした。
「確かに、あなたの見た目は傷つきました。ですがあなたはこの1ヶ月あまりの間、箱の中で思案を巡らし、何かを感じ取ったようですよ」
それを聞いて奥様はウンウンと頷いた。
奥様はわたしに、「おまえはこれからもわたしのそばにいてくれますか」と聞いたので「ええ、もちろんです」と答えた。奥様は微笑んで、わたしたちはまた抱き合った。
奥様は城の皆の前に姿を現した。その姿は、いささか衝撃を与えた。かつてのことを考えれば奥様の容姿はもう見る影も無かった。王様は特に衝撃を受けたし、失望もしただろう。かつてその美貌を見初めて結婚した相手がこうなったことをどう言って表現すればよかったか、王様には分からないようだった。
「わたしを遠ざけたいとお思いなら、そうしてくださいまし」
奥様は王様にそう言って部屋に下がった。
王様というのはそもそも側室を持っている。それを考えると奥様の処遇もどうなるかはおおよそ分かるものだった。
奥様は正室だったが、城を出るようになった。以前の状況を考えればまるで正反対の生活になった。
町の女たちと同様の服を着て歩き回った。わたしもそれに同行した。
始めは勝手が掴めず、奥様はおっかなびっくり町の人々と触れあった。わたしは奥様に助言をしたりして歩いた。そのころは、特に何か目的があって町を歩いているのでは無かった。奥様に取ってみれば何かの気晴らしにと思っていたのかも知れない。王様の正室と言っても、そのうちに離婚を言い渡されるかも知れない。もう王様に愛されることも無いのだろう。そんないたわしい雰囲気が奥様にまとわりついていた。
奥様はある日から、町の掃除を始めた。道のゴミを集め、ホウキで掃いて行った。無論それをしているのが王様の正室である奥様だとは誰も知らないし明かすことも無かった。わたしたちは、ただの掃除をしたがる酔狂な人間として方々を掃除をして回った。だが、それは意外と楽しいものだった。誰にも囚われない心静かな仕事だった。
「町の人々は自分達の生活のために仕事をしている。わたしは掃除をしなくとも生きていける。これは、町の人から見れば我が儘で無駄な仕事かも知れませんね」
「そんなことありません奥様。町がきれいになることは、済んでいる人にとって幸せなことなはずです」
「そうだといいけれど」
わたしたちは、毎日掃除をし、昼には奥様とわたしとでこしらえたお弁当をバスケットから出して食べた。お弁当と言っても、パンと切り分けたチーズを一欠片と果物というものだったが、川辺や木陰で話ながら食べるお弁当はおいしかった。
奥様が町中の清掃を始めてしばらくしたころ、閑静な家並みの路地に入った。ここは国の高級な役職に就いている人間が多く住まっていたり、金のある商人の本宅や別宅もあった。さすがにそのような人間が住んでいる地域は、ゴミも少なく手入れが行き届いている感じがあった。
「ここら辺は、掃除のしがいがあまりないわね」
「そうですね奥様」
わたしたちは、入れるかぎりの道の奥まで見回って、それでここはもういいだろうと言うことになって、表の道に出た。そのときにわたしたちの前を黒塗りの馬車が通っていった。
馬車はわたしたちの前を過ぎてすぐに歩道に寄せて停まり、御者が素早く降りて馬車の扉を引き、乗客が降りてきた。乗客は女で、僅かに左右の人目を推し量るようにしながら降りてきた。わたしたちはこの界隈のどこかの家の雇われ女のごとくに違和感が無かったので、馬車から降り立った女はわたしたちを気に止める素振りも示さなかった。
けれどその女にはわたしたちの方は見覚えがあった。
「あれは……」
わたしは小声で奥様にそう言った。
「ふ……」
奥様は少し声を漏らしたが、それが笑いだったのか悲しみだったのか、それとも嘲りだったのか、わたしには判断がつかなかった。奥様は白雪姫の方を少しの間黙って見ていたが、白雪姫が馬車の止まった前の邸宅のドアに逃げ込むように吸い込まれていくのを見て、奥様も目をそらした。白雪姫が飛び込んだ家の中からは、男と女が愛情を確かめ合う声が漏れ出て聞こえた。
「まっ!」
わたしは声が出た。奥様は黙って、道に目をやり肩すくめて口元をすぼめていた。
馬車の乗客は白雪姫だった。彼女が奥様やわたしのことを見ても誰だか分からないのは当然だった。いつも一方的に奥様が彼女を見て嫉妬していたのだから。だが今の白雪姫に以前の清純な香りはもう感じられない。少し前、若く有望な商人の妻になったと聞いていたが、今彼女が馬車から降りて飛び込んだのは貴族の男の家だった。
白雪姫はふしだらな匂いをさせた女になっていた。
奥様はどう思ったのだろう。かつて彼女への嫉妬に身を焼いていた奥様は、その白雪姫が、結局その美しさのせいなのか身持ちの悪い女に成り下がり、嬉嬉として男との遊びに興じていることに落胆しただろうか。
奥様はわたしに、
「さ、行きましょう。面白がって見ていると日が暮れてしまう」
そう言って歩き出した。
夕日の帰り道に並んで歩く奥様にむかしの華美な面影は無く、ありきたりの市民の女性の格好をしていて、服はそこかしこが擦り切れていたし、髪もむかしの栗色を失い、後ろで乱暴に纏められていた。けれどその姿はむかしとは違う輝きを放っていた。
わたしは奥様に付いて町の掃除以外にもさまざまな仕事をして、日を過ごした。
ある日奥様はわたしにこう言った。
「おまえも、わたしと一緒にいろんなことをしましたね。城勤めというのに、こんなに毎日、街角の掃除ばかりしたり。おまえには誰か、いい人はいないの?いなければわたしが見つけて上げようと思うの」
「わたしのことなど、ご心配いただいて、ありがとうございます奥様」
「わたしの我が儘に不平も言わずついて来てくれるおまえを嬉しく思っていますよ
「いいえそんな、奥様。奥様こそわたしの人生のカガミですわ」
わたしがそう言うと奥様はわたしを抱きしめてくれた。
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