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精神病院
そこは、精神病棟と呼ばれていた。
窓には鉄格子。頑丈な鍵が、錆びた鉄の扉につけられている。病室の中にはベッド、トイレ、洗面台、小さな棚しかない。日当たりの悪さからか、かび臭さが充満していた。そこは病室というよりも、牢獄といったほうがわかりやすい。
そんな牢獄に、少年が寝転がっていた。腕には針で刺したような跡がある。貧血を起こしているのか、少年の顔は青白い。
「くそっ……血を抜きすぎだ……」
病人を大人しくさせる方法として、血を抜くしゃ血を、少年は施されていた。
――しばらく、動けないな。
ゴロリと仰向けになる。天井のシミが、悪魔のように笑っている気がする。
――母さん、大丈夫かな。
少年には母がいた。この世界でたった一人の身内だった。疲れと貧血からか、思考が回らなくなり、まどろんでいると、急に外から声をかけられた。
「カンタロウ、カンタロウ」
「……うん?」
カンタロウ。
それは少年の名前だ。
カンタロウが眠るのを我慢して起き上がると、同年齢ぐらいの少年が、部屋の扉の窓から中を覗いている。
「カンタロウ。起きてる?」
「ルウか?」
ルウはこの精神病院で出会った、友達だ。肌は白く、髪は白銀。容姿はカンタロウよりも美しい。
ルウがどうしてこの精神病院に入院させられているのか、カンタロウは聞かなかった。恐らく、孤児だからだろうと思っていた。親の話をすると、ルウは口をつぐむからだ。
兵士と喧嘩して、ここに放られたとき、すでに入院していたルウからカンタロウに話しかけた。最初、カンタロウはその身の境遇からか、ルウを避けていた。しかし、話をしているうちに、仲良くなっていった。自由時間になると、一緒に遊ぶほどにまでに絆を深めていた。
「どうしたんだ?」
「カンタロウ……ごめん」
ルウの声が沈んだ。
「いきなりどうした?」
「養子としてもらわれることになっちゃった。僕は行かなきゃならない」
つまり、他人の子供として生きるということだ。どんな形であれ、この狂った病院からでられるのであれば、幸せだろう。
ルウは、カンタロウの顔を見ようとしなかった。あえて眼を逸らしているようだった。
「そうか。そうなんだ」
「……じゃ、行くね」
それだけだった。ルウはカンタロウのいる部屋のドアから、離れていく。
「ルウ」
カンタロウが、ルウを呼びとめた。
「うん?」
ルウの足が止まる。
「おめでとう――幸せにな」
その思いがけない言葉に、ルウの眼が丸くなる。カンタロウは、白い歯をだして笑っていた。本心で喜んでいるのだ。
「……ごめんよ。カンタロウ」
ルウは友達を置き去りにする罪悪感から、逃げだすように、その場から離れていった。
カンタロウは微笑むと目を閉じた。暗い世界の中で、安らぎを覚え。いつしか闇へと溶けていく。
「おい」
しばらくして突然体を、軽く足蹴にされた。
「うっ……」
カンタロウが目を開けると、鎧を着た兵士が立っていた。腰には剣を所持している。
「おい! 起きろ小僧!」
また足蹴にされる。カンタロウの体は、少しの力で簡単に転がった。
「釈放だ。でろ」
「急にどうしたんだ?」
「簡単な話だ。お前が『エコーズではないこと』が証明された」
エコーズ。
この世界に跋扈している怪物の名称。
エコーズの特徴は両目が異常に赤いこと。ゆえに赤目の人種は、自然と差別的な扱いを受けることとなる。カンタロウの両目は黒だが、この病院に閉じこめられるようになったのには、訳があった。
「なぜ?」
兵士は疑問を無視し、カンタロウを部屋から乱暴に連れだした。
鎖がジャラジャラと、リズムよく動く音。
低いうめき声が、永遠とどこからか流れてくる。
大きく目と口を開け、カンタロウ達を眺める病人。
それらの部屋を抜け、久しぶりに外へ、カンタロウはでることができた。
カンタロウが眩しい夕焼けを手でさえぎっていると、二人の影が近づいてきた。
「……カンタロウさん?」
女性に肩を担がれた女が、カンタロウの名を呼んだ。
「……かあ……さん」
すぐに母だとわかった。
カンタロウの母、ヒナゲシは手を虚空でウロウロさせる。ヒナゲシを抱えている背の高い女、スズは悲痛な表情でそれを眺めていた。
「カンタロウさん? どこ? どこにいるの? カンタロウさん?」
泣きそうな声で、自分の息子を呼ぶヒナゲシ。
「ヒナゲシ様。カンタロウは無事です」
スズはその姿を見ておれず、ヒナゲシに声をかける。
「カンタロウさん? どこ? お願い。もう一度返事して」
スズの太く小麦色の腕とは違い、細く、白い腕が左右に動き、ヒナゲシはカンタロウを探した。
スズは力をこめて、黒い瞳をカンタロウにむける。それは早くコチラへ来いという合図だった。
「母さん」
フラフラしながら、カンタロウは母の元へたどりつく。ヒナゲシの手が、カンタロウの頭に触れた。
「ああっ、カンタロウさん。よかった。無事なのね?」
スズから離れると、すぐにヒナゲシはカンタロウを抱きしめた。土の匂いがカンタロウの鼻孔に入る。その匂いに混じった懐かしい香りに、カンタロウの目が潤んだ。
「よかった。本当によかった。私の息子」
「母さん……目は……どうしたんだ?」
十歳になった少年でさえ、母の様子のおかしさはすぐにわかった。
ヒナゲシの両目は、白い包帯で巻かれていた。目が外にでていないのだから、カンタロウがわからないのは当然だ。
「カンタロウ、これは……」
スズが辛そうにカンタロウに事情を説明しようとすると、兵士が三人の前に立った。
「教えてやるよ。小僧」
歪んだ表情から、悪意がにじみでている。
「まて! 貴様!」
スズは兵士の口を止めようとしたが、遅かった。
「その女は領主様の前で両目をくり抜いたのさ――自分の子供が化け物ではないことを証明するためにな」
「えっ……」
カンタロウは絶句した。
ヒナゲシは単独、カンタロウの無実を訴えるために領主に直訴していたのだ。最初は相手にせず、嘲り失笑していた領主だったが、ヒナゲシが両目を手でくり抜いたことで状況は一変した。
ヒナゲシはくり抜いた両目を手にのせ、怪物かどうか調べてくれと訴えた。この目がエコーズであれば真っ赤なはず。自分の血族であるカンタロウが、怪物でない証拠だと。
ヒナゲシに批判的だった民衆も、さすがに子を思う母の姿に心を打たれたのか。それとも恐れたのか。口をふさぎ、目を見張った。
領主は場が悪くなったことを感じ、カンタロウの解放を許した。
そして元使用人であったスズに連れられ、ヒナゲシはここまでやってきたのだ。
「哀れだな。元は剣帝国の貴族だったんだろ? それが運命の悪戯か、主君である剣帝王を暗殺者に殺され、王を守りきれなかった罪で、親父は死刑。今は借金まみれの生活してるって聞くじゃないのよ。名門貴族もここまで没落すると涙もでねぇな」
「くっ」カンタロウは唇をかんだ。
すべて事実。
何も言えない。
「小僧。ちょっとは考えろよ。赤眼化を使って、この国の人間殴っちゃ駄目でしょ?」
「俺が、化け物じゃないことは知っていたのか……」
「当然、殴られた仕返しされたんだよ」
ヘラヘラ笑う兵士に、カンタロウは怒りで腕を振り上げた。
「悪いのはそっちだ! 俺や母さんは何もしてないのに、どうしてあんな仕打ちされなきゃならない! 家を山奥にまで追いやり、飯もめぐんでくれず、穀物一袋に金貨一枚だと! そんなふざけた話があるか!」
それが病院に入れられた理由。
そのことで、商人と揉めていると、兵士がやってきた。カンタロウの訴えは却下され、商人の言い分が認められたのだ。カンタロウの怒りは爆発し、兵士を殴り倒してしまった。
「あるんだよ小僧。そんなふざけた話が。お前達親子は人扱いされてねぇ。人間の中でも最下層の身分なんだよ」
兵士の手が、カンタロウの頭を押さえつける。
ギリギリと強い力が、カンタロウの首をねじ曲げていく。
「俺達がお前達から搾取して何が悪い?」
強者の倫理。
弱い者からは何をしてもよいというこの世界の常識。
変え難し、現実。
突如、カンタロウの右頬に神文字が浮かび上がった。右目が赤く染まっていく。それが『赤眼化』と呼ばれる現象だった。
この血よりも赤い目のおかげで、カンタロウはエコーズという化け物扱いされたのだ。
「うっ、うう……」
怒りが赤眼化を発動させた。鬼のような形相で、カンタロウは兵士を睨む。
「ははっ! 馬鹿のくせに怒ったか? 殴ってみろよ。今度は血を抜くだけじゃすまねぇぞ!」
「この!」
兵士の手を振り払うと、カンタロウは殴りかかる。
「やめなさい!」
スズがカンタロウを止める前に、ヒナゲシが大きく怒鳴った。その華奢な体つきからは信じられないほど、力強く芯のある声だった。
カンタロウは拳を空中で止める。
ヒナゲシはすかさず、カンタロウの体を抱きしめた。
「母さん」
「我慢なさい。あなたは間違っていない。だけどここは耐えるの」
ヒナゲシは耳元で耐えることを、カンタロウに囁いた。
「ごめんなさい。兵隊さん」
ヒナゲシは弱々しく笑うと、兵士にむかって頭を下げる。
「申し訳ありません」
「母さん! どうして頭なんて……」
「カンタロウさん、お願い。もう母さんから離れないで。母さんを――困らせないで」
「母さん……くっ……」
ヒナゲシが強くカンタロウを抱き寄せる。絶対に離さないと誓うように。
赤く染まった右目が、黒に戻っていく。
突然の出来事に、兵士はポカンと口を開けていた。その肩に別の兵士の手が乗せられ、ようやく我に返った。
「おい。もういいだろ。お前が貴族嫌いなのはわかる。コイツ等はもう貴族にはなれない。ほっとけ」
「……けっ!」
唾を地面に吐くと、兵士はその場から去っていった。
「行け」
顎でカンタロウ達に去るようにうながす。
ヒナゲシは兵士にむかって、素直に微笑んだ。
「ありがとうございます。兵隊さん」
兵士はその笑顔に、指で頬をかいた。
「ヒナゲシ様、手を」
スズがヒナゲシの手を持ち、その場から立たせた。ポニーテールの黒髪が、風に揺らぐ。
「ありがとう。スズ」
ヒナゲシは何とか見えない目で、立ち上げることができた。
「おい。小僧」
立ち去ろうとした三人に、後ろから兵士が声をかけた。
「二度と馬鹿なことはするなよ。これからはよく考えて行動しろ。でなければ、大切なものを失うぞ」
兵士は後ろむきのまま手を振ると、離れていった。
カンタロウ、ヒナゲシ、スズは病院から離れ、森の中へ入っていった。森は夕暮れのためか、薄暗く気味が悪い。フクロウの丸く黒い目が、三人を枝から見下ろした。冷たい風が道を這っていく。
病院は町からかなり離れていた。森の奥深くにあるのだ。たまに病人を見物にくる、見学者は朝か昼にしか来ないので、道には誰一人、人はいない。精神病院は動物園と同じ、町の収益であり、娯楽施設なのだ。
スズに肩を貸してもらっている、ヒナゲシが道の小石につまずいた。
「ヒナゲシ様、危ないです」
「目が見えないって不便ね。あらら。こういうときに目があるって、幸せなことだったんだなって思うわ。ねっ、スズ?」
「そうですね」
両目を無くしたというのに、ヒナゲシはあえて明るくふるまった。そんなヒナゲシに、スズは物悲しくなる。
「スズ姉。俺が背負うよ」
カンタロウが地面に座ると、背中をつきだす。
「あらあら。いいわよ」
「いいから。背負いたいんだ。いいだろ? スズ姉」
スズは、カンタロウが六歳の頃からの付き合いだ。まだ年齢は二十歳。ヒナゲシよりも六歳年下。
剣の腕はカンタロウより上。キリッとした眉に、目つきが鋭い。常につぐんでいる口が、少しだけ緩んだ。
「わかりました。落とさないようにしてください」
スズがヒナゲシをうまく誘導し、カンタロウの背中に乗せた。
「平気? カンタロウさん?」
ヒナゲシは意外に軽かった。
――軽い……な。
カンタロウの顔が曇る。何も食べていないことが、わかるからだ。ただでさえ小食なため、普段の体重より五キロは落ちているように思えた。
「私を背負えるなんて、大きくなったのね。カンタロウさん」
「うん」
「子供の成長って早いのね。スズもそう思うでしょ?」
スズは手を目元に当てていた。全力で涙を耐えているのだ。突然すべてを失い、その上ヒナゲシの目まで奪う神様を、スズは呪った。
「はい……はい、ヒナゲシ様」
体では耐えられていても、声がかすんでいた。
「あっ、お腹すいちゃった。カンタロウさん。今日は何が食べたい?」
「俺が作るよ」
「あら? カンタロウさんって何か作れた?」
「スズ姉よりはうまいと思う」
カンタロウは前をむいたまま、元気よく答えた。
「なっ、何を言ってるんですか。私の方がカンタロウよりうまいです!」
スズが慌てて言い返した。
剣の腕は達人クラスでも、料理は壊滅的。カンタロウには最低でも負けまいと、必死で修行しているのだ。
「そうなの?」
「うん。そうかも。でも今日は俺が二人分作るよ」
「そう。じゃ、頼んじゃおっかな」
ヒナゲシは微笑むと、カンタロウに顔を寄せた。男らしい体つきになっていく息子を、地肌で感じられる。成長していく姿を、もう直で見れなくなったのが、心残りだった。
「ありがとう。カンタロウさん」
「母さん」
「なぁに?」
「俺、母さんのこと一生守るよ。ずっと母さんと一緒にいる。母さんを幸せにしてみせる。父さんの分までがんばるよ」
カンタロウは心に誓っていた。母の目はもう戻らない。自分を助けたばっかりに。その償いを一生をかけてしようと。
「そう……。なかなか言うようになったじゃない。でもあなたは何もしなくていいの。あなたが生きているだけで――母さんは幸せだから」
ヒナゲシはカンタロウの心の負担にならないように、できるかぎり優しく言い聞かせた。その言葉はカンタロウの心に届き、自然と目から涙があふれでる。頬に伝わった涙は、土の地面に点々と跡を残していく。
「うん。俺も母さんがいるだけで幸せだ」
「じゃ、私達、今幸せね」
「うん。そうだ。そうだな。母さん」
「うふふ」
スズはたまらず、二人の後ろで涙を流していた。
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