ただ悲しくて

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「君は覚えているかな」    そう呟いた男の前には、墓石がある。  墓石の前には花が活けてあり、その花は薔薇だ。 「僕は鮮明に覚えているよ」  墓石に掘られているのは、女と思われる名前であり、  苗字は男と同じである。 「君と初めて出逢った日も、共に過ごした空間も………  君と歩んだ全ては……昨日の事のように思い出せる」  薔薇を見つめながら、男は独り、思い出に浸り続けた。 「なのに……どうしても君の笑顔だけが思い出せないんだ」  自分の両手を見ながら、尚も男の独り事は続く。 「可笑しいだろう?   馬鹿な僕はもっと晴れやかな気持ちになれると思ってたんだ」  ワイシャツの袖には、ベッタリと血が付いていた。  良く見れば、服のあちこちに血が飛び散っているのがわかる。 「現実……は、僕が一番好きだった君の笑顔を失った」  男の頬に涙が伝う。  ズボンのポケットから小瓶を取り出し、中身の錠剤を手にあけ、  飲み込んだ。 「自分のしたことに疑問はないし、僕の手でやると決めた。  その判断が間違ってたとは思わない」  男の目はだんだんと虚ろになっていく。  そして自身を嘲るように言う。 「もう君に会う事は二度と出来なくなった……思い出の中でさえ。  考えれば、当たり前の事なのにさ」  立つことが出来なくなった男の姿勢は徐々に傾く。 「でも僕は、君のいない世界で生きたいとは思わなかったら……後悔はしてい  ない…………ただ……悲しいんだ」  そこまで言うと、  薔薇の匂いに包まれながら、男はゆっくりと倒れた。
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