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始まりの朝
「いってきます」
「忘れ物ない?頑張ってきなさいよ」
お母さんから弁当を受け取った僕は、家を出て最寄り駅へと向かう。晴れた空に油断すると冷たい風に裏切られる四月初旬の朝、一週間ぶりの登校に胸を踊らせていた。
「悟くん、おはよう。今日から学校かい?」
声をかけてきたのは、近所に住む信行叔父さん。お母さんの弟にあたる人だ。六十という年のわりには若々しい見た目の叔父さんは、五年前まで鉄工場で働いていた。二十代から始めたその仕事を一度も遅刻も欠勤もしなかったことをいつも自慢している。そんな叔父さんが仕事を辞めたのは、足腰の自由が利かなくなった奥さんの看護のためだった。
「おはようございます。今日から高三になります」
僕は軽く頭を下げて挨拶を返す。
彼の奥さんは老衰により、二年前に亡くなった。厳つい体型からは想像もつかないほど号泣する姿を、葬儀場で見たのを覚えている。
「そうか。頑張れよ。君には未来があるんだから」
そういって叔父さんはウォーキングを再開した。
"君には未来がある"その言葉には数年前よりも重い響きがある。受験を控えた僕には未来がある。この地球とともに終わりを迎えずに、月へ行く権利を得る可能性があるのだ。
でも約四十年間無遅刻無欠勤で働いて妻を養い、その妻の介護のために仕事を辞めた、真面目で愛情のある叔父さんにはないのだ。名目上、それは年齢と体力の問題とされている。しかし実際には違う。叔父さんには認められた才能も、確立された地位もないからだ。
月への移住権を手にいれるためには、才能を認めてもらわなければならない。こんな世界、不平等だ。
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