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「契約出来ないのが、この関係の中にある唯一の救いでしょう?」  1+1は2。そんな当たり前なことを言うような顔つきで告げられた言葉は、涼太を一瞬で深海に沈めた。とぷん、と重たい水にとらわれたように体が重く、口を開けても酸素が吸い込めない。そんな涼太に、恋人は六畳一間の2人の城で、満月をスポットライトにした笑った。ほつれた畳に差し込む月光は、宝石のように輝いている。その光は、自分が差し出した指輪が恥ずかしくなるほどで。  焦りと恐怖と悔しさと悲しさと、とにかくこの世にある全てのネガティブな感情に取り憑かれて黙り込むと、むこうは幼児(おさなご)を慈しむように笑った。この顔は嫌いだった。まるでこちらが物分かりの悪い駄々っ子になった気がするからだ。 「馬鹿だねえ」   近づいてきて、慰めるように優しく、背中をさすってくる。それが余計に辛さを倍増させた。  納得できない。食い下がれない。震える声で、それでも虚勢を張って強い口調を心がけた。 「馬鹿だよ、俺は。でもお前も馬鹿だ。好き同士なのに、どうして諦めなきゃいけないんだ」  言葉に変換できない思いは、抱きしめる腕に込める。まるで懇願するようだったかもしれない。    たっぷり15秒。その後に、ゆっくりこちらの胸を押して、抱きしめるのを止めろと暗に伝えてくる。それに従って腕から力を抜く。次の瞬間、首筋に唇を押しつけられた。 「ずっと好きだよ」  彼女(・・)はにっこり微笑んだ。右目から透明な雫がこぼれ落ち、月の光をきらりと反射した。  ああ、違う。あの日、()はこんな綺麗な笑い方をしなかった。眉はハの字で、両目は赤いのに乾いていて、唇は酷く歪んでいた。目の前の彼女のように柔らかい口調ではなく、まるで自らの手首に刃物を滑らすように「好き」だと吐いた。  頭の中にあの日の言葉が蘇る。 『だからさ、別れようよ』 「嫌だ」  中村涼太はついそう言葉にしてしまった。5年前には言えなかった、本音を。  途端、目の前の彼女の瞳に鈍い光がさす。甘ったるい空気が霧散して、ビジネスの場にふさわしい張り詰めた空間に切り替わった。二人きりの場所、のはずなのに、あらゆる方向から視線が投げられている。背中に生まれた冷や汗が静かに滑り落ちた。 「カット!」  立て直さなければ。そんな役者としてのプライドも、監督が叫んだのをきっかけに崩れ落ちた。一気にざわざわとした喧騒が沸き起こる。カメラやらマイクやら大きな機材を抱えたスタッフたちが、涼太の隣を速足で通り過ぎながら「次はいけますよ」等、こざっぱりした慰めを落としていく。優しさがありがたく、同時に申し訳ない。そんな行き場のない気持ちを捨てるため、涼太はハードスプレーで固められた髪を崩さないように注意しながら頭を掻きむしった。 「珍しいね。涼太君がセリフ間違えるのは」  先ほどまで涙を流していた女優、矢島鈴緒(やしますずお)は、メイクを崩さないように気を配りながら目元を指でさすり、けろりとした顔でそう言った。同じ29歳同士とはいえ、物心つく前からこの業界にいる彼女は涼太にとって大先輩だ。足を引っ張ってしまったことが非常に申し訳ないし、恥ずかしい。 「す、すみません」 「次のセリフは『俺は何があってもお前を愛し続けると誓う。だから俺を信じてくれ』だよ〜」 「そうでした。本当にごめんなさい」  腰から折って謝罪すると、気さくな先輩は気にするなと言って、口元を軽く右手で隠しながら花のように笑う。胸元まである絹のような黒髪がさらりと揺れた。シャンプーなのか香水なのか、甘い柑橘類の匂いが柔らかく舞う。 「でも、涼太君、なんか最近乗らないね。調子悪い?」 「いえ。元気です。昨日も朝昼晩しっかり3食食べて睡眠も八時間とったんで」 「模範的な生活じゃない。なら、スランプの原因は精神面かな?」  ええそうですね、と答えられる悩みならどれだけ楽だったか。そもそも長年付き合いのある友人たちすら知らない話なのだから、彼女に話せないのはなおさらだ。 「何かあるなら相談乗るからね」 「あはは、大丈夫ですよ」     舌を噛み切ってしまいたいと思う程度には、大丈夫だ。そんな破綻した言い訳を、ここ最近何度心の中で繰り返しただろうか。  セリフを脳に刻み込むため台本をめくる。今やっているのは、「月光に酔う」という映画のワンシーン。満月の夜に臆病で強がりな二人が初めて思いを伝えあう大事な場面だ。涼太が演じるのは、宮野拓海(みやのたくみ)という主人公。ぶっきらぼうで自分勝手な節があるが、それは自分を守る殻であり、本当は傷つくのを怖がる子供のような人。売れない俳優をやっている。そして鈴緒が務めるのはそんな宮野の想い人である、春崎夕(はるさきゆう)という、女流作家。ひょうひょうとした情のない人間のように見えて、その実、繊細で春の日差しのように温かい。    台本を読むたび、全身の血が砂利のように重く沈む。なんて趣味が悪い話なんだ、と。 「涼太君はこの映画の原作読んだ?」 「読みましたよ」 「私実はあんまり読書とか得意なほうじゃないんだけどさ、『月光に酔う』は一気読みしちゃったよ。拓海と夕の不器用な恋路が切なくて」  楽しそうに瞳をきゅっと細めて、小さく握った両手をバタバタと振った。鈴緒は童顔なので、そんな少女のような仕草が嫌味なく似合う。 「素敵な話、ですもんね」  さらりとついた嘘はバレなかった。 「うん。私この作家さんのファンになっちゃった」 「ああ。松田智也(まつだともや)さんの」 「松田さんってね、作家としてもすごい人なんだけど、顔も滅茶苦茶かっこいいのよ。著者近影が雑誌の表紙みたいに絵になってるの。涼太君はさ、頼りがいのある青年って感じのかっこよさだけど、松田さんは線の細くて守ってあげたくなるタイプ」  鈴緒の言葉一つ一つがヘドロになって、心臓にまとわりついていくような気がした。松田智也のことは、言われなくたって十分知っている。知り尽くしている。    だって、彼は。    そこまで頭に浮かべて、慌てて首をふってその思い出をかき消した。今思考に飲まれるのはいけない。素知らぬふりして愛想のよい表情を作れば、鈴緒は気にせず会話の続きを話した。 「だからさ、今日私すごく興奮してるの」 「はい?」  文脈が読めず、涼太は首をかしげる。それを見た鈴緒も首を傾げた。 「え、聞いてないの?今日、原作者の松田さん、現場見学に来てくれるんだよ」 「……今初めて知りました」  5年前のあの日から海に沈んだままの感情がブクリと小さく泡を吐き出した。
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