記憶

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「なあ、おほ覚えてるか?」  5月も終わりに近づいてきた頃、街を歩いていると突然声をかけられた。見知らぬ男だった。 「誰ですか?」 「そうか」と言って男は去っていった。  人違いと思い、その時は気にしていなかった。  次の日、時間帯は朝8時50分、また声をかけられる。昨日と同じ男だった。そして内容も全く同じ「なあ、覚えてるか?」だった。  僕は訝しげにしながらも「すみません、覚えてません」と応えた。  男は「そうか」と残しどこかへ行った。さしてしょんぼりするのでもなく、怒るのでもない。不思議なこともあるものだなと思い無視した。  さらに次の日、今度は仕事帰りの自宅前にその男はいた。さすがに三日連続は見過ごせない。ストーカーとは考えられない。心当たりもなかった。過去に出会った人間とも思えない。一度どこかで忘れたということもないだろう。人助けした記憶もない。やはり考えられるのは向こうの勘違いということだ。ここではっきり言っておかなければ何日もこの男に付き纏われる。しかし、今さらながら思うのだが「覚えてるか?」という質問自体おかしいことに気がついた。そういう場合、確かじゃないけどもしかしたら知り合いかもしれないという人に対しては「○○ですが、××ですか?」と聞くのが普通ではないか。「覚えてるか?」とはまるで、僕が何かを忘れているような物言いだった。それに大抵そういうのは一回で諦めるものではないのか。二回目なら思い出すかもしれないと考えているのかもしれないなら、二回目の時点でさらに言及すべきだと思う。しかし男は「覚えてるか」としか聞かない。  男は僕の家の前でなにをするのでもなく佇んでいる。そこが僕の家の前ということを知っているのか、たまたまそこにいるだけなのか、もし前者なら警察沙汰になってもおかしくはない話になってきた。今日警告しよう。これ以上しつこいなら警察にも関与してもらうことを伝えよう。  ふと家の前を見るといつの間にか男はいなくなっていた。  どこいった、と思った次の瞬間、後頭部に大きな衝撃を受け、勢いのまま倒れ込む。後頭部がじんじんと痛み、それがじわじわと広がっていく。誰かに頭を殴られたようだった。  薄れゆく意識の中で、近くに誰かの気配を感じる。 「なあ、覚えてるか?」と男は言った。  そして次に「これで思い出すといいんだけどな」とも続けた。  誰なんだよ……  なんのためにこんなことするんだ……  そして僕は気を失った。  誰かが怒っている。女だ。男もいる。  女が一方的に怒り、男はめんどくさそうに返事をしている。  昔さ、と男は怠げに話した。 「昔、俺のばあちゃんがやってたんだよ。テレビかなんかが調子悪いときにな、それをぶっ叩くんだよ。俺も思ったぜ? 逆に壊れんじゃねえかなって。でもさ、これが意外に直っちまうんだよな」  すげえだろ、と男は笑った。なにも考えてないような下品な笑い方だった。 「あなたって、人と物の違いもわからないのね」 「いっしょだろ。人も物も使い方次第だ。使えねえ物は壊せばいいし、使えない奴は殺せばいい」 「最悪よ。あなたしか生き残らなかったのが運の尽きね」 「ひひ、俺は裏方しかしてこなかったからなあ。俺はあんたとは相性いいと思ってるぜ」  この男になに言っても無駄だと思ったのか、女は無視してどこかへ行ってしまうようだった。この男とふたりきりは嫌だと思いながらも声がうまく出ない。身体が思うように動かせないし、頭も痛い。横になっているのか、座っているのかもわからなかった。  ただ、生きていた。正直死んだかと思った。  男が近づいてくるのが足音でわかった。 「おい、起きてんだろ」  肩を揺さぶられる。僕は朦朧としながらも目を開けた。  まず目に入ったのは黒いベルトで固定されている自分の手足だった。次第に脳も覚醒に向かっていく。椅子に縛られているということはわかった。コンクリートの壁に囲まれており、工事現場で使われていそうな白光のライトが天井からぶら下がっていて、薄らと部屋を照らしている。 「おぉ、覚えてるか?」 「頭を誰かに、殴られたのは覚えてるよ」 「ひひ、上々じゃねえか。他には?」 「さっきからなんなんだ? なにを覚えてると聞いてるんだ。僕はなにも知らない」 「そんなことないはずなんだけどなあ。またぶっ叩くか?」  きひひと引き攣ったように笑っている。  体を動かそうにもびくともしない。 「僕はなにも知らないんだ、本当に。誰かと間違ってる」 「いいや、お前だよ。間違いじゃない。そう思う気持ちはわかるよ」  男は親身な表情で頷いている。お前にわかってたまるか、と思った。 「これを取ってくれ」 「はいわかりましたって取ると思うか? お前、自分がなにをしたのか覚えてないのか?」 「だからさっきから言ってるじゃないか。僕はなにも知らないしなにも覚えてないよ」  いったいなんだというのだ。心当たりなんてひとつもない。 「なら思い出せ。忘れることが出来たなら思い出せるだろ」 「どういう理屈なんだ」  バットで頭を殴ってきたことを考えるとこの男は本気でそう思っていそうだった。 「どう言われても、僕は君らの期待に応えられない。もう好きにしてくれ。拷問でもなんでもするといい。気の済むまでやってくれよ」  もう半分自棄になりつつ僕は言った。 「僕はなにも覚えてない」 「まあいい。俺さ、毎週プールに泳ぎに行っているんだよ。でもさ、息継ぎ出来ないわけ。何年も通ってるのにだぜ?だからさ、俺にはそんなものいらねーよって感じでやってたら、1500メートルくらい息継ぎなしで泳げるようになるようになった。練習としては、息が限界になるまで絶対顔上げない。めちゃくちゃ苦しいのよ。でもその苦しさで、嫌なこと忘れられるからさ、その練習って結構良いんじゃないかな?あ、お前忘れっぽいんだったな。いいよな、そういう性格。羨ましいよ。ゴールデンウィークに自分がやったことは覚えてるの?」 「覚えてない」 「ふうん。じゃあ昨日は?」 「覚えてない」 「お前、年齢は?」 「覚えてない」 「爪剥がされたい?それともナイフでどっか切られたい?」 「好きにしろ」 「あっそ。髪の毛むしるよ?」 「てっぺん?」 「てっぺんだ」 「……好きにしろ」 「そうか、じゃあ最新の拷問を紹介しよう。記憶を消すというものだ。本当に全てを忘れることができる。心の底から覚えてないと言えるようになる」 「僕の記憶を引き出すための拷問ではないのか?」 「別にそういうわけではない。話す気になったか?」 「わかったよ。なんでも聞けよ」 「ゴールデンウィークは何をした?」  こいつは僕のクラスメートか? 「いろいろ」 「まず1日目だ」  さては僕のファンだな? 「ドライブだったかな」 「運転が好きなのか?」 「いいや、車が好きなんだ」 「同じじゃないのか?」 「運転は嫌いだが、車が好きだから仕方なく運転しているんだ」 「どこに行ったんだ?」 「目的があってどこかに行った訳ではない。走っている車を見るのが好きなんだ」 「そんなに車が好きか?」 「ああ。10台以上持っているよ。車以外は興味がないね。車で暮らしているくらいさ」 「お前、家あったよな?」 「車を置いておくためさ」 「そうか。俺はさ、車でとにかくスピードを出すのが好きでね、夜中に曲がりくねった山道を猛スピードで上がって、そして下るというのが趣味なんだよ。時々人がいてさ、驚く顔もたまんないよ。ひひ、崖を降りたりもするよ。スリルがあって良いんだよな。お前運転嫌いなら俺が運転してやるよ。車好きじゃないけど運転好きな俺と、運転嫌いだけど乗りたいお前、相性良いよな?」  「車が嫌いな人の運転には乗りたくないな、残念だけど」 「あっそ。俺のゴールデンウィーク1日目は仕事だったんだよ。意外と真面目だろ?」  あんたのことなんてどうでもいいけどな。 「そうだね」 「2日目は何をした?」 「森に行ったよ」 「森なんて行っても何もないだろう?」 「森の中の車は美しいからね。森の中にある愛車を見ながらキャンプをするのは最高だよ」 「そうか。俺も森に行きたくなってきたな。今からドライブでも行くか」 「言っただろ?君とは行かないと」 「でも今お前が最高だよとすすめたじゃねーか」 「別にすすめたわけではない。自分の趣味を言っただけだ」 「俺は何をしてたかを聞いただけなんだよ。お前の気持ちなんか聞いてなかったのに言い出したんだからすすめたようなもんだろ。早く行くぞ」  そう言って僕の足のベルトの鍵を外して歩き出した。 「おい、手首のも外してくれよ」これにも鍵がかかっている。 「ああ、その鍵は俺じゃねえな」  建物を出たところにボロボロのチンクエチェントがあった。  男は助手席のドアを開け、乗れと言うので乗り込み、彼は運転席につく。  男の運転は非常に上手かった。発車や停車をするときはほとんど抵抗を感じず、左折や右折はなめらかだった。道は田舎になり、緑が増え、道が狭くなり、険しい森になっていった。この車でなければ通れなかったかもしれない。  すると突然森の中に、コンクリートの真っ直ぐに伸びた永遠に続くような道が現れた。両サイドは木が密集している。  車はその道に乗り、どんどんスピードを上げていく。スピードメーターはこれ以上いかないくらい振り切った。隣の木は色しか確認できない。前も終わりが見えなく、景色が変わらない。 「スピード出しすぎじゃない?」 「大丈夫さ。周りを見てみな。止まっているように見えるだろう?スピードが出ているように見えない」そう言いながら、顔をこちらに向けた。  僕が危ない!と言うと男は前に視線をもどす。 「俺のゴールデンウィークは2日目も仕事だったんだよ」 「それはえらいね」 「ずっと仕事だったんだ。休みなんてない。ちなみにお前の仕事は何なんだ?」 「車関係の仕事の経営だ」 「知ってるよ」  前には果てしなく続く細い道があるだけ。両脇の大量の木が前から後ろへ流れる。スピードは落ちず景色は変わらない。 「どうして?」 「お前の企業で働いてたんだよ。覚えてるかとも思ったんだけどな。まあ会ったことはないけど」 「うちの社員?社長になんてことしてるんだ君は」 「ゴールデンウィークだろうが正月だろうがあんたの会社は休みがないんだよ。おまけに徹夜作業なんてよくあるし残業代は無しだ。その後、心身ともに壊して入院してクビになったよ」 「どんな仕返しをするつもりだ?」 「近いうちにわかるさ」  突然、地面と両脇の木々は無くなった。  目を開けると病院のベッドに寝ていた。  知らない男が近くに寄ってきて、「なあ、覚えてるか?」と言った。僕はなにも覚えていなかった。
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