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「……ここ、かな?」
半分廃墟と化した雑居ビルの四階。まだ寒さの厳しい、二月の初め。
田邊咲はその部屋を前にして、独りごちた。
何の変哲もない鉄製の灰色のドアの横にはインターホンがあるだけで、目的の場所であることを示すような看板や表札らしきものは見当たらない。
咲はためらいつつも、インターホンのボタンを押した。中で呼び鈴の鳴る音がかすかに漏れ聞こえてくる。
ややあって「はい」と柔らかな男の声が応じた。
──男の人?
咲は戸惑いながらも、「ホームページからフラワーアレンジメントの体験教室を予約した、田邊です」と名乗った。
「ああ、田邊さんね」
声の主は了承したとばかりに、インターホンを切った。ほどなくしてドアが開き、男が顔を覗かせる。
目鼻立ちのはっきりした端正な顔立ちの男だった。背中まで伸びた艶のある黒い髪を、緩い三つ編みにしてゴムで結び、その先を左肩から胸へと垂らしている。
白いシャツの上からはグレーのカーディガンを羽織っていて、細身の黒いチノパンが、そのスタイルの良さを際立たせていた。
身長は一七五センチくらいだろうか。年齢は自分より年上っぽいから、三〇歳前後といったところだろう。
思わず見惚れて黙りこくってしまった咲に、男は「いらっしゃい」と人懐っこい笑みを向けた。
「本日はお世話になります」
我に返った咲は、ペコリと頭を下げた。
「そんな硬っ苦しい挨拶はいいから」
男は顔の前で手を振り、苦笑した。声の感じからすると、インターホンで応答したのはこの人なのだろう。
──華村先生とはどういうご関係かな?
つい余計な興味をそそられる。
男は、どうぞ、とドアをさらに大きく開き、咲を招いた。
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