69人が本棚に入れています
本棚に追加
「……お邪魔します」
軽く会釈をし、玄関をくぐる。
「うち、土足で大丈夫だから」と男は静かにドアを閉めた。そのまま、咲の横をすり抜け、細い廊下を先に立って歩く。咲もそのあとに従った。
廊下の突き当たりに、上部がステンドグラス窓のアンティークな木製の扉が見えた。このビルの雰囲気とは明らかに違い、別世界へ続く扉のように思えた。
男はその手前で立ち止まり、そういえば、と振り返った。
「田邊さんの下の名前って、『咲』だよね?」
小首を傾げて尋ねる。見た目に似合わない可愛いらしい仕草に、咲は思わず顔を綻ばせる。
「はい、そうです」
「咲、かぁ」と男は感心したようにうなずいた。
「いい名前だね。お花を習うにはぴったりだ」
男はニッコリと笑う。その笑顔のまま、「じゃあ、咲ちゃんって呼んでいいかな?」と尋ねた。
「え?」
突然の提案に、咲は目をパチクリとさせた。
初対面の人間をいきなり下の名前で呼ぶなんて、ずいぶんと馴れ馴れしい、とさっきまでの好印象が一気に吹き飛んだ。
大体、ここは本当に目的の場所なのかしら、と思考はあらぬ方向にまで及ぶ。
そもそも、フラワーアレンジメント教室を営むには、あまりにも不似合いな場所ではないか。もしかしたら、フラワーアレンジメント教室の名を騙った、連れ込み宿なのではないのかと、身の危険を感じてしまう。
警戒心をあらわに男を見ていると、男はなにかに気づいたように「あっ」と小さく声を上げた。
それから、そうかそうか、と納得したようにうなずく。
「僕、自己紹介まだだったよね」
男はそう言って頭を掻いた。
「申し遅れました。──僕、この教室を主宰している華村花音です」
男性は右手を胸に当て、まるで英国紳士のようなお辞儀をする。
「えっ?」
咲はますます目を見開き、目の前の男を凝視した。
最初のコメントを投稿しよう!