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「そうして都が奈良へ移った訳だけれど、面白い話があるんだ。当時鹿は神聖とされていたんだよ。家の前で鹿が死んでいたらその家の人は重罪になったんだって。昔の人はびっくりしたろうね、朝起きて玄関を開けると鹿が死んでいたりしたら冗談じゃないって僕なら思う。そういう時にみんなはあることをしたんだって。君たちなら、どうする?」
「先生」
「うん?」
「また脱線?」
おさげ髪の岩下が悪戯そうに笑った。
僕も仕方なく笑うけど、僕の脱線癖は有名だからこの頃じゃあまともに聞く生徒は数人だ。
明るい日差しが差す教室にカップヌードルの匂いと麺を啜る音がした。
半分の生徒は寝ていて、教師である僕を無視して腹をすかした不良たちが授業中にカップ麺を食べている。
誰も止めようとしないのは、柳沢の授業は受けなくても単位が取れると知っているからだった。
僕がテストの前に渡すプリントさえやっていれば大抵の生徒は好成績だ。
やる気がないわけじゃない、歴史や社会が好きだったから教師になった僕はついついいらない事を話してしまうのだ。
岩下のような歴史が好きな子はいいだろうけど、他の連中は僕の話を聞いた瞬間目がとろん、としてくる。
それならそうでいい、と割り切った教師生活ももう7年になる。
僕が口を開こうとしたとき、チャイムが鳴った。寝ていた生徒が突然生き返り、「起立」「礼」をやった。僕ものろのろと立ち上がって背中を丸めた。
鳥の巣頭は生まれつき、黒縁眼鏡をかけるようになったのは高校生からだ。
小豆色のネクタイに白いカッター、黄色と緑とクリーム色の毛糸のチョッキは彼からのプレゼント、赤いジャージは放課後の顧問をしているバレー部の練習にすぐ行ける様に。
全体的に平凡でダサいが、僕は自分に満足している。どうせ今年で三十路、今更格好つけることもない。
「先生」
教室から出ようとすると、岩下が僕のチョッキをつついた。振り返ると、岩下がへへ、と笑った。
「鹿が死んでいたら昔の人はどうしたの?」
「んー、それは次の授業で言うよ。お前だけに教えるのは不公平だろう?」
「別にいいじゃん。だあれも聞いてないんだから」
「ひどいなあ、ずばっと言わなくたって」
「でもあたしは聞いているから」
社会科準備室まで彼女はずかずかと侵入してくる。
ここまで入ってくる生徒は彼女だけだ。きっと、いや多分、彼女は僕のことが好きだ。
でも僕はそれに気がつかない振りをする。そうしてあげることが優しさだし、僕にはきちんとした恋人がいるのだもの。
「それより修学旅行委員長、修学旅行の代金ちゃんと回収しろって菊斑先生言ってたぞ。今週が期限なんだから」
「解ってる、それにしてもうちのガッコはどうして振込みにしないのかなあ」
「お金の大切さを知るのも修学旅行のうちだ。うちの学校は生徒の自主行動が第一の」
「あーハゲブッチねー。うんうん解ってるって。あいつが修学旅行委員会の担当じゃなくて先生が担当ならもっと頑張れるのに。全部で300万かあ、それだけあったら何が買えるかな?」
「こらっ」
えへへ、と岩下が舌を出して、僕も笑う。
岩下、君ならどうする。
もしもお前の家の前に鹿が死んでいたら。
そう言うと、食べる。と岩下が言った。お前は偉い、と僕は思った。大人はそんなに偉くはない。
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