楽しかったあの頃

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楽しかったあの頃

 キラキラと照明を反射する巨大なイチゴの偽物(ダミー)と、緑色の鈴。そんな無駄なモノをぶら下げたお蔭で重い「それ」を鏡台の上の皿から掴んで、運んで、隠すのは、酷く骨が折れた。彼女が風呂に入っている間にやった犯行だが、これで彼女を引き止めることが出来ると思ったんだ。 「そうなのぉ……みつからなくてぇ」  甘ったるい声の会話は、まだ続いている。 「えぇー、ひどぉい。あたし、そんなウッカリさんじゃないもん」  彼女の手がソファーに伸びる。ピンクのハート型クッションを掴むと膝の上に抱えた。 「……アブねぇ」  肝を冷やした。それにしても、彼女があの体勢に入ったら、長話のサインだ。こりゃ、しばらくは動かねぇな。  もっと近くに寄りたい。指先や耳朶を甘噛みしたり、桜色の唇に触れたいのに。  同棲を始めて、2年。この家で、暑い日、寒い日を繰り返し、俺の人生に彼女の存在は欠かせないものとなっている。  出会いは、突然だった。  その頃の俺は、半ば強制的にシェアハウスで暮らしていた。間取り上、プライベートな空間のない、殺風景なワンルームに5、6人が押し込められていた。突然やって来ては去って行く、出入りの激しい家で、半年も暮らせば、長い方だった。  食事は、決まった時間に用意された。空腹ではなかったが、同居人達との争奪戦は避けられなかったし、食い物を巡る喧嘩も絶えなかった。特に、俺がまだガキの頃には、身体のデカい赤ら顔の兄ちゃんが2人いて、幅をきかせていた。俺は、他の年若い仲間達と身を寄せ合って、ビクビクして過ごしたものだ。  初めて現れた時、梨乃は、これまでの訪問者同様、家の中をじっくりと見回して、俺達をひとりひとり見定めるように観察していた。不躾なヤツだと思った。 「ねぇ……あたしんちに来る?」  2回目の訪問の時、彼女が言った。甘い花の香りを漂わせて近付いてくると、彼女は俺を真っ直ぐに見ていた。上目遣いに覗き込むと、黒い瞳が微笑んだ。その瞬間――俺は恋に落ちていた。 「大好きだよ。ずーっと一緒にいようね」  同棲を始めたその日から、彼女は俺を溺愛した。最初は警戒したものの、細く柔らかな指で首筋を撫られると、ゾクリと感じた。心地良さのお返しに、俺が頰ずりしてやると、小さく息を溢した。気を良くした俺は、耳にかかる毛先をクルクルと弄ってやった。 「ふふ。擽ったいよぉ」  甘い声に温かな安心感を覚えた。この先もずっと、彼女の1番は俺で、彼女の肌も視線も心さえ――俺だけのものだと信じた。信じていたのに。
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