形容詞を知る

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形容詞を知る

椎葉忠臣(しいばただおみ)の母親はシングルマザーと言うものだ。 傍から見れば真っ当なクズ男の代表格、具現化した男と呼び名の高かった父親に見切りをつけた母が、まだ五歳だった忠臣を連れて心機一転とこうしてやって来たのは、前居た所よりも大きな街。 都会とも言えるのだろうが、当時あまり色んな意味で余裕の無かった親子はただ生活に慣れるのに必死であった。 忠臣は昼間は保育園へと預けられ、母はパートを掛け持ちする。 夕方、と言うより、殆ど夜間近に引き取られ、自転車に乗って家路に着く。 『半額総菜で悪いんだけどさぁー』 そう言いながらも味噌汁だけは必ず手作りする母との夕食は、決して裕福では無かったが、忠臣にとってはとても贅沢なもの。 酒を飲んで暴れる父が居ないだけマシ。 五歳児にしてそんな事を思う程に昔の生活が酷かっただけなのかもしれないが。 そんな生活を半年ほど続けた初夏の頃、忠臣は母に手を引かれ、大きな扉の前に立っていた。 自分のアパートの隣に立っている大きなお屋敷だ。 いつも帰り道に遠巻きに見ていただけのそこだが、母は緊張した様子も無くインターホンを押した。 《はーい、美保さん?》 そこから聞こえた母の名を呼ぶその声は、明るい。 「そうです、朋美(ともみ)さん」 《待っててねー》 そんな声から十数秒。 ガチャリと開いたその大きな扉から顔を出したのは、保育園児でもある忠臣ですら、眼を見開く程の美女。 保育園で一番人気のナナ先生より、同じクラスの一番可愛いアカリちゃんよりも一等賞だ、と子供心に胸をときめかせた。 「いらっしゃい、あ、貴方が忠臣君ね」 ニコリと微笑む姿はまた見惚れる程に綺麗で、忠臣はこくりと頷くだけしか出来ない。 普段はきちんとご挨拶なるものを母から厳しく教えられているのだが、これが俗に言う緊張と言うものらしい。 「ごめんねぇ、朋美さん。本当に一週間大丈夫?」 「大丈夫よぉ。美保さんはしっかり検査して来なさい。若いからって油断は駄目よ」 申し訳なさげに傷んだ茶髪の頭を掻く母と、きっぱりと厳しめの口調。 そうなのだ。 母は最近正社員となったスーパーの健康診断で検査入院を勧められてしまった。 しかも早めにした方がいいと、医者に言われ、真っ青になったのは本人だけでは無い。  忠臣も、だ。 すぐに病院へと慌てたが、問題はその期間、その幼い忠臣はどうするか、と言う事。 しばし頭を悩ませた母だったが、親子が住む安アパートの隣に不自然に立つこの豪邸とも言える家に住む主婦の朋美にお願いすると言う結論に至ったらしい。 朋美も朋美で、二つ返事で快く了承、むしろ『うちで預かる以外無いっ』と力強く引き受けてくれたらしい。 ゴミ捨て時に話をするようになっただけだと言っていたが、妙に二人して気があったのだろう。 玄関先で、きゃっきゃっと楽しそうに話をする二人は昔からの親友の様だ。 「じゃ、忠臣ー。いい子にしてるんだよ。保育園も一週間はお休みだからね」 「…う、ん」 ひとしきり頭の下げ合いを見せていた母だが、そう言うとくしゃりと忠臣の頭を撫でた。 不安が無いと言ったら嘘になる。 何せ全然知りもしない他人の家に一週間も厄介になるのだから。 「大丈夫だって。母さん、しっかりお医者さんに見て貰うからね」 ニコっといつもの笑みを見せる母に頷くしかない。 自分は男の子なのだ。 父親が居ない今、男は自分だけ。これ以上母を不安がらせてはいけない。 不安を押し殺し、 「いってらっしゃい…」 そうポツリと伝えれば、また母の眼は三日月の形を模った。 一人残され、うぅ…っと眼に涙を貯めていた忠臣だが、泣かないっ、と、小さな拳で目元を擦り、青いリュックを握りしめる。 「さ、忠臣くん、中に入りましょう」 そんな彼の手を引く朋美の手は母のかさかさとした手と違い、柔らかく白い。 「自分のお家だと思って、ゆっくりしてね」 「は、はい」 「うふふ。私専業主婦だから、お昼に子どもが一緒に居るなんて何年振りかしらー。楽しみだわ」 ニコニコと微笑む朋美から早速出されたケーキは甘く、食べた事無いと断言できる程美味なもの。 真っ白なクリームは艶々としている。 「うちにもね、子供がいるのよ。小学生だけど、きっと仲良くなれるわ、安心してね」 「はい…」 簡単に言ってくれるが、その一言で再び忠臣の中に生まれるのは緊張だ。 五歳児とは言え、色々と一悶着を超えて来ただけあり、中身はそこらの保育園児よりは大人びていたりする。 身体を強張らせながらも、ケーキを食べ続ける忠臣はついでに淹れて貰った甘いアイスココアを脚をぶらぶらとさせながら、ちびちびと飲んでいると、 「ただいま」 聞こえて来た声にびくっと身体を揺らした。 「あ、ほら帰って来たわ。利桜、こっちに来て」 りおう、と呼ばれた声に従いリビングの扉が開く。 ドキドキと鳴る心音に、忠臣も持っていたグラスの氷がカランと音を立てた。 「何、母さん」 (う、わ…) 瞬間、大きく開かれた眼に一番最初に映ったのは、サラリとした灰色味の強い、色素の薄い髪。
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