二章

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「犯人は本当にーー、本当に安東なんですか?」  若手の刑事は、黙り込んでいた私が急にしゃべったことに面食らったのか「え?」と云い、少々の逡巡を挟むと、 「ええ、それはほぼ確定していることだと思います。西山さんの携帯にしっかり安東弥生から河原で待つように指示するメッセージが届いているので。  しかも、何も持たないで来るように、なんて文言もある。酷いものですよ。きっと、護身用に使えるものを何も持って来させたくはなかったんでしょうね。  メッセージを送信した段階で、安東に殺意があったことは明白だと思ってます」  刑事は安東だと決めてかかっているようで、思った以上に様々な情報をしゃべってくれる。  でも犯人は安東ではあり得ないのだから、そのメッセージは前もって安東の携帯を奪った何者かが彼女に成りすまして送信したことになるのだろうか。  とすれば、私の家の安東の持ち物の中に携帯電話がなかったことも説明がつく。  でもそうすると犯人は安東に非常に近しい人物数名に絞られるのではないだろうか。 「日本にいる奏一(そういち)くんにも、優さんが殺害されたことは伝えられたのでしょうか?」  私はまた独りごとのようにポツリと呟いた。  奏一とは優さんの弟にあたる人で、いまはどこかの商社で働いているはずだ。  海外にいることも多いけれど、いまは日本に帰ってきているらしく数日前に私たちに顔を見せたばかりなのである。  人一倍兄思いの弟だから、この事態を知ったら大変なことになるだろう。 「ええ、もちろんです。  それも私共の仕事ですから」 「奏一くんは悲しんで、いたでしょうね」 「はい」  それきり彼はじっと押し黙って運転に集中しているようだった。  私は沈黙に耐えかねたように再び口を開くと、 「優さんのお母さんには、静子(しずこ)さんの方にもこの知らせは行っているのでしょうか。  ご病気ですから、少し心配で……」  優さんの一家は見るからにとても仲の良い家族だった。  母子家庭で、そこまで裕福な生活を送れていたわけではなかったらしいがとても良い家庭だったと優さんはよく云っていた。 「泊まり込みの看護婦さんに要件をお伝えしましたが、このことは折を見て話すそうです」 「それがいいですね」  何度目かの沈黙が下りようとしたとき、刑事の車は私の自宅前のバス停についていた。  もうすっかり夜も開けようとしており、遠い山影には薄霧のような幕がかかり、空全体がまるで紫色の絹でも張ったかのように払暁の様相を呈し始めている。 「今日はご足労いただきありがとうございます。また何か捜査の進展があれば、ご報告に参るかもしれません」  若手の刑事は隈が残った双眸をわずかに見開くと柔らかい微笑みを作り「では」と云って朝霧の中に去って行く。 「優さんを殺した犯人は、安東以外の誰か……」  私は自分の独り言を何度も反芻した。  ふと後ろを振り向く。  当然ながら、そこには誰もいない。  でもなぜか、薄靄の中から見張られているような、意識した途端に周囲の空気が凍り付いたような、一瞬だけ知覚したそれは、そんな奇妙な感覚だった。 「駄目ね。疲れているんだわ」  たしかに身体の疲労は、私自身さっきから強く感じていることだった。  いまは何も考えてはいけない。  何も考えずに家に入って、ベッドで横になった方がいい。  それから、ゆっくり考えよう。  ドアを少しだけ開けると身をよじるようにして滑り込む。  そして、振り返りざまに二つ付いている鍵とチェーンを厳重にすべて下ろした。 「優さん――」  私は、たしかに安東弥生を恨んだ。  殺してやりたいと願い、そして今日、確実に殺した。  でも一度だって。  心に誓って一度だって優さんを恨んだりはしなかった。  いったい誰が、欲に取り憑かれたあの女を除いて、いったい誰があんなにも優しかった優さんを殺すというの?  私はリビングのソファーにしな垂れかかり、ローテーブルに昨日出されたまま放置されていた優さんのブランデーを手に取り、切子の入ったグラスに注いだ。  透き通った赤褐色の液体から(かぐわ)しいにおいが立ち上り、私をゆっくりと酔わせてくれる。  切子の入ったグラスは差し込む朝日を乱反射し、壁に、床に、そして天井に、幾何学的な模様を映し出す。  ふと、あの女を埋めた庭が視界の隅に入る。  優さんと供に話し合って、インテリアを配置した庭は、ぽっかりと空いたのために美しい景観が大分損なわれてしまっている。  白い金属のテーブルセットは、そこでお茶会ができるように塗料が落ちて手が汚れないようなコーティングが施されている。  他にも少々値は張ったらしいが外国の彫刻家に作らせた日時計が、庭の端の方に小ぢんまりとした自らの領地を主張している。  もっとも、この日時計は本来、庭の真ん中にあるべきものだ。  私はそこで初めて、違和感に気が付いた。  口をつけたブランデーが回り始めたようで視界がぼやけて見えるが、たしかにこれは(おか)しい。 「どうして、どうして……。どうして庭に、」  あそこに私は、安東弥生を投げ込んだのだ。  そして間違いなくその上から土をかけて埋めた。  刑事がやってくる直前まで、一睡もせずに穴の埋め戻しをやっていたのだ。  そうだというのになぜ?  私はブランデーの入ったグラスを床に落とす。  ガシャン、という短い炸裂音が部屋に響くと、床からは強烈な芳香が立ち上った。  液体は私の靴下を濡らし、絨毯を濡らし、匂いとともにゆっくりと広がっていく。  庭の片隅に群れ咲いたヒガンバナの深紅が、初めて私の目に入った。 「どうして……」  汚れるのも気にせずガラス戸を開け庭に下り立ち、這いずるように大きな口を開けた穴を覗き込んだ。  それはまさしく今日の午後、優さんが家を出た後にあの女を埋めるために私が掘った大穴で間違いはない。  でも、そこには肝心なものがどこにも見当たらなかった。  。 「まさか――」  私はある可能性に思い至った。  あの女が、まさか。  私に殴られ埋められた後、自力で脱出して優さんを殺しに行ったのではないか、と。 「い、いや。それは絶対にあり得ないわ。起こるはずのないことだわ……」  そうだ、それではたしかに時間が合わない。  私が安東を殺した――少なくとも重傷を負わせた――のが午前零時三十分ごろ。それで埋めて土をかけ終わったのが約三時ごろだから、優さんの死亡推定時刻とは矛盾する。  仮に生きていたとしても、その時間帯は土の上に私がいたのだから脱出できるはずがないのだ。  じゃあいったい……。  これはどういうことなのだろうか。  私はたしかに安東弥生を殺した。ならば、私が刑事さんと出かけている間に何者かが庭に忍び込み、安東の死体を運び出したということ?  いったい誰が、何のために?   そこまで考え至った時、今日経験したものの中で、最も強い戦慄が私の中を駆け巡った。 「見られて、いた?   誰かに、誰かに私が安東を殺すところを。  そして埋めるところを、見られていたというの……?」  そしてその相手は、優さんを殺した犯人なのだろうか。  さっき玄関先で感じた生々しい視線。  パトカーが去って少ししたときに感じた、あのなめまわすような、身体中にへばりついてくるような  気持ち悪いあの視線は、気のせいじゃなかったということなのだろうか?  私は震える手を押さえながら、洗面台の前に置いてあった安東の洋服と鞄を確かめるために浴室の方に急ぐ。  からり、と子気味の良い音を立てて引き戸を開ける。  煌々とした蛍光燈のもとにはたしかに安東の持っていた鞄と、そして無造作に散らばっている洋服類があった。  安東を掘り返した者は室内には興味がなかったということなのか?   いや単に犯人は窓やドアを破壊して家の中に入ることを嫌ったのかもしれない。  私はひとまず謎の人物が室内にまで入ってきていないことを確認すると、ほっと一息ついた。  心臓は終始、心地の悪い早鐘を打っていたが、それもだいぶ収まって、ようやくリビングの床にブランデーを零してしまったことを思い出した。 「いけない。掃除しなくちゃ」  私は再び庭の見えるリビングにやってくる。  そこではやはり想像していた通り、ブランデーがローテーブルの下の絨毯に大きな橙色の染みを作ってしまっていた。  掘り返された庭が見えていると落ち着かないので、レースのものだけではなく天鵞絨(ヴェルヴェット)のような分厚い窓掛けで朝日を遮光する。  これは完全に染みを取り去ることはできないだろうな、などと考えながら染みのそばにしゃがみ込むと、なんだか視野がぼやけてくる。  優さんの訃報を聞かされて初めて、私の双眸から涙が零れ落ちた。  不思議だな、と思う。  どうして悲しみを忘れていられたんだろうか。  どうして彼の死を忘れていられたんだろうか。恐怖や不安が忘れさせてくれるなら、ずっとそうしていてくれればよかったのに。  ひとつ、ふたつ。  絨毯に新しい染みを作っていく。  私は涙を袖で拭い、窓掛けを睨みつけた。  どのような理由であれ、私の罪を知り、そして尚且つ優さんを殺した人物が、私の近くにはいる。  誰だろう。いったいそれは……。  それがはっきりとわかるまで、私は気を抜くわけにはゆかない。  最愛の優さんが殺されてしまったというのならば、もう私がこの世に生きる理由はない。  でも、優さんを殺した人物をこのままのうのうと生かしておくわけにはゆかない。  復讐する、とは云わない。  私は純粋に知りたいだけだ。  なぜあんなにも慈愛のある優しい人を殺さねばならなかったのか。  見方によれば彼は私を裏切ったのかもしれない、酷い人間なのかもしれない。  それでも、それでも私は彼を愛した。  どうしても彼を憎めなかった。  それなのに、優さんを殺した犯人は、きっと彼を憎んだのだろう。  いったいなぜ?   彼をよく知る人ならば、そう簡単に彼は憎めないはずなのに。  だから私は知りたい。  犯人は、どうして優さんを殺さなくてはならなかったのかという、その動機を。  何としても……。  私の涙が止まってブランデーの染みこんだ絨毯を片付け終わった時、今日で二度目の玄関のベルが鳴った。  少し間隔を開けてさらにもう一度、鳴る。  壁に掛かった時計によると、時刻は七時三十五分。  刑事さんが何かを伝えに来たのだろうか?  それとも……。  私はその先の言葉を呑み込む。  外でさらさらと草木が揺れた音がする。  さっき見た庭のヒガンバナは、きっとすべてを見ていたのだろう。  私が安東を埋めるところも。  そして謎の人物がそれを掘り返すところも。  そう考えると、庭で群生する美しい深紅の花々が私には突然なにかもっと禍々しい得体のしれない、悪しきものに感じられて思わず身を竦めた。    私は玄関ホールに向かって一歩、二歩と、ゆっくりと歩みを進めていく。
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