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私が返事を返す間もなく彼はそのまま覚束ない足取りで台所の方へ入って行く。
外ではもうすっかり日は登り、燦燦とした殺人的な太陽が照らしているであろう時間帯だというのに、この家の中はいやに薄ら寒い澱んだ空気が流れているようにも感じられる。
「もちろん、どうぞ――」
と私は、一拍子遅れた短い返事を彼の背中に向かって返す。
台所の硝子戸の向こう側に彼が消えた時、ふと思った。
――まさかとは思うが、この家に安東殺しという犯罪の痕跡が残ってはいないだろうか。
庭に掘られた大きな穴はカーテンで見えなくなっているし、仮に奏一に見つかってしまっても植木を移動する予定なのだと云えばなんとか誤魔化すことはできるだろう。
だが、床や壁に付着した血痕を見られてしまったら完全には誤魔化しきれないかもしれない。安東を殴り倒した応接室はいちおうは掃除をしたものの、本当にすべての血痕が残さず拭き取られているのだろうか?
いずれ警察もこの家にやって来る。安東弥生の行方を目下調査中だとはいえ、被害者宅に一度も訪れない警察はいない。
まさか家中ルミノール反応を調べられたりはしないだろうが、念には念を入れる必要がある。
そんな一抹の不安を胸に残しつつ、私はリビングルームの蓬色のソファーに腰を下ろした。台所の方から薬缶の中に注がれた水が沸騰する音が断続的に聞こえてくる。
音に身を任せ、私はゆっくり目を閉じる。
思ったよりも眠りは早く訪れた。
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