一章

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「知りません……、主人も今は不在です」  何と答えていいのかわからなかったので素っ気なく答えると、まだ名を名乗ろうとしない若い刑事が神妙な表情のまま、 「旦那さんの出先はわかりませんか?」  と問う。  夏だというのに、妙にひんやりとした風が私たちの間を吹き過ぎたように感じた。しかし、意識してみると夏の蒸し暑さは健全のままで、鉄塔の上の電線がジリジリと嫌な音を立て周りの木々は気だるげに枝葉を揺らしていた。 「彼は、何も云わずに、気まぐれでふらりとよくどこかへ行ってしまうような人ですから……」  刑事の視線はしばらく手元で開かれていた手帳の上を滑るようにしていたが、やがて私の方に向き直ると、 「こんなことを伝えるのはわたくしとしても大変心苦しいことですが、本日午前二時五分、旦那さんの遺体が江戸川の河川敷で発見されました。  それがどうもただの死に方ではない。  要は他殺の疑いが非常に高いのですよ」
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