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ばたん、と扉が閉じて私はふと我に返った。
着替えてきます。や、少々お待ちください。と云ってドアを閉じたのだろうか。そのような数瞬前のこともはっきりと思い出すことができない。驚愕と恐怖のあまり私は震える右手を必死に押さえつけた。
河原で優さんが殺された?
安東弥生に、殺された?
あり得ない。そんなはずはない。誰かが私を驚かせるために変装をして刑事を名乗っているのかとも考えたが、あの警察手帳は本物であったし、何より彼らの刑事然とした立ち振る舞いには職務からくるそれ然とした貫禄が感じられた。
がっくりと折れて床に着いた両膝を無理やり立たせ、私はのろのろと歩き出す。橙色の洋灯の光だけが照らしているリビングホールの空気が酷く蟠っているように感じられて、思わず口元を抑えた。
廊下の奥にある浴室の扉から白色に輝く蛍光燈の強い光が洩れている。私は洗面台の横に無造作に投げ捨てられているお世辞にも趣味がいいとは云えない高級ブランドの鞄を開けた。中から化粧品、財布、ハンカチ、定期券……、次々と取り出して床に並べていく。
たしかにない。絶対になくてはならない物が、ない。
私は床に壁に、非対称な幾何学模様を描いて飛び散っている飛沫を見遣り再びそれを確認する。
こんなこと、ありえないのだ。
優さんが、特にあの女に殺されるなんて、絶対に――。
なぜならばつい四時間前まで、《安東弥生はここに横たわっていたからだ》。
《私が殺した、この手でたしかに殴り殺したのだ》。刑事たちが訪問した時には彼女の死体を庭に埋め終わって、後片付けをしていた時だった。
残っている、あの感触が。安東弥生の頭をゴルフクラブで殴った時に、頭蓋骨が砕け脳髄が潰れるあの禍々しい衝撃。
床の所々に血痕がこびりついている浴室を後にし、自室に行って着替えを取り出す。
「どうして――」
私の呟きは空虚にも暗闇に吸い込まれ、答えが返って来ることは決してなかった。
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