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朝の柔らかい光がガラス窓を通じて寝台に落ち、執事は静かな眠りから目覚めた。一度大きく伸びをしてから寝台を出て、衣服を身につけた。コタルディのボタンを留め、
「さて」
と呟いて自室にしている小部屋を出た。
城の切り盛りはほとんど執事が担っている。朝の食事から掃除、洗濯、庭の手入れ、果ては商人たちとの取引など城に暮らす者の生活を一手に引き受けていた。といっても執事ひとりでは到底手が足りず、魔術師が創り出した他の人造人間たちや術の力を借りて切り盛りしている。
一日の始まりは食事の準備からである。厨房で人数分の食事を手早く作り、食事の場である大広間にテーブルと椅子を置いて真っ白なクロスを引く。美しい皿やナイフ、ワインを注ぐゴブレットを置き、整った食卓を見て執事は満足そうに頷く。そして息つく暇もなく主人達を起こしに向かった。
最初に騎士を訪ねた。騎士はほとんど毎朝、中庭で鍛錬をしている。起こしに行くというより朝食の支度ができたことを知らせに行くようなものである。
二階にある厨房から中庭に降りる。騎士はすでに朝の鍛練をしており、真剣な面持ちで剣を振っていた。
執事の姿を認めると気安く手を挙げた。
「よぉ。もう朝飯か?」
美しい銀色の髪が朝日に煌めく。切長の目が涼しげで翡翠色の瞳を一層引き立てている。
眉目秀麗のエルフという種族の中でも奴はとくに美しい、と我が主である魔術師がいつか言っていた。ただし性格は蛇蝎視されるオーガよりどす黒い、と眉を顰めていたのもよく覚えている。
いま目の前にいる騎士はどす黒さなど微塵も感じさせず、ただただ神秘的とも言えるエルフ独特の笑みを浮かべている。
「はい、お食事の用意ができましたので」
「あぁ、判った」
「では、また後ほど」
「あ、なぁ。あいつは起こしたのか?」
あいつとは魔術師のことである。
「いいえ、まだですよ」
騎士の笑みが不敵に変わる。
「俺が起こしに行ってやろうか?」
「いいえ。お気持ちだけで結構ですよ。起こすのも私の大事な役目ですから」
「でも毎日じゃ大変だろ?」
「と毎日おっしゃるあなた様にこの言葉そのままお返ししますよ」
執事はやわらかく笑った。騎士は負けたというように首を振った。
「いつも思うけど、お前丁寧だけど怖いよな」
「お褒めいただきありがとうございます」と執事は軽く頭を下げた。
騎士は肩をすくめた。
「じゃあ俺は一旦部屋戻ってから、そっち向かうわ」
「えぇお待ちしています」
騎士と別れて、次は魔術師の居室である南西の塔に向かった。
我が主は寝起きが悪い。今日も素直に起きてくれるといいが……。
執事は内心はらはら思いながら螺旋階段を登っていった。居室の扉まで来るとまずドアノブを握る。鍵がかかってなければそっと扉を開ける。鍵がかかっている時は絶対に部屋に入ってはいけないので、何があっても出直すことにしている。鍵をかけている時は大抵恐ろしいことをしているので、執事は無理に開けたりはしない。
今日はすんなり扉が開いた。
「主、朝食のご用意ができました」
戸口から声をかけるがまず起きてくることはない。執事は仕方なく部屋に入る。
不思議な色の液体が入った小瓶や謎の草の束、怪しく光る鉱石など様々なものが乱雑に置かれた大きな机を通り過ぎ、積まれた本の合間を縫って一番奥の寝台にたどり着いた。
カーテンの前から声を掛ける。
「主? お目覚めですか?」
返事はない。執事はそっとカーテンに手をかけた。薄暗い寝台の上、まるまった毛布の間から白い髪が見え隠れする。
「主? 朝食ですよ?」
何度か呼びかけるとようやく毛布が動いた。細い腕が出てきて指先で小さな円を描く。起きるという合図だ。それを見て執事はようやく安堵した。
「はい、お待ちしています」
カーテンを静かに戻して執事は音もなく部屋を出た。
中庭を通って大階段を上がり、食事の場である大広間に寄って配膳の様子を確認してから階下の侍従の部屋に向かった。仄暗い螺旋階段の途中に突如現れる扉が侍従の部屋の入り口だ。執事は重苦しい木の扉を三度叩く。
「侍従様、朝食のご用意ができました」
やや間があって、侍従の落ち着いた声が返ってきた。
「判った」
執事は一度も侍従の部屋に入ったことがない。入る必要もなく、また侍従が頑なに何人たりとも入らせようとしないからである。
侍従様らしくていい、と執事は気に留めなかった。所縁あってこの城にいるが、直接の主人は魔術師であり、その魔術師も陛下や侍従に仕えているわけではなく、いわば利害が一致した共闘関係のようなものであるから、本来は陛下や侍従達に慇懃に奉公する義務はない。だが執事はその美しい陛下と忠誠を尽くす侍従を敬い、本当の主人のように——当然一番は魔術師であるが——仕えているのである。その点に関して魔術師は大らかで、もとより無関心であるため、一見すると奇妙な主従関係が成り立っている。ゆえに執事は侍従や陛下たちに対して一歩引いた態度を取り、侍従も同様である。
「さて」
再び大広間に戻ってきた執事は奥の控えの間に目をやる。その先に玉座があり、そこは城の主——陛下の居室がある主塔への入り口でもある。
この城の実質の支配者である陛下の御前に赴くのは、毎朝のこととはいえいまだ緊張を強いられるものである。特に昨夜のように不意の出来事があればなおさらである。
執事は一度深く呼吸をしてから玉座に向かって歩き出した。
いつもならもうお目覚めであるが……、と緊張した面持ちで居室の扉の前に立った。
「陛下……」
声をかけてドアノブに手をかける。ドアはわずかな音も立てずになめらかに開いた。
やわらかな光が満ちた部屋の奥、寝台の上に半身を起こした陛下の姿が見て取れた。
いつも通りの光景だと執事が安堵しかけた瞬間、傍に眠るあの御方——魔者の子の存在に気づいてしまった。
思わず声が出た、はずだったがその声はわずかに振り返った陛下によってかき消された。金色を帯びた白銀の髪が揺れて、陽光に輝く銀の眸が執事を捉える。
陛下にとってはただ見ているだけだが、執事は射抜かれたように動けなくなった。それでも言葉を紡ごうと必死に唇を動かしたが、声になる前に陛下の手によって再び制された。
『知らえぬ』
陛下の声が頭の中にこだました。混乱する執事はかろうじて一礼をして居室を出た。
ドアを閉める瞬間、つい陛下を見ると、陛下は傍に眠るあの御方に目を向けていた。
それなりに長い年月を陛下に仕えてきた執事には判ってしまった。
その眼差しにほんのわずかだが慈しむような感情が混ざっていることを。
それがさらに執事に動揺を与えた。うろたえながら足早に主塔を後にした。
大広間まで戻ってきてようやく執事は息を吐いた。
見てはいけないものを見てしまったと思いながら、一方で鍵をかけず自分の立ち入りを許したのは何故かという疑問で執事の頭はいっぱいになった。
私に示しても何の意味もないのに、陛下はなぜ鍵をかけなかったのだろうか。
いや、そもそも陛下の部屋にあの御方がいても何ら不思議ではないのだ。あの御方は赤子の頃から陛下の許にいる。親子のようであるなら特段問題にすべきではないし、そもそも親子のような関係でなくとも、あの御方が陛下の寝台にいても驚くべきことではないのだ。昨夜のこともあるし、と混乱する執事を目覚めさせる声が背中に刺さった。
「なに突っ立ってるんだ」
いつの間にか魔術師が朝食の席に着いていて、訝しげに執事を見ている。
「申し訳ありません。すぐご用意いたします」
執事は慌てて厨房に向かった。
あぁ、私にもまだ昔のように揺れ動く心が残っていたのだ、と執事は呟いた。
侍従と騎士もやって来て、朝食の配膳が始まった。
「今日は小麦のミルク粥とパン、ワインをご用意いたしました」
それぞれの席に料理を運ぶと各々が自由に食事を始めた。侍従だけは几帳面に陛下が来るまで手をつけないでいた。
やがて陛下が魔者の子を伴って現れた。
「失礼します」と執事はそれぞれの席に手際良く料理を並べる。
陛下がパンに手をつけると、侍従もようやく食事を始めた。
食卓は静かだ。侍従が魔術師や騎士に小言を言わなければ大広間は食事中だというのに静まり返っている。
魔術師はもともと無口であるし、陽気な騎士でも——戦闘があった日は別だが——誰彼構わずおしゃべりはしない。一度気ままに喋っていたら侍従にこっぴどく怒られて以来、余計な怒りは買いたくないとだまっていることが多い。
陛下は滅多なことでは口を開かないし、魔者の子も同様だ。
執事も必要がなければ話したりはしない。
だから食卓は静かなものである。
しかし昨夜のことはやはり話題にのぼった。口火を切ったのははたして騎士だった。
「逃げたんだろ? 〈英雄〉」
侍従が騎士を睨んだ。
「だからどうした」
「いや、別に。まぁ、あんたらがいいならいいけど」
「たかが魔者一匹、どうとでもなる」
魔術師が口を開いた。
「何か策があったんじゃないのか」
騎士は侍従と陛下に視線を走らせた。
侍従は何か思案するように目を伏せ、陛下は騎士を一瞥した。
『案ずるな』
美しい声音が広間に響いた。
『いずれ決する』
陛下はそれだけ言うと席を立った。あの魔者の子も静かに後をついていく。
「あ、おい」
騎士が魔者の子に声を掛けた。
「今日も鍛錬するんだよな?」
振り向いた魔者の子は大きく頷いた。
「じゃあ、あとでな」
魔者の子はもう一度首を振り、陛下の後を追って控えの間に消えていった。
その姿を見送って騎士も席を立った。
「飯うまかったぜ」
じゃあな、と騎士が広間を出ていく。
「騒がしいやつだ」
侍従は深いため息をついた。
「変だな」
魔術師が呟くように言った。
「何がだ?」
侍従が訝しる。
「何か企んでるよな?」
夜の闇に似た深い青色の目が侍従を射抜く。
「私ごときが陛下のご意志を申し上げることなど、まして推し量ることなどできぬ」
侍従は大きく頭を振った。
「また回りくどい言い方しやがって」
怪物同士の化かし合いだ、と執事は畏れた。
このふたりの腹の探り合いは日常茶飯事である。
侍従は過去、突然加入した魔術師を最初から信頼していないし、魔術師も侍従を老獪な策士とつねに疑っている。よく争いが起きないものだと日頃から執事は気を揉んでいた。
「お前、何か知っているだろう」
「陛下は案ずるなとおっしゃった。それがすべてだ」
魔術師は憮然とした顔で侍従を睨んだが、
「……まぁいい」
と興味を失って大広間を出て行った。
「まったく、どいつもこいつも身勝手に振る舞いおって」
苦々しく言葉を吐く侍従の前に、執事がカップを置いた。
「どうぞ」
侍従は面食らったが、咳払いをしてカップに手を伸ばした。アーモンドミルクを使った飲み物がたっぷりと入っている。
「体の内側の痛みに効くそうですよ」
一口飲んだ侍従はばつが悪そうに言った。
「ま、まぁ悪くない」
「ありがたきお言葉です」
執事は軽く頭を下げた。
侍従は深いため息をついて言った
「皆がお前のようであったらな」
執事は思わず苦笑した。
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