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 中庭に空を切り裂く鋭い音が響く。朝食の後、午前の鍛錬を再開した騎士が片手半剣(バスタードソード)を手に敵と向き合っている。  魔術師に頼んで出現させた仮想敵はかなり手強い。一対一でも苦戦をする相手だがいまは三体いる。さすがの騎士からも日頃の余裕ある表情は消え、獰猛ともいえる真剣な顔で敵を見据えていた。  敵に意志があれば恐れ慄いただろう。それほど鬼気迫る姿勢で鍛錬に励んでいた。  一瞬の静寂の後、同時に切りかかった。襲い来る三本の剣を薙ぎ払い、返す刃で敵の体を貫き、斬り伏せていった。まさに妙技と言っていい。それでも倒れた敵を見やって騎士は首を振った。 「まだまだだ」  騎士が目指す高みは遥か彼方である。  誰よりも強くなりたいと、平和を愛するエルフの一族に生まれながら血塗られた道を選び、異端と罵られながら戦いに明け暮れた日々を経て、このエルフは一騎当千の強者と称されるまでになった。  それでも騎士は満足しなかった。さらに強いものの存在を知っていたからである。 「だから俺はここに来たんだ」  と騎士は神妙な顔で言った。 「陛下(あいつ)は俺よりずっと強い。お前もきっと俺より強くなる。だから俺にとってここが最高の鍛錬の場なんだよ」  騎士は、魔者の子に初めて剣を教えた日に言った。 「強くなれ。俺を、陛下を殺せるほど」  そう言って剣を授けた。  魔者の子は、いまその剣を構えて騎士に向き合っている。 「……」  屋外であるが物音ひとつしない。張り詰めた空気にすべてのものが動きを止められているのかのようだった。  互いに出方を伺っている。不用意に動けばすぐに刃の餌食になる。  鍛錬といっても命の奪い合いに変わりはない。騎士は教授すると言いながらつねに本気で剣を振るう。まるで容赦がないが、過酷な戦場で戦い抜くにはまだまだ手ぬるいとさえ騎士は思っていた。  魔者の子はまだそれほど戦場に出ていない。実力が及ばず出陣できないのではなく、陛下がそれを望まないからである。騎士は一度抗議したことがある。 「何で出さねえんだ。あいつの力は十分にある。魔者の百匹や二百匹、簡単に倒せるぜ?」 『いまだし』 「んだよ。じゃあ、いつなんだよ?」 『さだめかぬ』  陛下の銀の眸が騎士を見据える。これ以上の言葉を許さない冷たい怒気が騎士を縛った。それ以降、騎士は訊ねることをやめたが、 「こんなに強いのにな」  魔者の子の剣を受けながら騎士は心の中で何度も思った。  休息の間にふと疑問が蘇った。 「何がだめなんだろ? なぁ、お前は判るか?」  魔者の子は小さく首を傾げた。 「何で陛下はお前を戦場に出さねえんだろ? お前が魔者だからか? それとも戦わせたくないからか?」  どちらも正解であり不正解であるような気がする。 「だったら強くさせたりしねえよな? この城の中に閉じ込めておけばいいはずだ」  何かある、と騎士は思った。その何かが来たるべき未来なのか、あるいはすでに起きた過去なのかは判らない。  魔者の子を見やる。黒髪の下に見え隠れする黒い目に迷いはかけらほどもない。 「何だっていいか」  騎士は剣を抜いた。 「次は当てに行く。死ぬ気でかかってこい」  魔者の子はしかと頷いた。  正餐の時間を告げに執事が中庭にやって来た。ふたりは汗の滲む顔で執事を見た。 「今日はまた一段と厳しい鍛錬を積まれたようですね」  執事は水で濡らしたタオルを手渡した。 「はー、生き返るわ」  騎士は顔の汗を拭って息をついた。 「まもなく正餐の時間です。大広間にお越しください」  魔者の子が頷く。 「今日は何だ?」と騎士が聞く。 「鶏肉のシチューと燻製のニシン、いくつかの果物とナッツ類、パンとチーズ、あとエールをご用意いたしました」 「いいね。ご馳走だ」 「戦況が一旦落ち着きましたので商人たちとの取引も再開して、また新鮮な食料が手に入りますよ」 「これでしばらく飯には困らなそうだな。城ん中での自給自足だってたかが知れてるし」 「さぁお食事が冷めてしまいますので」  執事に促されてふたりは大広間に向かった。  正餐が終わり午後になると、侍従はやや苛々しながら、かつて礼拝堂であった広間に向かった。  その腕にいくつかの本を抱えている。 「なぜ私があの忌々しい魔者の子などに講義をせねばならないのか」  すでに数え切れないほどの時間を費やしているのだが、侍従はいまだに不満を抱えてこの講義に臨んでいる。 「まったく、陛下のご命令でなければこのようなこと死んでもやらんのだが」  陛下から命を受けた日の侍従の取り乱しようは尋常ではなかった。 「……いま何とおっしゃいましたか?」  陛下はもう一度ゆっくりと口を開いた。 『教えよ』 「な、な、何と言うことを。わ、わ、私めに、あの者に知を授けよとおっしゃるのですか」 『然り』 「あ、あぁ、な、何と言うことを。いくら何でも惨い命令です。私の命とも言える知を、あ、あの者に分け与えるなどと……」  陛下は少しだけ目を細めた。 『頼もしき』  その言葉に侍従の心は貫かれ、美しい銀の眸にひれ伏し、ただ是と首を垂れることしかできなかった。  ——もったいないお言葉でございます。そのようなお言葉を頂けるのなら不肖、全身全霊を持って知を授けましょうぞ——  一瞬の目眩は一生の後悔の元だったが——現に侍従は不満タラタラで毎回講義に臨んでいる——思い出すと侍従の胸はいまだに高鳴り、幸福感をもたらす。  広間ではすでに魔者の子が中央に置かれた大きな木の机の前に座っていた。戸口に現れた侍従を認めると、小さく頭を下げた。 「む……」  殊勝だと思う気持ちといけすかないと思う気持ちが入り混じる。大きなため息をついて侍従は向かいの席に腰を下ろし、一番分厚い本を開いた。魔者の子も目の前に並べた本のひとつを開いた。 「では講義を始める。前回の復習からだ。この島における我らの敵は〈国王軍〉と〈英雄〉と呼ばれる魔者であることは覚えているな。〈国王軍〉などどうでも良いが、昨夜この城に侵入した〈英雄〉は用心しておけ。あれは他の魔者より少しばかり強く知恵が働く」  魔者の子は真剣な顔で聞いている。 「近いうちに〈国王軍〉を退けて陛下がこの島を支配したのち、我らは他の大陸に向かうだろう。まだまだ先は長い。心して励め」  侍従はより険しい顔をして言った。 「お前は陛下の命で戦場に出るのなら、絶対に負けてはならぬのだ。もちろん死んでもならぬ。その意味が判るな?」  魔者の子は点頭する。 「お前が戦うというのなら強くなくてはいけない。昨夜のように陛下の手を煩わせるなど、本来あってはならない言語道断の行為なのだが……」  侍従は思案するように顎に手を置いた。 「しかし……、昨夜のことは様子が少し違うのだ。お前、陛下から何か伺っていないか?」  魔者の子は首を横に振った。 「……私としたことが。陛下が私に話さないでお前だけに話すことなどあり得ないというのに、つい聞いてしまったではないか」  侍従の表情が目まぐるしく変わる。 「と、ともかく昨夜の一件は奇妙なことであったが、陛下が案ずるなとおっしゃる以上、捨て置くのが正解だ。そして、そしてだ。昨夜のことが二度と起こらぬよう、たかが〈英雄〉一匹、すぐに屠れるよう鍛錬に励め」  侍従は力を込めて言った。 「いいか? お前は陛下に選ばれた。その幸福に自覚を持って全身全霊、陛下に尽くせ」  魔者の子は深く首を垂れた。  講義が終わる頃、広間の出入り口から執事が顔を覗かせた。夕食の用意ができたことを告げに来たのだ。  夕食は正餐よりも軽めのメニューが並ぶが、一日の疲れを癒すために執事たちは腕によりをかけて料理を作っている。 「夕食には、そら豆のポタージュと新作の鹿肉のパイ、りんごのコンポート、パンとワインをご用意しました。ご希望でしたらエールとビールもご用意いたします」  大広間の食卓についた一同に給仕をしながら執事が言った。 「俺はエールにする」 「ビールを出してくれ」と騎士と魔術師が頼んだ後はいつもの静かな食卓になった。  ひとしきり給仕が終わると執事も食卓の端に腰掛けた。食事をしながらそれとなく皆の様子を伺う。  騎士は完璧な作法で優雅に食事をしている。魔術師は好き嫌いが多く、今日もあまり食が進んでいない。侍従は新作の料理を恐る恐る口に運んでいる。陛下と魔者の子はいつもと同じように静かに食べている。  魔者の子が城に来てから始まった食事の習慣もいまではすっかり馴染み、執事はようやく胸を撫で下ろした。  始めた頃はやはり侍従が反対した。 「我々は火・風・土・水の四元素を源とするゆえ、お前たちのような食事などという野蛮な行為は必要ない」と烈火の如く怒ったが、 『構わぬ』という陛下の一言で丸く収まり、次第に侍従も食に興味を抱くまでになった。  ——明日は何を作ろうか。  皆の顔を見ながら、執事は次のメニューを考え始めた。  夕食の後は魔術師が魔者の子に講義をする。侍従が世界の情勢や戦況、味方である各種族——ドラゴンやベヒモス、グリフォンなどの生態や敵である魔者の動向など様々なことを教えるのに対して、魔術師はその名の通り魔術に特化して教えている。 「そもそも、それしか教えられないからな」  と、陛下から講義の命があった時に魔術師は宣言し、陛下もそれでいいと納得している。  魔術師の居室がある塔は陛下の居室がある主塔の反対側にある。そこへは中庭を通って行くのが一番近い。  陽が落ちて夜の闇に包まれた中庭はひっそりと静まりかえっていた。時に血まみれの戦場と化す修羅の庭の面影は、いまは微塵も感じられない。立ち止まって地面に目を凝らすと変色した土が足元に広がっている。それが血であることは城にいる者なら誰でも知っているが、それを悲観したり恐れたりする者はこの城のどこにもいない。魔者の子もまた何事もなかったかのように歩き出した。  塔に入り螺旋階段を上がって現れた扉の鉄輪を二度ほど叩く。 「入れ」  返事を待って中に入る。魔術師はガラスの瓶や分厚い本、怪しげな器具が並んだ机から顔を上げた。 「ちょっと待ってろ。今いいとこなんだ」  魔者の子は手前の大きな机の前に座った。本などが乱雑に置かれているので、いくつか片付けて持参した本を並べた。 「これでよし、と。じゃあ始めるか」  魔術師が斜め向かいに椅子を置いた。 「前回はどこまで話したっけな?」  魔者の子がノートを示す。 「あ、あぁここか。じゃあ今日は〈中央〉の奴らが使う魔術について教えてやる。奴らはちょっと変わった魔術を使うんだ。それは奴らにしか使えない特別な技といっていい」  魔術師も最初は侍従と同様に渋々講義を行っていたが、魔者の子の天賦の才と飲み込みの早さを認めると、本格的に魔術を教える方向に舵を切った。その期待に応えるかのように魔者の子は目覚ましい成長を見せ、魔術師や侍従たちを驚かせた。ついには魔術師に「弟子」とさえ言わしめるほど魔者の子は力をつけていった。 「……つくづくお前には驚かされるよ」  ある時、実技として高度な魔術の発動を課した魔術師が半ば恐れ、半ば呆れたように言った。魔者の子は四大元素を複雑に構成させた術をいとも簡単に発動してみせたのである。 「この術は、火・風・土・水それぞれの精霊の力を直接使役するものだ。今は呪文という媒介が必要だが、いずれお前も呪文を唱えずに直接精霊の力を使えるようになるだろう」  魔者の子は神妙な面持ちで頷いた。 「それゆえ強大でおそるべき力を持つ。使い方を誤るなよ。術を使う者が術に飲まれることは意外とよくある。これまで何人もの術師が術に囚われて死んでいった。……まぁ、この辺の理屈は剣と同じだろう。あのバカもそんなようなことを言っていただろう」  あのバカとは騎士のことである。 「まったくあんな性格でなければ、〈賢者(ウィド)〉にさえなれるというのに、こんな辺境で魔者相手に剣を振るっているなんて」  〈賢者〉とはエルフの精神的指導者のような存在であり、この種族にとって最高の名誉を意味する称号でもある。  魔術師は魔者の子の視線に気づいて咳払いをした。 「話が逸れた。……ともかく短期間でこれほどまでに成長するとはな」  魔術師は魔者の子をまじまじと見た。 「……お前、本当に魔者か? 他種族の血も入っているんじゃないか?」  魔者の子は首を横に振った。 「そうか。いや……、種族は関係ないな。お前自身の努力と才能の賜物だろう」  魔術師は青い瞳を細めた。くせのある白髪から見え隠れする目は澄んだ水のように冴えている。 「お前も魔者の血が流れているから、この先何度も苦労するだろう。だがお前がここにいることを望み続けるのなら、相応の犠牲も払い続けなければならない」  魔術師は不意に言葉を切った。——自分のように、とは言えなかった。 「お前は強くならなければいけない。この城で誰よりも強く、色々な道を選べるように」  魔者の子はしかと頷いた。  魔術師の塔を出て中庭に戻ってきた時には夜の風が吹いていた。月明かりが道のように地面を照らす。  魔者の子は大広間へと続く大階段まで来ると後ろを振り返った。月は雲に隠れ、道は消え、闇が辺りを深く包んでいた。  昨夜のように。 ——あなたはここにいてはいけない——  〈英雄〉の言葉が蘇る。  月が明るさを取り戻す。  陛下の顔が蘇る。 ——何事か呟き、わずかに眉をひそめた切なげな顔——  昨夜のような眩い月光が地面に光と闇を描き出した。  魔者の子はその光景に背を向け、階段を駆け上がった。  魔者の子の部屋は陛下の居室の屋根裏に設けられている。部屋に続く階段は陛下の居室の中にあり、自室を行き来するときは必ず陛下の部屋を通らなければならない。  面倒ではあるが魔者の子を守る、あるいは監視するためにわざわざこのような作りにしたのだろう、と侍従は考えていた。  こういう構造さえ、侍従には陛下が魔者の子を特別扱いしていると苦々しく思わせる点なのである。  陛下の居室の扉を開ける。  陛下は中にいた。  カーテンを上げた広い寝台に腰掛け瞑想をしているようだったが、魔者の子を認めるとわずかに口元を緩めた。 『来よ』  耳ではなく頭の中に直接声が響く。魔者の子は陛下の前に進み出た。 『いかならむ』  陛下は魔者の子の頬に手を伸ばした。  魔者の子は頭を垂れてその手を待った。  長くしなやかな指がほんの少し肌に触れたが、魔者の子は微動だにしない。  陛下の指は頬を縁取る黒髪に触れ、そっと手を引いた。 『よきことなり』  魔者の子は顔を上げて陛下を見た。ほんのわずかだが穏やかな表情を浮かべている。 『よいぞ』  魔者の子はそっと身を引いた。  部屋の隅まで下がり、自室に続く階段の前で立ち止まり再び陛下を見た。  陛下はすでに目を瞑り、意識をどこか別のところに向けていた。魔者の子は静かに階段を登っていった。
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