反省のよちもなし

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反省のよちもなし

「ひどい、ひどいわ。雅也さんが亡くなったのに、すぐに駆けつけてもこないなんて。最低だわ。人間のクズじゃない!」  線香の煙が生糸のように揺れるなか、棒のように立ちつくす裕に百合子は怒りにも似た視線を投げつけた。鼻腔をくすぐる匂いは血生臭いわけでもなく、桜のような花の香りがした。 「……っ」 「あなたは雅也さんに相応しくない!」  言葉がでない。おまえは不倫相手だろうが。と、喉まで突きあげる言葉を押しもどす。  百合子は瞼のふちを赤くしながら涙ぐむ。撫子色の唇を震わせて、目尻にはマスカラがダマになってこびりついていた。その横で長い脚を伸ばし、紺色のくつ下をこちらに向けている夫。顔は白布に隠され、ボーナスで買った八万ほどのストライプのスーツは所々に泥や黒いしみがついて、覆われた布からは高い鼻梁の両側に窪んだ両目がわかった。  仄暗く、海の底に沈んでるような気分で一歩また一歩とあるく。  土日は百合子と出張なんだといって、逢引きのメールが裕のパソコンに流れているのをつゆ知らず、雅也はラブホに直行していた。在宅だっていうのに、百合子の部屋でリモートで会議をしているのだってわかっていた。写真も全て印刷し、ファイリングして、それを証拠にいつか莫大な慰謝料をふっかけてやろうと夢見て、歯を食いしばって耐えていた。が、その気持ちもあっけなく萎んでしまう。  あろうことか、病院受付で説明された夫の亡くなった場所は客先の会社からすこし離れたラブホ街のまえ。仕事帰りに議事録をラブホで書いてたのかな? と思わず口にだしてしまうと、担当者は口ごもって視線を落とした。 「……遅れて申し訳ございません。東雲裕(しののめ ゆう)です。ここまで、ありがとうございました。雅也も幸せだったと思います」  ありきたりな言葉を繕って、腹の底から声を絞りだす。乾いた空気にのせて、女のすすり泣きと自分の声が響いた。  裕は夫の亡き骸にのろのろと近づき、白い布をめくる。凛々しい眉はそのままで顔面は整ったままだ。よかった。子供たちにはみせれる、となぜか冷静な自分がいた。 「許せない。許せない。どうして、こんな男と雅也さんが結婚しているの? どうして? ね? どうしてなの?」  答えてよ、と百合子が雅也の腹のうえに覆いかぶさる。女の服もどこか汚れていて、突っ込んできた泥酔車から庇って亡くなった、という説明をふと思い出した。  ……なんでこんな女に手を出すんだよ。クソが。    死人に口なし。亡くなったら、聖者だ。子供を預けて、遅刻してしまう配偶者が責めたてられ、浮気相手である百合子がわんわんとそばで泣いている。  百合子の首には黒のチョーカーが巻かれ、同じオメガだと気づいてさらに苛立つ。  独身だったら、百合子のように口汚く罵っていただろうか。裕は足元をみて、米粒がついたセーターに目がとまる。  亡くなった夫へすぐに駆けつけられず、夜中に汚れた服装でふらつきながら現れ、涙も流さないパートナーを冷酷で、最低な奴だと思ってしまうのか。むかしはそっち側の世界にいて、多忙な業務のなか、はやくに退勤する人を横目で見ていたのをなんとなく思い出してしまう。結局はその立場になってみないと、人の感情なんて分からない。  でも、百合子は知らない。雅也の子供を出産して、K2シロップを上手く飲ませられなくて、ネットで血なまこになって調べ、幼い我が子がやっとのことで飲んでくれた、あのほっとした喜び。離乳食で手こずって、仏に捧げるような気持ちでトレーにのせると笑顔でひっくり返され、ひとり笑いながら床を拭いたあの日々。  微笑ましい家族という絆は自分が(つむ)いできたのだ。雅也のボクサーパンツも靴下も裕が畳んでいる。それを脱いで、女を抱いている夫がいても胸を張って頑張ってきた。  裕は屈んで腰を曲げると、雅也の冷たくかたい手をとり、頬に触れる。氷のような指先はずしんと重く、生気は感じられない。 「……雅也」 「(さわ)らないで! ふれないでよおおおお!」  ヒステリックな女の声が耳に残りながらも、頭は冴えていく。葬儀屋に連絡して、葬式をして、火葬をして、遺骨を壺にいれて、そうだ、墓なんてどうすれば……。  交錯した雑念を追い払うが、夫の瞼は閉じたままだ。死顔すらうっとりするほど格好いい。この甘い顔立ちを他の女に見せていたのか。腹が立つ。  あ、やばい。写真……。  ふと、その言葉で口もとが緩んだ。  遺影は子供達とたくさん撮ったのが浮かんで、いくつか目ぼしがついてしまう。裕が撮らなかったら、五年前の写真しかなかった。    ……そうか、もう五年もたつのか。おつかれさま、雅也。  そう思ってしまう自分がいた。そのあと、どう帰ったのかはおぼろげで覚えていない。淡々と葬儀屋との手続きを済まし、頬を濡らす百合子を残して病院をあとにした。  次の日、慌ただしく保育園に子供たちを見送ったあと、すぐに市役所へ駆けこむ。番である夫の「死亡届」を提出して、保育園の相談をしようと福祉課を訪ねた。そこで、「運命の番」こと、こども青少年局 保育・教育運営課所属、木村 太郎(きむら たろう)と出会う。
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