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負け犬の遠吠え※
ああ、行ってしまった……!
木村 太郎こと、太郎は糸がぷつんと切れたような寂しさに打ちひしがれてしまう。
あの人、すごい量の薬打ってたけど、大丈夫なのかな? でも、なんてイイ匂いがするんだろう。
太郎はそろりそろりとベッドの窪んだところへ近づいて、ほんのりと温かく香るシーツに顔を寄せる。ふわりと林檎の蜜のような甘く濃厚な匂いが残って、太郎の鼻の孔が膨らんだ。
体が緊張で汗ばんで手には汗が吹き出して、ごくりと生唾を飲む。彼の寝顔を眺めているとき、早鐘のように鼓動が打ち始め、どくどくと脈が耳のなかで響いていた。顔を合わすと、糸をゆるめられた操り人形のようにぎくしゃくして、ぎこちなく笑ってしまう自分がいた。
好き。スキ、すき、すき、好きです。大好きです。いや、愛してる。愛してます。
視線が合ってしまうだけで、理由もなく直感的にそう悟る。しかしながら相手の左手の薬指にはつやつやと光る指輪が煌めいて、理性という蜘蛛の糸がぴんと張ってしまう。本能的に黒髪をかき分けて視線を泳がせながらも、うなじを確認すると歯形がくっきりと残されて、既婚者なのだと裏づけている。
馬鹿だ。今日から新しい仕事が始まるのに、なんて無粋なことを考えているんだ。
東京からのUターンで、生まれ育った母方の実家に戻ると決めて、中途採用で市役所の規職員となった。給料は都会より少ないが、ストレスの少ないゆとりある暮らしと市民の為に尽くせるという仕事にやりがいを感じていた。しばらくは母の実家である祖母の家に身をよせて世話になることになっており、太郎は第二の人生へ希望を託していた。
都会の擦り切れた人間関係で、かさついて疲れた心を癒す。ベータの父はいつも単身赴任でおらず、身体の弱いオメガの母は祖父母と太郎の三人で暮らし、癌を患って早くに亡くなって祖父母に愛されて育った。優しくいつもそばにいた祖父母。年老いて心配だなと思いながら気まぐれで電話した古い友人に地域活性化の取り組みに強化していると誘われ、慣れ親しんだ土地に戻った太郎ははやくもやる気に満ち溢れていた。それなのに、初日から一目惚れのような浮ついた気持ちに消え入りたいほど恥ずかしくなる。
彼女もいたが、残業続きの仕事で最後は自然消滅だった。仕事一筋でもいいやと決めたのに、どうして、初めて会った男性にときめいてしまうのだろう。オメガなわけないと、願いながらもベータにみえてしまうので正直に聞いてしまうと、不機嫌極まりない顔で怒らせてしまった。
まず、第一印象がさいあくだ……。
すでに相手がいるのに、太郎は身体が燃えるような興奮にとりつかれる。だめだと思っていても、好きになって欲しいと胸がしめつけられる思いに心をふるわせた。
くんくんと鼻を動かして、得も言われぬかぐわしい匂いで、じんと鼻の奥が再び熱くなる。
はぁ、匂い気持ちいい。はぁ、はぁ、は……、あ、だめだ。だめ。初出勤だ。興奮しちゃだめだ。だめだって。あ、でも、勃ってる。すごく硬くなってる。だ、だめだ。だめ、抑えていたのに……。
太郎の気持ちにあらがうように棒は金属のように鋼になっていく。
あの指輪を贈った相手が羨ましい。相手もアルファなのだろうか。
太郎はドアへ戻って、休憩室の鍵を左手で締め、ベッドの脇にたつ。熱い雄をズボンからぼろんと出して、硬く強張った雄をごしごしと扱いた。彼のヒートにあてられた? いや、でも、そうじゃない。ちがう。
もっと一緒にいたかった。でもいたら襲ってしまっていた。
自分を睨みつける鋭い視線が浮かび上がり、昂った雄から白濁とした精子が飛び出しそうになり、急いで横のティッシュで先端を包みこむ。蓋をするやいなや、びゅくびゅくと大量の精液が放たれるのを手のひらに感じた。
運命の番? いや、まさか、そんなわけない。運命の番なんてそういるわけない。
しかも、番が成立したオメガに欲情なんてクズだ。運命の番だとしても、既婚者を好きになってはいけない。ましてや自分は公務員だ。さらにオメガというバースは番が成立すると一生相手に添い遂げる。
そんな人が運命の番ならば、僕なんて……。
残酷だ。そんなことあるわけがない。非現実すぎる。僕の運命の番なんて宇宙のどこか片隅で輝いていると思えばいいんだ。
けれども、どこかで嗅いだことがあるあの香り……。
太郎は萎びれた雄を元の場所へしまい、慌ててシーツを畳んだ。
最低だ。すぐに興奮してしまうなんて。これからは抑制剤を自分でも携帯しよう。万が一、訪れた人を襲いかねない。
――うん、あの人に会えてよかったのかも。
手に取ったシーツから、まだ淡い匂いが残って思わず嗅いでしまう。
そうだ、この匂い、昨晩から祖母が預かっていたあの子たちと似てる。たしかご主人が事故で亡くなって、祖母が大変だから助けてあげたいと心配そうにこぼしていた。
無性に悲しくなって、太郎は泣きそうになった。会いたい。また、逢って話したい。そしてうなじに歯を立てたい。
わけも分からず、恋する青年がここに誕生している。
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