チーズケーキの背理

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 チーズケーキを探して生きている。  比喩でも何でもないこの言葉を聞くと、結構な人は困惑するか――失笑する。困惑されるのは良いが、笑われるのは、こちらとしては真面目なだけに甚だ不愉快だ。そして笑った相手に限って「グルメエッセイ、それも主にスイーツ専門の文章を書いて生活しているんです」と言うと、途端に態度を変えてくる。飯の種――生計であれば笑われなくて、単なる趣味や嗜好だったら笑っても良いのか。どんなことであれ、他人の生き方を笑う権利は無いと思うのだけれど。  まぁ、相手の人間性を推し量るのに便利な文句だから、わざと私もそうやって職業を紹介している節があることは、認めざるを得ない。友人たちには「お前は本当にイイ性格をしている」と言われているが、それはともかく――今は私が探しているチーズケーキの話である。  子どもの頃から、いつしか忽然と頭の中に現れたビジョン。  飴色の艶々のカウンター席。シンプルな白のコーヒーカップと一緒に、供されるチーズケーキ。日本の喫茶店で主流のシフォン系のチーズケーキではなく、焼き目のついたベイクドチーズケーキ。下がタルト生地になっていて、チーズの濃厚な味が口の中に広がって堪らない。滑らかな口当たり。それほど甘い、という訳でもないのに、脳にがつんと響く美味しさが信じられないぐらいかった――という記憶がある。  ぜひ、もう一度あの味を味わいたい。  そう熱望しているのだが、どこであのチーズケーキを食べたのかとんと思い出せない。中学校に上がる頃には、そのケーキを食べたという記憶が明確にあって、親がケーキを買ってくる度に「あの味」を期待してチーズケーキを口に運んで激しく落胆したものだ。  そもそも、私はあのケーキをどこで食べたのだろう? それが全く思い出せない。なにせ親は転勤族で、幼稚園から小学校にかけて、私たち一家は日本各地を転々としていた。半年ほどしか住まなかった地域もあるし、同じ幼稚園に通っていた子たちの顔など朧で、幼少期になればなるほど土地の情報とエピソードが錯綜してしまって訳が分からない。  私の幼少期というと、携帯電話がようやく普及し始めた頃で、流行の連絡手段はPHSとポケベルという有様。写真を撮る、というのは何かの記念に改まって撮るもので、画像で気軽に自分の生活を保存するというやり方は、よっぽどの写真好きか変わり者に許された贅沢だった。  だから、幼少期の私の足跡を辿るのは至難の技だ。父と母も度重なる引っ越しで、思い入れのある土地と無い土地の落差が激しく、私の幻のチーズケーキ探しには何の役にも立たなかった。  そもそも、私はあのチーズケーキをどういう経緯で食べたのだろう?  中学校に上がる頃には、あの味が「思い出」として私の中に確固と存在していたのだから、必然的にあのチーズケーキを口にしたのはそれより前といことになる。  飴色のピカピカのカウンターは、全国展開のチェーン店でお目にかかれない。ということは、どこかの個人店か。喫茶店? 洋食屋? それにしても、そんな子どもにコーヒーが供されるというのも奇妙だ。せめて、ミルクを淹れるなり配慮がなされるだろう。それだというのに、私の頭の中にくっきりと浮かぶビジョンにあるのは、深い焦げ茶色のブラックコーヒーである。  ただただ黒いだけではなく、ドリップしたコーヒー特有の透明な焦げ茶。それがひたすら頭の中に焼き付いている。  本当にそんなもの食べたのか。記憶違いじゃないのか。ドラマか何かと混同しているんじゃないのか。両親や妹からは散々に言われたが、確かにビジョンだけならば思い違いをしているかも知れないが、「あの味」のインパクトまでを脳がねつ造しているとはとても思えなかった。  私が高校に上がる頃に、ちょうど転勤生活が終わりを告げ、東京に居を構えることになった。一人での活動範囲も大幅に広がったこともあり、せっせとバイトでお金を貯めると、私は目に付くケーキ屋や喫茶店のチーズケーキを食べ歩くようになった。  携帯電話を買い与えられたのはそんな時分である。  せっかくなので自分の備忘録を兼ねて無料のブログホームページを利用して、食べたチーズケーキに対して感想を発信するようになった。「あの味」との差違を際だたせるために、微に細を穿つ私の偏執的な描写が、一部のマニアックな層にウケたようである。大学生になった頃には、ネット上のケーキ界ではちょっとした有名人になっていた。それと同時に全国各地のチーズケーキに関する情報が、私の元に入ってくるようになった。  とは言え、大学生である。どんなに、バイトを頑張ったところで幻のチーズケーキ探しの旅に出るには限度がある。もしかしたら、本格的にあの味を探すのは定年まで勤め上げて、悠々自適な老後を送れるようになってからじゃなかろうか。そんな不安を抱いていた私のところに、思わぬメッセージが届いた。  それは私でも知っているぐらいの、それなりに大きな出版社からのもので、エッセイとして今までのブログの文章を出版しないかというものだった。かくして処女作『チーズケーキ探訪記』がK出版から刊行され、私は文筆業として生きていくことを決めた。現在は、雑誌の連載を数本抱えているし、色んな人と対談をさせて貰い、ありがたいことに税金と年金を払いながら生活費を捻出できるぐらいの儲けを出させて貰っている。何より、「取材」の名目でチーズケーキを大手を振って食べて歩けるようになった。とは言え、そんな生活を続けて――そろそろ十年。  私が探し求める「あの味」には、未だに出会えていない。  沈んだ気分で馴染みの喫茶店を訪れると、私の様子に店主が眉を上げた。この店は、大学時代からの友人が経営する店である。元々は、友人の祖父母が経営していた。友人は少し複雑な家庭の育ちで、育ての親が祖父母のようなものだった。大学を卒業後、しばらくサラリーマンをしていた友人は祖父が亡くなり、祖母が店を閉めるという決断をした時に、仕事を辞めて店を継ぐ決断をした。  私は仕事柄もあって、よくこの店に通っている。初々しかった店主姿もすっかり板に付いてきた。祖母が亡くなってからは、少しずつ店を改装して、一見の客でも入りやすいように工夫を凝らしているお陰で、いつもそこそこの客で賑わっている。 「どうかした?」 「どうかしたっていうか、なんか疲れたなぁって」 「なにが」 「幻を追い求めることがさ」  その言葉に、更に友人の眉が上がる。友人には幻のチーズケーキのことも「あの味」のことも話してある。  記憶の中にある「あの味」のチーズケーキについて知っているのは、限られた極々身近な人たちばかりだ。こちらとしても、あれを宣伝文句に使われるのは不愉快だし、話題づくりのための動機だろうと穿ってみられるのはもっと嫌だった。だから、私は単なる「チーズケーキ偏愛家」として業界で通っている。  なのだけれど。 「なに? ついにチーズケーキ食い飽きたの?」 「そうじゃなくてさぁ」  今日こそは、明日こそは。あの味に出会えるかも知れない、という期待の灯火が、胸の中でどんどん小さくなって行くのをひしひしと感じる。昔は、例え口に運んだチーズケーキが「あの味」で無くても、ガッカリとした失望感から自分を立て直すのにそれほど時間は掛からなかった。けれども、今は前の倍以上の時間がかかって失望から立ち上がらなければならない。今度こそは、という期待が大きい時ほど、期待外れだった時のダメージが大きい。その為に、最近では期待することを辞めている自分に気が付いて――思わず依頼された原稿を書きながら、ハッとしたのがつい先ほどのことである。  無意識下のダメージコントロール。  精神構造から考えれば当然の防御だが、それを行っている自分を意識した途端に、なんだかどっと精神的な衰えを感じてしまった。  ありがたいことに名前は知られているし、この十年間で日本各地を巡らせて貰い、それなりの伝手と人脈を手に入れた。各地のスイーツを集めたフェスティバルへの協力や、コラボレーションの声なんかも少しずつ掛かかっている。出版社とケーキ屋がタイアップして行う、動画投稿サイト企画の解説の仕事も入ってくる予定だ。仕事は安定しているし、充実している。  両親は勤め人にならなかった私に対してしばらく微妙な顔をしていたが、それなりの刊行物を出して雑誌の連載を抱えるようになると、応援の言葉をかけてくれるようになった。  税金を払い、年金を払い、光熱費の支払いをして、生活に必要なものを買い込み――仕事をする。そのサイクルの中で、あのキラキラとした高揚感と「あの味」に対する期待がすっかりとくすんでしまったような気がするのだ。  そんな自分に、自分の感性に――とてもガッカリとした。  ぽつぽつと拙く語る私の言葉を聞きながら、店主は首を傾げて言った。 「作家の苦悩?」 「そんな大したもんじゃないよ。どっちかって言うと、戦力外通告を受けた二軍野球選手みたいな」 「セカンドプラン考えるのには、まだまだ早いじゃん。仕事だってあるんだし?」 「そうだけどさぁ。――私ってこれで良いのかね? チーズケーキへの情熱と、チーズケーキのこと以外なんにも考えないでやって来たんだよ? 大人として良いのかね、これで」 「それ、今さら言う?」 「今さらだよねぇ」  そういう大事なところを考えないで情熱のまま突き進んできて、その情熱の衰えによって、遅すぎるモラトリアムに突入してしまったようだ。  なんとも言えない、憂鬱感と停滞感が漂っている。 「それなら今日はケーキセットやめる? ブレンドだけにしようか?」 「いや、いつも通り。チーズケーキで」  気遣いに対して言葉を返せば、店主が呆れたような顔をする。そして言う。 「――情熱、消えて無いじゃん」 「いや、これは脊髄反射だから」 「そこまで染み込んでるものを、どうこうしようって言うのは無理だと思うけどね。まぁ、ちょっとチーズケーキから離れて別の仕事に集中して見たら良いんじゃない? ちょっと飽きてるだけかもよ」 「飽きる」 「脳味噌って基本的に飽きっぽいらしいし。ちょっと冷静になれば?」 「――それも良いかもなぁ」  こんな助言が出来るようになっただなんて、本当に喫茶店の店主が板に付いてきている。感心しながらカウンターの向こう側で動き回る姿を、目で追いかける。  業務用の素っ気ない銀色の冷蔵庫を見て、トレーに乗っているケーキを見て、「あれっ」と思った。そして、それがそのまま声に出る。私の声に顔を上げた店主が「ああ」と呟いて言う。 「そう言えば、しばらく来てなかったんだっけ?」 「そうだけど。どうしたの、仕入れ先変えたの?」  ここは昔から、近くにあるケーキ屋から、決めた個数のケーキを卸して貰ってそれを客に出している。昔ながらの、ふわふわのシフォンチーズケーキ。それにショートケーキ。シュークリーム。モンブラン。定番の「いかにも」な形をしたケーキたちが、どういう訳かスタイリッシュに変身をしている。 「あそこの店、一ヶ月ぐらい前に孫が帰ってきて、祖父さんの作るケーキと一緒に孫のケーキも売るようになったんだよ。昔ながらの味が欲しい人もいるけど、見た目とか味とかも今風な方が商売としては良いじゃん? 良い感じに、世代交流してるラインナップになってるんだよ。で、昔ながらのケーキも仕入れてるけど半分は、その孫のケーキを仕入れるように内もしたワケ」 「あ、本当だ。ケーキの種類増えてる」  いつもは開かないメニュー表を開いて呟く。  苺タルト。ティラミス。チョコレートモンブラン。そして――ベイクドチーズケーキ。なるほど、祖父さんが苦手なものを補う形で孫がケーキの種類を増やしているのか。 「ベイクドチーズケーキで良いよな?」  確認しながら、既に皿の上にケーキを置いている。  いや、いいんだけどさぁ。一応、確認しろよ。  まだ先ほど相談――というか愚痴を話した時のやさぐれた気持ちを引きずっている。  いっそのこと、チーズケーキ断ちなんてやってみようか。そうしたら、この気だるい心持ちも少しはマシになるのかも知れない。  思っていると、手際よくコーヒーとケーキがカウンターに並べられる。  あれっ。  思わず私は硬直した。  飴色の艶々のカウンター席。シンプルな白のコーヒーカップと一緒に、供されるチーズケーキ。日本の喫茶店で主流のシフォン系のチーズケーキではなく、焼き目のついたベイクドチーズケーキ。    このビジョンを、私は嫌というほど知っている。  頭の中で何回も何回も、それこそすり切れそうになるほど再生して来たのだから。でも、なぜ? どういうことだ? なにが起こっている? 混乱しているのに、手だけは滑らかに動いていた。店主が何やら話している声が耳を素通りしていく。どこか、世界の全てが遠い出来事のようだ。  切り分けたケーキを口に運ぶ。  下がタルト生地になっていて、チーズの濃厚な味が口の中に広がって堪らない。滑らかな口当たり。それほど甘い、という訳でもないのに、脳にがつんと響く美味しさが信じられないぐらい――だった。  衝撃のあまり、しばらく言葉が出て来ない。一口、この店のオリジナルブレンドを口にしてから、上擦る声を抑えるようにして店主に訊ねる。 「そのケーキ屋の孫って、どこで修行してたの?」  店主はあっさりと言った。 「パリ」 「え」 「フランスのパリ。なんか製菓学校出てから語学留学ついでに、あっちの菓子店で働いてきたらしいよ。ちっちゃい店だったらしいけど、色々食べ歩きとかして修行したんだとさ。レシピとかもオリジナルだって。――なに? 口に合わない? かなり美味しいと思うんだけど。年輩の常連さんたちには、ちょっと濃すぎるって話だけど」 「いや、そうじゃなくて」  フランスのパリ。  オリジナルのレシピ。  一ヶ月前に帰ってきた孫。  どうやっても、私が過去に味わったチーズケーキの筈が無い。それなのに、脳味噌はやっと欠けていたピースが埋まったと言わんばかりの充足感と多幸感に満ちている。間違いない、このチーズケーキだ。私は「この味」を追い求めて、今まで全国を行脚してきて、偏執的な文章を綴ってきたのだ。  ――いやいやいやいや。それにしたって、おかしいだろう。なんでだ? どうして、今? それも、こいつのこの店? このチーズケーキが、こんなタイミングで出て来るんだ? こんな、こんな――私が諦めようとしたタイミングで。  もう一口、ケーキを運ぶ。  やはり期待通りの味がしたのに、私は呆然自失とする。  そんな様子にようやく疑問を抱いたらしい店主が怪訝に首を傾げて私を見る。 「どうした?」  訊ねる声に、私は答える言葉を持たなかった。 END
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