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Prolog
自分の人生を振り返ってみても、多くの人間に愛されてきたとは言えなかった。むしろ人並みかと問われれば、それもまた否定していただろう。誰かに信頼されることや期待されることを億劫としていた俺を愛する人は少なかった。
だからこそ、数少ない特別な存在を心の底から愛していたし、愛されていると思った。俺にとっての愛すべき相手はこの四十一年間において四人だった。
まず一人は母親。女手一つで俺を育ててくれた尊敬に値する素晴らしい女性だったが、三年前に病死した。
次に親友のバート。出会ったのは十七の夏だった。若いうちに楽しんでおくべきこと全てを教えてくれた。
そして妻のキャシー。母が亡くなった頃誰よりも俺のことを傍で支えてくれた。彼女以上の女はいないと改めて実感した時だった。
最後に息子のジョン。俺のかけがえない宝であり、何よりも愛おしく、守るべき存在。この子の笑顔が幸せだった。
だが、彼女らの愛は虚像であり、幻想に過ぎなかった。
俺はある日仕事で大きなミスを犯してしまった。何とかその失態を取り戻そうと奔走したが敢なく無駄に終わり、四十一歳にして職を失った。家は共働きであったおかげで当分は問題ないだろうと妻が言い、せっかくなのだから体と心を癒しに旅行に出るのはどうだろうかと提案してくれた。俺は彼女の言葉に甘え、貯金を切り崩すとリゾート地へと休息を求めて旅立った。
家族旅行とはまた違った完全なるプライベートの一時。たまにはこういったものも悪くないと俺は旅行を楽しみ、心機一転して新たに職探しを頑張ろうと決意し、二週間後に帰国した。
両手には妻と息子に用意した沢山の土産物を抱えて帰宅したが、俺はすぐに落ち込んだ。車庫に車がない。更には息子の自転車も置いていなかった。二人ともどこかに出かけているようだった。しかし、妻はいいとして息子はこんな夜にどこへ行ったというのだろうか?
「友達の夕食に招待されたのかもしれないな」俺はすぐに答えを見つけた。夜遅くなろうと自転車を車の後部座席に積んで帰ってくることが出来る。何らおかしなことではなかった。
扉の鍵を開けて玄関へと足を踏み入れた瞬間、大きな違和感を覚えた。妻と息子の靴が一式なくなっていたのだ。愛用しているものだけではない。靴箱に入り切らず玄関の端にまるでオブジェクトのごとく並べていたブランド物のブーツやヒールも全部消えている。
靴箱を開けてみると中は伽藍堂としており、俺の革靴が二つとボロボロになったシューズが一つ、もう随分と長い間履いていないサンダルが一つだけ残されていた。嫌な予感が脳を激しく揺さぶり、大慌てでリビングへと駆け込んだ。すると食卓の上に紙が一枚佇んでいた。
『私はバートを愛しています。ジョンは連れていくわ。さようなら』
まるで鈍器で頭部を殴られたような衝撃が走った。
何だこの手紙は?間違いなくこれはキャシーの筆跡だ。バートとは俺の親友のことなのか?それとも同じ名前の全く関係ない男なのか?様々な疑問が浮かんでは消え、混乱のあまり取り乱すこともなく静かに佇んでいることしか出来なかった。次第に思考がクリアになっていくと俺はすぐにキャシーへと電話をかけた。
電話は繋がらない。次にバートへと連絡したがこちらも繋がらない。考えるよりも先に体が動き出していた。荷物をほっぽり出すと我が家を飛び出し、バートの家へと向かった。しかし、辿り着いた親友の家はもぬけの殻となっていた。そして俺は悟った。
裏切られたのだ。親友のバートと妻のキャシーに。
いつから二人がそういった関係に至っていたのか知らないが、ずっと俺を騙して嘲笑っていたのだ。
ジョンは?俺の息子はどうなのだと考えた。
まだたった八つの子供が親を欺くなど出来るはずがないだろう。ただ母親の手に引かれるまま、ただ言われるがままに付いていったに違いない。ああ、なんて可哀想なジョン。俺は暗闇のなか嘆いた。ああ、なんて憐れな男であろうかスティーヴよ。俺は月明かりの下喘いだ。知らぬうちに涙が頬を濡らしていた。
ひたすらに叫ぶ。反響する絶叫。悲しみと怒りと絶望と憎悪をごちゃ混ぜにした瞳で俺は泣き続けた。
人を愛し、人に愛される為の努力を怠ってきた結果がこれだというのだろうか?神はあまりにも残酷だった。
俺の人生そのものが罪に等しかったというのなら、こんな苦しみを与えずに安らかな死を望んだ。
ただ、数少ない愛おしい存在と共に笑い合うことを悪行とするのならば、俺は誰かを愛することなどやめてしまおう。誰かを信頼することも期待することもやめてしまおう。最初から諦めていれば、傷つくことも絶望することもないのだから。己が求め、心の赴くままに。構わないだろう、孤独な男となったのだ。
夏の生ぬるい風が髪を撫でた。
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