ある日が最期

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ある日が最期

 空は青く、風は優しくなでるように通り過ぎていく。太陽のうっすらとした輝きを映す水面は、波を打って風に応えた。  初夏。太陽がまだ東から登り始めたばかりの時間。湖のほとりを可愛らしい杖を突いて歩く女性がいた。傍らのロマンスグレーが決まっている男性は、時折女性に目をやりながら歩幅を合わせていた。  ふと女性の足が止まる。女性の視線は湖の遥か彼方を見つめていた。男性も同じように見つめて、そしてそっと女性の方へ視線を映した。顔のしわとシミがともに過ごした時間を如実に表しており、男性は自分の手を見やり、自然と柔らかい笑みを浮かべた。  「ねえ、覚えてる?」  女性の視線は男性には返らなかった。男性もまた湖の遥か彼方を目を細めながら見つめた。  「覚えているとも」  忘れもしない、と男性は少し視線を落として笑う。女性はその姿を見て、ひまわりのような晴れ晴れとした笑顔になった。 「あの時の空も、こんな風でしたね」 「そうだな」 「あなたは、今より少し格好が良かったかしら」 女性はそう言うと、もう一歩男性のそばに寄り、また歩き始める。男性はもう一度笑うと、女性に寄り添った。少しだけ歩みを進めて、止まる。そしてあの頃の様子を少し語ってはまた進む。その繰り返し。傍から見ればほんの数歩程度の距離でしかない。スポーツ選手なら大股の一歩にしかならない距離かもしれない。しかし二人にとっては、笑みの絶えない数歩だった。 「……私は、感謝しているんですよ」 女性は杖を少しふらつかせながらも、一歩また一歩と歩み続ける。 「この歳になっても、こうやってあなたと一緒に歩くことができるから」 男性は何にも言わない。時折女性に少し手を貸し、足を止めながら、女性の言葉に耳を傾けていた。 「……また、来てくださいますか。一緒に」 自然と風は止み、水面も大人しくなった。雲も止まったように見える。 男性は何も言わない。ただ湖を見つめ、女性を見つめ、目を潤ませていた。 「もちろんだとも」 笑った瞬間、光った一筋の粒が地面に落ちるまで、湖も風も雲も騒ぎ立てることなく見守った。  空は白青く、風に当たれば思わず身も心も引き締まる。太陽の光はうっすらと幽かに照らすばかりで、湖は凍てつく寒さに負けてしまった。  「君は覚えているかな」  少し前。二人で歩いた道を、男性はまた歩き始める。あの時は輝いて見えたロマンスグレーも今や濃い鼠色だ。 「君は忘れないだろうが、私だって昨日のことのように覚えているよ」 男性は、何時ぞや女性が止まった場所と同じ場所で、湖の遥か彼方を見つめる。歩幅を合わせて歩いた道は、今は冷たいアスファルトだ。それでも男性はまた一歩進み、女性の止まった位置で止まる。 「感謝しているのは、私の方だ」 男性の言葉は、ひりついた風に奪われ、周りに聞こえることはなかった。男性の目元が鈍く光ったが、湖も風も雲も、変わらず男性を見守っていた。
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