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過去の夢 2
気がつくと、廃墟の中にいた。
ちかちかとついたり消えたりを繰り返す、蛍光灯。壁や天井に残る、生々しい血の跡。見ていると、恐怖がわき上がってくる。
怖い。そう思った瞬間、首元で金属の立てる微かな音がした。青い宝石の埋め込まれた楔が、夢の中でもちゃんとかかっていた。
がたっ!!
突然、窓の外で、物音がした。はっとして目を向けると、窓の外からぎょろりとした目玉が瑞葉を見ていた。視線が合う。割れたガラスの向こうから、大きな蛙の手のようなものが入ってきた。三本の指の間には、水かきがついている。
「……っ!!」
声も出なかった。慌てて一つしかない部屋の扉を開け、廊下に飛び出す。窓から、不気味な化け物が、中に入ってきた。人の胴体から、四本の蛙の足が生えている。頭からは、足元まで届くぼさぼさの脂ぎった真っ黒な髪。あれが、久遠の言っていた夢魔だ。反射的に悟った。
夢魔は、四つん這いのまま、瑞葉の後を追ってくる。
必死で走る瑞葉の足元で、ガラスが砕ける。どこまでも続く長い廊下を、瑞葉は必死で走った。しかし、化け物のほうが足が速い。
三本指の手が、瑞葉の髪を掴もうとした。そのときだった。
瑞葉の首にかかった楔が、青い光を放った。同時に瑞葉と化け物の間に、人影が現れた。真っ黒な髪が視界に入る。恒哉だ。瞳が、楔にはめ込まれた宝石のように、青く光っている。
恒哉の手の中には、銀色の銃が握られていた。大口径のリボルバー。その銃が、轟音を立てて夢魔に向かって弾丸を吐き出した。夢魔は素早い動きで至近距離から撃たれた銃弾を避ける。そのまま、壁や天井を走って、窓の外へ消えてしまった。
途端に恒哉が頭を抱える。
「あぁー。逃げられた。瑞葉、大丈夫?」
瑞葉はその場にへたり込んで、平気です、と呟いた。息が切れて、心臓がばくばくと音を立てている。手足はびっしりと鳥肌が立ち、まだ恐怖で震えていた。とても夢の中とは思えない感覚だ。恒哉が大きな手で頭を撫でてくる。恥ずかしくて顔中が真っ赤になったが、振り払う気力がなかった。
「怖かったな。遅くなって悪かった。もう大丈夫だ」
なぜか落ち着かない心臓を抑えて、深呼吸を繰り返す。それから、恒哉の手元に視線を移す。
「あれ、銃…?」
いつの間にか、恒哉の手から銃が消えていた。
「ん?あぁ。必要ないときは消してるんだ。物騒だからさ」
「…消す?」
ほれ。恒哉は、瑞葉の前に空の手を差し出した。その掌に、さっきの銃が現れた。すごい。瑞葉が歓声を上げる。
「夢の中ってのは、何でもアリなんだよな。素質さえあれば、夢を操ることなんか、簡単なんだ」
「素質…」
瑞葉の言葉に、恒哉は頷いた。
「夢の中で戦うのに、腕力はいらないんだ。夢なんて、所詮は幻だからな。必要なのは、幻を作りだす力なんだ。精神力、みたいなもんかな」
「精神力…?」
「要するに、夢の中に自分の望み通りの幻を作り出せばいいんだよ。例えば、強力な飛び道具があれば、戦いも楽になるだろ?」
恒哉は手に持った銃を、廊下の奥に向け、引き金を引いた。
ずがんっ!!
再び轟音が響き、弾丸が飛び出す。
「それだけじゃない。イメージするだけで、空を飛ぶことも、姿を消すこともできる」
そう言った途端、恒哉の体がふわりと宙に浮いた。瑞葉は目を輝かせる。
「で、こういう人並みはずれた行動をするには、精神力が必要なんだ」
すたっ。
軽い音を立て、恒哉が床に着地する。
「例えばさ、現実世界で地面を走るには、相応の体力が必要だろ?」
瑞葉が頷く。
「同じように、夢の中で何かを作り出したり、イメージを具現化するには、精神力を消費しないといけないんだ」
だから貘の強さは、精神力の強さに置き換えられる。精神が強い奴ほど、夢の中では強い力を持つんだ。恒哉は得意そうに笑った。
まぁ、素質のある人間ってのは、ほんとに少ないんだけどな。恒哉が呟く。
「何でですか?」
「大抵の人間は、夢を信じないからな」
「信じないって…?」
瑞葉が聞き返す。
「夢の中にいるのに、自分は空なんか飛べない、何かを作りだすなんてできない。そう思い込んで、自分の可能性を殺しちまう奴が多いんだよ」
特に、大人にはな。恒哉は、どこか淋しそうな顔をした。
「夢を信じないやつに、夢を操ることはできない。そういうもんだよ」
自分は、夢を信じているのだろうか。瑞葉は考え込む。
「ま、おかげで貘なんて商売が成り立つんだけどな」
「……ふうん」
「今日はもう、化け物は出てこないと思うぜ。安心して休みな」
大きな手がくしゃくしゃと頭をなでる。恒哉が言った瞬間、瑞葉は目を覚ました。
廃墟の一室。夢の中には、まだ恒哉の姿は無かった。夢魔も姿を見せない。瑞葉は、扉の側にしゃがみこむと、ちかちかと不安定な光を放つ蛍光灯を見つめた。
昨日の恒哉の言葉が蘇る。夢を信じることで、夢を操る…。
ここは、自分の夢の中だ。だとしたら、思い通りに操れて当然な気がした。
蛍光灯の点滅が、止まった。まるで新品のように、明るく光り出す。
「あ…」
瑞葉は、床に散乱したガラスの破片を見つめた。まるでコンクリートの中に吸い込まれるように、砕けたガラスが消えた。
「……できた」
夢を操ることが。瑞葉は、ガラスの消えた床の上をじっと凝視した。次の瞬間、そこに薄茶色のぬいぐるみが現れた。短い足と、ぼさぼさの茶色い尻尾を持つ、犬のぬいぐるみだ。ぬいぐるみが小さな口を開け、瑞葉の名を呼んだ。瑞葉が嬉しそうに、ぬいぐるみを抱き上げた。
「よっ、瑞葉。そのぬいぐるみ、何だ?」
後ろから声をかけられた。振り向くと、恒哉が立っていた。ぬいぐるみが瑞葉の腕の中から飛び出し、恒哉の足元に駆け寄った。
「犬か。かわいいな。こいつ、名前は?」
「名前は、まだないよ」
瑞葉が答えると、恒哉は足元の犬の頭を撫でた。
「そっか。なら、俺がつけてやる。きなこでどうだ?」
きなこみたいな色してるからな。恒哉が笑う。
「きなこ、きなこ」
ぬいぐるみが口を開いた。
「なんだ、おまえ喋れんのか。どっから迷い込んできたんだ?夢魔じゃなさそうだけど」
恒哉が瑞葉に顔を向ける。瑞葉は少し照れくさそうに笑った。
「あのね、私が作り出したの」
「瑞葉が?ほんとにか」
恒哉が驚いた表情を浮かべる。
「おまえ、貘の素質があるんだな」
そう言うと、恒哉は瑞葉の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。瑞葉が嬉しそうに聞く。
「私も、貘になれるかな」
恒哉の表情が歪んだ。瑞葉は不思議そうに首をかしげる。
「貘には、ならないほうがいい」
瑞葉が、どうして、と問う。
「貘は、人間じゃないんだ」
瑞葉が驚いた表情で恒哉を見た。恒哉は、瑞葉から目を逸らすこともなく言った。
「貘ってのはさ、夢魔に感染された人間のことなんだ」
「感染…?」
そう。恒哉は複雑な表情をした。
「夢魔を倒した人間は、嫌でも他人の夢に潜り込むことのできる能力を手にしてしまう」
「それって、すごいことなんじゃないの?」
瑞葉の問いに、恒哉は首を振った。
「逆だよ。夢魔の能力を手にした奴は、人間ではいられなくなるんだ。夢魔を多く倒せば倒すほど、人間からはかけ離れていく」
俺も、久遠も、もう人間ではないんだ。
恒哉は真面目な顔で言った。
「じゃあ、どうして貘なんてやっているの?どうして、人でいられなくなることがわかっているのに、夢魔を倒し続けるの?」
瑞葉が不思議そうに恒哉に問いかけた。恒哉は、困った顔をして宙を睨んでいたが、やがてへらっと笑った。
「わかんね」
「……は?」
瑞葉が面食らった顔をした。恒哉はへらへらと笑いながら、言う。
「そんな理由なんか、考えたこともなかったしな」
恒哉がふざけた調子で肩をすくめる。
「ま、どうせもう普通の人間には戻れないしな。開き直ってんだよ、俺も久遠も」
どうせ戻れないなら、誰かの変わりに夢魔を倒せばいいだろ。そうすれば、関係ない人が夢魔に感染しなくて済むんだしな。
恒哉ははっきりと言った。とても、優しい顔をしていた。
「おまえも、貘になろうなんて考えるな。夢魔は、俺が倒すから」
貘なんて、俺と久遠くらいで充分だ。恒哉は静かに笑った。
「感染を、直す方法はないの?」
「今、久遠が、夢魔の感染を消す薬を開発してるんだ。だけど、薬が効くのは感染して間もない人間だけだ。俺や久遠みたいに、何体も夢魔を倒した人間は、もう元には戻れない」
辛くはないの?
その質問は、聞くことはできなかった。瑞葉が口を開こうとした瞬間、目覚まし時計のアラームが、瑞葉の意識を夢から引き剥がした。
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