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ゆがけ
「今日はちゃんと帰ってくる。じっちゃんとこで弽を見てくるだけだから」
弽というのは、弓を引く手に使う鹿革でできた手袋状のものだ。安いものなら数千円だが、高いものはきりがない。それをそろそろ買い替えたかった。
じっちゃんと呼んでいるが、血のつながりはない。菅野弓道具店の店主だ。
弓道教室の多くは中学生からの受け入れがほとんどで、せいぜいが小学校の高学年からだ。理由は、骨の形成途上で強い力が加わると、歪みなどを招く恐れがあるからとされている。
でも春陽は小学校に入った頃からお世話になっている。じっちゃんの店の裏には、弓も的までの距離も短い四半的弓場があるからだ。子供たちには格好の遊び場だった。正座をして弓を引いた。
ふと思う。春陽は祖父を知らない。どんな人で、どんな風貌だったのだろう。存在すら忘れていたことに春陽の胸はチクリと痛んだ。じっちゃんは祖父を知っているだろうか。
夏はインターハイのあと弓道部の合宿があるのだけど、久しぶりに菅野先生に教えを乞いたい、と願い出たら顧問の先生も快く了承してくれた。弓道の世界でじっちゃんの名を知らない人はいない。
「来週はお父さんが夏休み取るから家にいなさい。あんまり会えないんだから家族の時間も大事にしてよ」
「はいはい、今日は帰ってきます」
カットソーを捲ってへそのゴマをつついた春陽は、右手を振った。乙女の腹はぺちんといい音をさせた。
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