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弓道具店の匂い
弓道具店は独特のにおいがする。革の匂いはもちろんだけど、ナフタリンや防虫剤の匂いがする。羽根や箆と呼ばれる竹矢の棒の虫食いを防ぐために置いているからだ。
「どうだい青嵐高校の弓道部は」
「うん、なかなかだよ。まだ一番になれないから」
「一番は誰だ」
「三年のキャプテン。こないだのインターハイの覇者。それが終わったから帰省したんだ」
「はる坊は出なかったのか?」
「予選は勝ち抜いたんだけど、足挫いちゃって」
「相変わらずアホだな。しかしはる坊、強い人が身近にいるのはいいことだ。勝って当たり前の環境に置かれたとき、人は成長を止めるからな。道は険しくて辛い方が上達するし達成感も強い」
「来年のインターハイを制するのはあたしだよ」
「よし」
菅野のじっちゃんは、中央道場と呼ばれる明治神宮の全日本弓道選手権大会で優勝した人だ。それも未曾有の三連覇。四回目は足を挫いて本戦には出場できなかった。アホ呼ばわりをした当人はそれを忘れているようだが。
じっちゃんの弓は一尺二寸(36cm)の的を射る。まるでレーザービームみたいに。
中心が黒い「星的」の真ん中は図星と呼び、白い「霞的」の中心は正鵠と呼ぶ。ビデオで見た若いころのじっちゃんが、春陽が最も尊敬する弓道家だ。
そんなじっちゃんは、老眼鏡越しに弓の握り皮を替えていた。
「今日は弽を見に来たの。それとさ、ご指導を願いたいと思って」
「お安い御用だ。いつでも構わん。それと、ゆがけならとっておきのがある」
じっちゃんは、どっこらしょと奥へ引っ込んだ。
「これ、もってけ。燻革の弓がけだ」
燻革というのは、鞣した鹿革でつくられた高級な弓がけだ。やばい、ン万クラスだ。
「え、もらっていいの?」
「誰がただでやるといった」
「あぁん、いじわる」
「はる坊がインターハイで優勝したとき返しにこい。その時は最高の弓道具一式と交換してやる。わしが生きているうちに来いよ。あ……もうダメだ」顎を上げたじっちゃんが胸を押さえて苦しがる。
「じっちゃんが悪いのは痔じゃなかった?」
「そうじゃった」
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