第一章 それは昨日、ネイルバトルから始まった

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 重い足取りで帰宅する。  暗い気持ちでリビングのドアを開ける。 「ただいまぁ」 「あー、お姉ちゃんお帰りー」  ソファーでうつ伏せになって、妹の紀子(のりこ)が頬杖をつきながらテレビを見ていた。「お帰り」なんて言いながら、こっちを振り向きもしない。  ミニスカートからのびる白い足。両膝を曲げて、ゆらゆらとだらしなく揺らしている。 「お帰りじゃないよ。起きてテレビ見たら? パンツ見えちゃうじゃない」 「見えないし。それに別に見えても平気だし」  なにが平気なのやら。  それでも気になったのか、紀子はスカートのスソを引っ張った。  デニムのミニスカートに白と黒のボーダーシャツ。肩より長いゆるふわな髪。そんな、オシャレ系女子。  紀子はいつもこんな格好で学校へ行っている。中学にあがるまでスカートなんて滅多にはかなかった私とはえらい違いだ。  私はカバンを床に置いて、紀子の向かいのソファーに腰をおろした。  テレビのコント番組を食い入るように見ながら時々アハハと笑っている紀子の指先が、リビングの明かりでキラリと光る。 「え、ちょっと紀子、その指!?」 「んー、指ってー?」 「小学生のクセに、そんなのしてるの?」 「そんなの?」  やっと私を振り返る。首をかしげながら自分の指先と私の顔を交互に見て、目をパチクリさせる。 「意味、わかんないんだけど」とでも言いたそうに。 「えっと……ネイルの、こと?」 「まさか学校にもつけていってるんじゃないでしょうね?」  人差し指につけたうす紅色のネイルチップをなでながら、紀子は首をすぼめた。 「べつに、いつでも取りはずせるんだからいいでしょ? 今どき、普通じゃん」 「普通って。それって、もしかしてペットネイル?」 「ピンポーン!」  人差し指を立てて、クルッと宙に円を描く。すると、紀子の顔の前に小指の先ほどの犬が現れた。  うすい茶色の毛並みをしたコロコロの子犬が、空中をちょこちょこと駆け回る。  知らなかった。今時は小学生でさえペットネイルをつけてるんだ。 「いつの間に……」 「おっくれてる~。こんなに人気なのに。持ってないお姉ちゃんの方が不思議だよ。貴重だよ。特別天然記念物(オオサンショウウオ)だよ」  誰がオオサンショウウオよ。  持ってたんだよ。私だって。一日で健に取られちゃったけど。  駅前商店街にあるガシャマシーンで手に入るカプセルトイ――ペットネイル。  犬は喜び庭駆けまわる時代は、もう終わった。  なにしろ小さな小さなミニチュアの子犬が、紀子の頭の周りを走り回っているんだから。  紀子はパッと両手を広げて、クリッと目を上に向ける。それを合図に、紀子のサラサラの髪の上でお座りして、子犬はクアッとあくびをした。  小さいだけで、まるで本物の犬だ。犬種はなんだろう? 柴犬かな? 「お姉ちゃんも買ってくれば? 売り切れてるかもしれないけど」  知ってる。おとといもその前も、さらにその前も、何度も駅へ行ったんだ。  クラスメイトに見られたら恥ずかしいから、帽子をかぶってマスクまでして。もし見つかったら、「ウチはペットが飼えないから、これならペットを飼えるでしょ?」なんて言い訳まで用意して。  そんな一世一代の勇気を振りしぼったのに、ガシャマシーンは連日売り切れだった。どれだけガッカリしたか。  それでついに昨日、念願のネイルが手に入った。  それはもう、天にものぼるような気持ちだった。それなのに……  紀子が怯えたような顔で私を見る。 「え、なにその恨めしそうな目? そんなにネイル、ほしいの?」 「いらない」 「怒んないでよ。バカにしたのは悪かったって。一枚くらいならネイルチップあげるから」 「いらないったら、いらない!」  本当はほしいクセに、負けず嫌いの意地っ張り。自分で自分がイヤになる。まるで子供だ。  ダイニングキッチンの奥で夕飯の用意をしていたお母さんは、あきれたように小さなため息をついていた。  私は自分が恥ずかしくなって、学校のカバンを肩にかけてリビングを飛び出す。その瞬間、ドンッと柔らかい壁に顔からぶつかった。  鼻がつぶれた。そんなに高くはないけど。  鼻の頭を両手で押さえて、フッと顔を上げる。 「どうしたんだ、聖子? そんなに目をつり上げて。かわいい顔がだいなしだぞ?」 「お、兄ちゃん」  私の両肩に優しく手を置いて、ニコッと笑うお兄ちゃん。  こう言っちゃなんだけど、お兄ちゃんはカッコいい。欠点なんか見当たらない。すべてにおいて完璧だ。  頭もいいし運動神経抜群。影西中の御守政明(みもりまさあき)と言えば、誰もが知ってる生徒会長だったりする。  おまけに、なんとこんな私のことをかわいいと言ってくれる唯一の男の人。あ、お父さんもかわいいって言ってくれるけど、最近仕事が忙しくて家に帰ってこないから。 「なに、大きな声出してたんだ? 玄関の外まで聞こえたぞ?」 「あ、や、別になんでも……」 「お姉ちゃん、ペットネイルがほしいんだってー」  なんでそういうこと簡単に言っちゃうかな?  ペットネイルがほしいかどうかよりも、紀子にはもう少し空気を読んでほしい。  お兄ちゃんは生徒会長なんだから、学校で流行ってるペットネイルのことなんて、よく思っていないに決まってる。 「聖子が――か?」 「え、あ、まあ、うん……私だって、オシャレしたいし」  お兄ちゃんから顔を背ける。  怒られたりはしないと思うけど、反対されるかもしれない。オシャレなんてまだ早い、とか。 「そうかっ! いい傾向じゃないか。聖子も中学生だしな。かわいい格好をしたいって言うのは自然なことだと思うぞ」  嬉しそうに私の肩をバンバンとたたく。  怒られなかった。ちょっと拍子抜けした。けど、これで胸を張ってペットネイルを買いに行ける。  私にアマいお兄ちゃんで本当によかった。 「お兄ちゃん、わたしにはまだ早いって言ってたクセに、お姉ちゃんばっか……」  喜んでいる私を見て、紀子は不満そうに口をとがらせていた。
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