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【7】冬(6)
背の低い男の子だった。
胸に大きくマイケルジャクソンの顔がプリントされた白のトレーナーに、灰色の厚手のジャンパーを着ている。頭には黄色い帽子を被り、黒のランドセルを背負っていた。寒いだろうに、下はデニム生地の半ズボンを履いている。小学生だとしても、まだ1年生くらいじゃないだろうか。
誰だろう ――
私が素朴な疑問を浮かべたその時、目深に被っていたベースボールキャップのツバがくいと上がり、大きな目が私を見た。
目の前に男性の顔があった。
とてもよく知った顔だ。
微笑みを浮かべたその男性の目が私を見ている。
優しい顔だ。
ほっとする。
しかし次の瞬間、彼の瞳に大粒の涙が浮かぶ。
そして歯の根が合わぬ様子で、ガクガクと顎が震えている。
私は彼の涙を見て恐怖に苛まれる。
自分の両手が視界に映る。
何故だ。
私の両手が真っ赤な血に染まっている。
何故、こんな……?
私は自分の手に付いた血に怯え、絶叫し、彼の名をさけん……
「ぐううッ!」
獣が唸るような声を上げてX氏が舞い上がった。
途端にバチリと私は我に返る。
氏は正座の姿勢からバネ仕掛けのように飛び上がり、今まさに少年目掛けて襲いかかろうとしていた。
「いけません!」
私はほとんど無意識にX氏の右腕にしがみついた。X氏も私の声に我に返ったと見え、激しく肩で息をしながら乱れた前髪を左手で直した。右腕をブンと振って私の身体を払いのけると、氷のような目で少年を睨み付けたままその場に座り直した。
少年はひと言も発さず、私とX氏を片方ずつの目でじっと見つめていた。
「Xさんが反応するのも無理はありません」
背中越しに聞く、そんな遠君さんの声まで冷たく聞こえた。
「……彼は」
振り返らずに私が問うと、遠君さんはふうと溜息をついて一呼吸置き、
「先程わたくしが申し上げた通りです」
と答えた。「わたくしども始門の一族が存在する、その理由。数十年に一度この世に現れるという、終門一族の……子 ――」
「この子が?」
少年の目が値踏みするかのように私を見ている。
夕方前のこの時間に招かれた理由はこれだったのだ。話をするより会わせた方が早い、と遠君さんが案じた一計である。実際、妙案だった。
私はさておきX氏に関して言えば、彼は遠君さんの話す内容に対して程よく距離を置いていたように思う。X氏がこの世ならざる者や超常的な力についてどのように認識しているのか分からないが、少なくとも全てを「奇術」と呼んで切って捨てる価値観の持ち主ではないようだった。遠君さんの話の内容が一般常識の範囲を越えそうになると、私の様子を伺い反応を見ていた所からも、彼のクレバーさが感じ取れた。だから、話の流れが「穢れ」や「呪い」というオカルトの分野に及んでも尚、X氏はいたって冷静なままでいられた。だがその彼が突如、本能に突き動かされたかのごとく少年に襲い掛かったのだ。百聞は一見にしかず、少年が只者ではないことだけは、この一瞬で完璧に理解出来た。
「今のはまさか……」
呟く私の狼狽振りを見て、遠君さんは側に従えていた篝さんに、少年ともども下がるようにと命じた。
「あの者を、封じてほしいのです」
と、遠君さんは言った。
封じてほしい。
あの少年が本当に、数十年に一度出現するという穢れにまみれた子なのだと仮定して、この場合封じるとは何を意味するのか ――
「お恥ずかしい話ですが」
と前置いて、遠君さんはやや力ない声で私たちに向かって打ち明けた。「本来、終門を押さえ込む役割を担ってきたわたくしどもの家には今現在、あの子を封じることの出来る力をもった者がいないのです」
遠君さんが代々伝え聞いた話の通りであれば、終門から穢れの子が現れる時、呼応して始門からも高い霊性の霊能者が出現するはずだったという。私は予てよりこの伝承の後半部分だけを聞いて知っていたわけだが、現在、始門にはそのような霊能者はいないそうだ。
「私たちが招かれたのは、それが理由ですか」
改めて聞くまでもないと思ったが、確認のためにそう聞いた。遠君さんは頷いて、X氏に視線を滑らせた。
「これが、おふたりに依頼したい仕事の内容です。お引き受け願えますか?」
待ってください、と私が異議を唱えかけた刹那、
「殺すのか」
X氏が聞いた。
だが遠君さんは答えない。
「大体の事情は分かった」
とX氏は言う。「学校帰りの少年がそのままこの家に現れるということは、この家と少年の家はそう遠くない位置関係にあるということだ。そして、予めここへ来るよう指示出来たということは、お互いの家同士もまたそれなりの関係にあるということだ。まるでお前は自分が神であの少年が悪魔であるかのように俺たちに言って聞かせるが、それは向こうの家の人間たちも承知した上でのことなのか?」
淀みなく話の核心を突いて行くX氏の声に、冷え冷えとした凍てつきが混じり込んでいるのがはっきりと分かった。氏の言葉は確実に遠君さんへと向かっているはずだが、側にいる私の心までも静かに凍り付いていくのが感じられた。
「殺せ、と言っているんだよな? お前は俺に金を払い、あの子どもを殺せと言っている。そういう認識でいいか?」
X氏の掠れ声はまるで、遠君さんの喉元に刃物を突き付けているように聞こえた。答えを間違えればそこで全てが終わる。そんな緊迫した空気が、だだっ広いこの部屋に張りつめていた。
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