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あなたに会うために
「本当だって、さっき告白してOKもらったの!そう、三年越しの片思い、叶うこともあるんだなって!」
あの時、私、沙織は最高に幸せだった。
二つ年上の先輩に中学の時に一目惚れして、必死に勉強して同じ高校に入った。なんとか近づきたくて同じ部活に入り、何度も告白してフラれた。他の女の子と付き合うことになったときは、一度は諦めかけたけど、別れたと聞いて勇気を出してまた告白したのだ。
そしたら、ついにいいよと言ってもらえた。
もう死んでもいいと思ったほど、幸せな瞬間だった。
そして、その日の帰り道、早速ずっと相談していた友人に電話で報告をした。
友人はおめでとうと言って喜んでくれた。
ねばってねばってやっと掴んだ幸せだった。
これから初カレとの初めてづくしのイベントが待ち受けている。
明日はもう一緒に帰ろうと約束したし、もしかしたら手も繋げるかもしれない。
それを考えただけで、嬉しくて踊りだしそうだった。
なのに…。
なのに、なのに、なのにーーー!!
友人と電話をしながら、交差点にさしかかり、ふと視線を上げると、赤信号の横断歩道を走っていく小さい子供の姿が見えた。母親らしき人は下の子が泣いたのかベビーカーの中に顔を向けていてその子に気づいていなかった。
あぶない!と叫びながら、体が勝手に飛び出して行った。
その子を掴まえてホッとする間もなく、急ブレーキの音がした。その子をなんとか押し出したところまでは覚えている。
そのあとは全て真っ暗になって何が起こったのかも分からなかった。
そう、私は幸せの絶頂だったあの日、確かに死んでもいいと思ったけど、本当に死んでしまったのだ。
なんてひどい。
運命のバカヤロウ。
今でも泣き叫んで怒ってやりたいほど……。
今でも、というのは続きがあって、どうやらあまりに可哀想かなと思った運命の神様かなんかが気を利かせてくれたのかしらないけど、私は生まれ変わったのだ。
今まで生きてきた世界とは全く違う世界に……。
しかもなぜか人生の途中でそれに気がつくというおまけ付き。
本当に神様………、マジでいい加減にしてくれ!!
もっとイージーモードあったでしょ!せめて幼少期からやり直させてーー!
「シャーロット様……」
窓の外を見ながら一人悶々と物思いに耽っていたら、どうやら名前を呼ばれていたようで、私は慌てて振り返った。
「あっ…アンジーごめんね。何かしら?」
ちまっとして可愛らしいアンジーは、シャーロットのメイドだ。お仕着せのメイド服をぴっちりと乱れなく着こなしている。
「お怒りの気持ちはごもっともなのですが、お部屋の片付けと荷物の運び出しが終わりましたので……」
どうやら前世を憂いてブツブツ言っていたのが、怒っていると思われてるらしい。まぁある意味そうなのだが……。
「あぁ、そうなの?それじゃ出ます」
そう、今日は忙しいのだ。何しろ住んでいた屋敷を追い出されることになり、荷物をまとめて出ていく必要があるからだ。
この西洋風のよく分からない世界で私は、シャーロットという女性に生まれ変わっていた。
それに気がついたのは一月前、自宅でスッ転んで頭を打ったことで、記憶をパカッと思い出したのだ。
シャーロットは長い黒髪に琥珀色の瞳をした女性で、私から見るとうわっ外国人!というのが第一印象で綺麗ではあると思うが、目元が暗くて幸薄そうな女の人に見えた。
ちなみに今までのシャーロットとしての人生はよく分からない。とりあえずこの人何してたんだよと探り探りの日々を過ごしてきた。
こんなよく分からない状況なのに、人生の転機みたいなのがいきなり来ちゃって、もうパニックだった。
色々と整理すると、まずこのシャーロットという女性は貴族の生まれらしく、ドレスとか着ちゃってお金持ちそうな家に住んでいた。
十八歳で結婚したらしく、現在二十八歳すでに結婚十年目にあたる旦那様がいた。
もうその時点で理解できなくて震えている状態なのに、なんとこの旦那様、私との初対面で、いきなり離婚してくれと言い出してきた。
いや、向こうからしたら十年目の古女房かもしれないが、こっちは完全な初対面!
はい?なんじゃそりゃ!って感じで愕然とするしかなかった。
十歳年上の口髭がちょんと上向いているダンディーな旦那様だったけど、シャーロットのことをチラリとも見ることなく、そういうことだからと勝手に締め括ってしまった。
まぁそういうことならこちらも思い入れの欠片もないから仕方ないと思ったのだが、一応二人の関係も探りを入れてみた。
どうやら結婚当初から二人は仮面夫婦であったらしい。伯爵家の嫡男であった旦那様は貴族の女性としか結婚を許されなかったらしく、シャーロットと会うこともなく結婚を決めた。
シャーロットの父親は旦那様の父親に世話になっていたそうで、貴族の女性らしくシャーロットに拒否権はなかったと思われる。
この旦那様というのが、実は結婚前から市井の女性と恋仲であったらしく、結婚後も変わらずその関係を続けた。
それが二人に子供がいなかった原因であると思うのだが、ちなみに愛人の女性とはちゃっかり子供がいるそう。
なぜ今になってというのは、先々月、旦那様の父親である伯爵が亡くなったのだ。旦那様が家督を継いで、もろもろの手続きが終わり、これでうるさく言う人もいなくなったということで、シャーロットはお払い箱になったというわけだ。
アホみたいにあれこれ聞いて回るシャーロットを見て、使用人達は離縁を言い渡されてついに頭があれになってしまったと同情的な目で見てきた。
そんなシャーロットは、非常に大人しく感情を表さない人だったらしい。
勝手に結婚させられ、最初からずっとだった夫の浮気にも黙って耐えていたそうだ。唯一散財する趣味はあったようで、ドレスやら宝石やらはたくさん買い込んであった。
聞いているだけで腹が立つような話ばかりで、ちょっとシャーロットの代わりに旦那の野郎に平手打ちでも食らわせて別れてやろうかと目論んでいたのだが、野郎は都合よく顔を合わせないように行動してくるので、今までろくに接触することもできなかった。
「荷物は先に出ましたので、シャーロット様も馬車に……」
「一発くらい殴りたかったわ」
「まぁ…シャーロット様……。私もその権利はあると思いますけど、美しい手が傷ついたら大変ですわ」
アンジーはにこりと微笑んだ。可愛らしい顔をしてけっこう言いたいことを言ってくれるので、私にとって心強い存在になっている。
ちなみにアンジーは離婚が決まって実家から手伝いで一時的に派遣されてきたので彼女も一緒に帰るのだ。
外に出てシャーロットが十年暮らした屋敷を眺めてみた。まぁ私にとっては一ヶ月なので、こんなところかというくらいの風景だ。
白壁のそれなりに大きな洋館で使用人もそれなりにいた。シャーロットの部屋は二階の角部屋で玄関の景色がよく見えた。
十年間、何を思ってシャーロットは窓から外を眺めていたのだろう。
角部屋の窓にぼんやりとシャーロットの幻影が浮かんだような気がしたが、それは耳に入ってきたガタガタといううるさい音で現実に引き戻された。
「とりあえず、いったんここでいいですかね?」
荷馬車にたくさんの荷物を積んだ、どうやら業者らしき男達で、シャーロットに荷物の置場所を聞いてきたのだ。
「あー、どうぞどうぞ」
適当に答えると、男達はてきぱきと荷物を下ろしていく。その中に、子供が乗る揺り木馬が見えてなんとも言えない気持ちになった。
「最後くらい気を使えない男なのかしら。別れて正解ね」
「私もそう思います。さぁ行きましょう」
アンジーに促されて私は馬車に乗り込んだ。
こうして、シャーロットは十年暮らした屋敷を追い出されることになった。
私としては元旦那様はただのオッサンでなんの気持ちもないが、シャーロットはきっと深く傷つくことになっただろう。
自分でもあるからややこしいけど、シャーロットを幸せにしてあげたいと、流れる景色を見ながら私はそう考えていた。
□□
この世界で離婚というのがどういう意味を持っているのか、私は使用人達に聞き込んですでに調査していた。
以前の世界ではバツイチなんて言われて、多少色がついた目で見られるけど、一度くらいなら多くの人が経験しているし、あれこれ言われることもなかった。
と、思う。あくまで女子高生からの目線なので、大人の世界で実際のところどうだったかは不明である。
この世界はまず貴族というのは、国から特別に認められた人達で、多くが地主みたいに土地を持っていて、領地の管理だけで暮らせる人もいるし、手広く事業を行っている者もいる。
貴族のランクみたいなのも、爵位で決められていて、それが継げるのは基本的に男子のみ。
男子であれば、国に仕えたり、腕が良ければ騎士になったりする道があるが、女子の貴族は働くという概念がない。
着飾って綺麗にして夫に従って、家の中を取り仕切るのが基本だ。
貴族と言えど、生活に困窮することもあるそうなので、その場合は同じ貴族の子供相手に家庭教師をしてわずかなお金を稼ぐことくらいしかできない。
そう、離縁された女性がたどる道は険しい。
シャーロットのように実家に戻れるならまだ明るいほうらしい。シャーロットの今後は、若ければ再婚の道があるらしいが、年齢的に厳しいかもしれないと言われた。
集めた情報から考えるに今後は、家庭教師や子守りをして細々と暮らしていくか、教会に入り神に仕えて生涯を捧げる、隠居した金持ちの貴族の老人に引き取られる。まぁそんなところらしい。
現実的には家庭教師の道が理想だが、そもそも教えることができるスキルがなさすぎるのが問題だ。刺繍なんてしたこともないし、ピアノの才能も皆無だ。ドレミくらいしか分からない。
ダンスなんて踊れないし、詩なんてなにそれ状態だ。
全て一朝一夕でできるようなものではない。
「あぁ、ピアノくらい習っていれば良かった」
この先を悲観して思わずこぼれた言葉を聞いて、アンジーがクスリと笑った。
「まさか、家庭教師にでもなろうと考えていらっしゃるのですか?」
「だってそうでしょう。離婚された女の人って、もう限られた道しか……」
「再婚されればいいのですよ。シャーロット様のように美しい方なら引く手あまたです」
アンジーの言葉にとてもそうかとは頷けなかった。心はうら若き乙女でも、体はアラサーの女性なのだ。結婚相手ならより若い女性を好むだろう。それはどこの世界でも一緒だ。特にこの世界は子供を産むことが重要視されている。
若さこそ一番の武器なのだ。
「そもそも旦那様が事業に失敗して、ロス伯爵に借金など作らなければ、あんな男のところにシャーロット様がお嫁にいくことなどなかったのです!」
今まで穏やかだったアンジーが急に人が変わったように激昂し始めたので、私は目を丸くして驚いた。
「あっ…えーと、すみません…」
とりあえず怖いので謝っておこうとしたら、なぜシャーロット様が謝るのですかと怒られてしまった。
「シャーロット様はご自分の価値をご存じないと思いますが、シャーロット様の瞳は幸運の色として、この国では貴重とされている珍しい色なのですよ」
「はあ…そうなの?」
「本来であれば子爵令嬢であっても、王家の男性から婚姻を求められるくらいの価値があったのです!それを……!あんなクズみたいな男に……売り渡すなど……!愛人を娶るためにシャーロット様を切り捨てるような最低のクズ野郎……」
どんどん真っ赤になって馬車の壁まで叩いて怒り始めたアンジーにビビりながら、とりあえず自分のために怒ってくれているようなので、落ち着いてくれるように手を握って宥めた。
「まっ、いいじゃない!クズから解放されたわけだし、これからの人生は大変かもしれないけど、好きなように生きるわ」
明るさマシマシで笑顔で返してみたら、アンジーに天使ですかと尊い目で見られてしまった。
「ご心配には及びません。旦那様はこの結婚が間違いだったとずっと気に病んでいらっしゃいました。こんなことになりましたけど、今度こそシャーロット様が幸せになれるようなお話を持ってきてくださいます」
「あー…うん、ありがたいけど、期待しないでおくわ」
正直なところ、離婚云々の話は私にとってどうでもいいくらいなのだ。
あの日、先輩に告白して初めて実った恋。
これから素敵な恋愛をして幸せな恋人同士の日々を過ごせると思っていたのに、それがすべて泡となって消えてしまった。
そしてよく分からない世界でやり直したはずの人生では、初恋とか恋愛なんてすっ飛ばして、すでに結婚して離婚するまでの事態になっていた。
どうしても沙織の人生を思い出して現実を受け入れたくなくて憂鬱な気持ちになってしまう。
明るく好きなように生きるなんて口には出したものの、もう夢も希望もなく心の中は空っぽの状態だった。
□□
シャーロットの実家、ブライト子爵邸は元旦那の屋敷よりも小さかったが、それなりに立派なレンガ造りの建物だった。
母親は早くに亡くなり、現在は兄夫婦と子供が一人、そして父であるブライト伯爵が暮らしている。
兄は別としても、兄の奥さまにしたらシャーロットは出戻りなのでいい気はしないだろう。
私は冷たくされることは予想しておいたほうがいいと心を準備した。
だが、屋敷に入ると意外なことに待ち構えていたのは、お義姉様の場違いなくらいの明るい声だった。
「シャーロット!!お帰りなさい!久しぶりね!まぁ、相変わらず綺麗で可愛らしい人だわぁ。もう何日も前からお部屋を準備していたのよー!壁紙もベッドも床も全部花柄にしたのよ!シャーロットに絶対似合うと思って!一緒に暮らせるなんて夢みたいだわぁ!!」
「お…お久しぶりです。それは……ありがとうございます」
父と兄は不在らしく、シャーロットはお義姉様のアイリーンに背中を押されながら、早速そのうるさそうな部屋に連れていかれた。
「す…すごい部屋ですね…。まさか、クローゼットと鏡台まで花柄とは……」
「気に入ってくれた?町に何度も通って探し出したの!とっても可愛いでしょう!」
これも一種の嫌がらせかと思ったが、その方向で徹底する意味が分からないし、このアイリーンという人は顔を赤らめて目をくりくりさせて、本気で嬉しそうな顔をしている。
どうやら本人もレースがいっぱいのフリフリのドレスを着ているので、そういう趣味らしいというのがだんだん分かってきた。
「……ありがとうございます。とっても賑やかに暮らせそうです。はははっ……」
「荷物の整理が終わったら、早速ドレスを作りましょう!今日は仕立屋を呼んであるからとりあえずまず一着は決めないと!」
「はい?」
「のんびりしたお義父様になんて任せていられないわ!貴族仲人婦人会の会長として、今度こそシャーロットにはちゃんとした相手を見つけてあげます!それにはパーティーに繰り出さないと!任せておいてくださいな、今申し込みしまくってますから」
どうやらやっかいな組織に属しているらしく、ふわふわのブラウンの髪の毛を振り乱して、アイリーンの瞳は燃えていた。
喜んでいいものなのかどうなのかも判断がつかない。
ただ騒がしい日常になりそうだというのは理解できた。
「あぁ、シャーロット、ひどい結婚生活でしたね。でもあの男が愛人しか見てなかったおかげか、あなたはまだ少女のように可愛らしいわ……。間違いない!これはイケる!」
もうシャーロットの言葉などまったく聞く気もなく、アイリーンは一人で盛り上がってベラベラ喋りながら部屋から出ていってしまった。
一人残された私は荷物の上に座って、どうやら歓迎されているらしい状況にまず一息ついた。
これから何が待っているのか、見当もつかずにただ途方にくれたのだった。
□□
実家に戻ってきたその日、アイリーンが連れてきたお針子さん達にあれこれと計測され、生地を合わせられたり、サンプルを着せられたりさんざんお人形遊びのお人形状態になってぐったりとした後、帰宅した父と兄とやっと顔を合わせた。
申し訳なかったと泣いて謝る父に、かける言葉が見つからず、シャーロットならなんと言うかなと考えて、大丈夫ですとだけ伝えた。
親子のわだかまりが溶けていくような雰囲気を感じたのもつかの間、翌日からアイリーンに引っ張り回されてよく分からない会や、知らない人しかいないパーティーに連れていかれる日々が待っていたのだった。
「シャーロットー!シャーロットちゃん!あらお手洗いかしら……、どこへ行っちゃったのかしらね………」
アイリーンが甘ったるい声で呼んでいるのを、庭園の生け垣の中に隠れてなんとかやり過ごした。
この一ヶ月間、大ハリキリのアイリーンに連れ回されて連日連夜様々な人に引き合わされて、私は疲れきっていた。
もう誰を見てもじゃがいもにしか見えない。その度にどうかと聞かれ、ときめくかと聞かれても、スープにしたら美味しそうとか、サラダがいいかもというくらいの感想しか出てこない。
もう疲れたと言って断りたい。
だけどアイリーンも、シャーロットのためを思ってくれているので、断りきれない。
今日は高ランクのお貴族様が集まる夜会だと聞いて連れてこられた。もう粗相をしてしまう気しかなくて、着いて早々人混みにまぎれてアイリーンから離れた。
ここで隠れて大人しくして、終わりくらいに話が盛り上がってしまってと言ってごまかすしかない。
選り好みするのは申し訳ないのだが、アイリーンが連れてくる男性はたいてい頭に白いものが混じったダンディーな紳士である。
そんな立場ではないことは分かっている。しかし、気持ちは沙織なのだ。
沙織時代の父親より明らかに年上なおじ様方との恋愛というのがどうしても今一歩踏み出せない。
沙織時代に恋していた先輩は、スポーツ万能でサッカーのユニフォームが似合う、よく日に焼けた少年のような人だった。
先輩の面影をどこかに追ってしまう。もう二度と会えるはずがないのに。
しかしもういい加減、心を決めなくてはいけないのだろう。私は小さくため息を着いてドレスのまま地面に座り込んで丸くなった。
その時、夜会の人混みから離れたこの場所に、足音がして何人かが歩いてくる気配がした。
みんなパーティーに夢中でこんなところまで人が来るとは思っていなかった。
このままでは隠れている変な女になってしまうのだが、タイミングを逃して移動できなくなってしまった。
「で、どうだよ。今年の子達は。なかなか粒ぞろいじゃないか?」
「デビュー前から注目されていた令嬢はなかなか、後は似たり寄ったりだな」
人数にして四、五人の男性グループ、声の感じからしても若そうな感じだった。
男同士集まって女の子達の品評会というやつらしい。まぁ、女子も似たようなことをしているので、悪趣味とまでは言えないが。
「あの、テレンス伯爵のご令嬢は、すごい胸と尻だったぞ。悪いがこの間のパーティーで少しだけ味見させてもらった」
「羨ましいやつだな。お前、手が早すぎるぞ。そろそろ子供ができるんじゃないか」
笑い声が響いて男同士の話で盛り上がっていた。こんな話を聞かされるなんて、脳内うら若き乙女としてはとても居心地が悪すぎる。
このままもっと猥談に流れていったらどうしようと、私は顔が熱くなってきて思わず耳を手を当てた。
「エヴァンは?黙ってないで、どうなんだ?」
「そうだよ。エヴァンが誰を選ぶか、ご令嬢方の注目の的じゃないか。何人に紹介しろって言われたか……」
「ああ…。別に……」
おいおいと男達の非難の声が上がった。エヴァンという人物はどうも注目されているらしいが、今回のデビューの令嬢に好みのタイプがいなかったのだろうか。やけに冷たい反応だった。
彼らはきっと年齢的には年下になるが、精神年齢的には同じ歳くらいなのだろう。
話の内容はあれだけど、仲間同士でわいわいしている感じはひどく懐かしかった。
沙織の頃も友人と集まって恋ばなでよく盛り上がったものだった。
おいそろそろいこうぜと誰かが声を上げて人が動き出す気配がした。
やっと行ってくれるとホッとした私は、体の強張りを解いて体勢を変えた。しかし、それがまずかった。体の下にあった小枝をつぶしてしまい、よくある小枝パキッの音が出てしまった。
「……あれ、何か」
しかも誰か気がついてしまったらしく、こちらに近づいてくる気配がした。
絶体絶命、もうここで気を失ってたとか言うしかないと膝を抱える手に力を込めた。
がさがさと音がして間もなくして目の前に現れたのは、先ほどの声の誰かである若い男だった。
まるで絵本に出てくるような、夜の暗さでも輝くような金色の髪に、透き通るような青い瞳をした男だった。陶器のような白さと整った顔立ちは人間というより、精巧に作られた人形のようであった。
向こうも生け垣の間に潜んでいる令嬢に驚いたのか、目を大きく開けて言葉を失っているように見えた。
美しい青年の姿には確かに驚いたが、しかし、なぜだかその男の瞳がひどく懐かしく思えた。
もちろん会ったことなどない。会えば忘れられないくらいの印象的な人だ。
こんなところに隠れていたから、目がおかしくなってしまったのだろうか……。
向こうもなぜか食い入るようにこちらを見ていて、お互いずっと見つめ合っている状態が続いていた。
「おい、エヴァン!どうした?何かいたのか?」
遠くから男の大きな声が聞こえてきて、ビクリとなって現実に戻された。不自然なくらい見すぎてしまったと私は恥ずかしくて真っ赤になってしまった。
「……いや、なんでもないよ。先に行っていてくれ」
その青年が庇うようにごまかしてくれたことにまた驚いた。てっきりおかしな女がいると笑われるかと思った。おずおずと見上げてみると、その青年は目を細めてふわりと微笑んだ。
「見つけた」
何を言っているのだろうと思った。そしてその微笑みはまた心のどこかをくすぐるように胸に落ちていった。
「ああ、かくれんぼみたいだろ?こう言ったほうがいいかと思って……」
私がポカンとしていたのか、青年は先ほどの台詞に説明を加えてくれた。
「俺はエヴァン、エヴァン・ジルクロッド。君の名前は?」
「……シャーロット……ブライト」
明瞭で低くてよく通る声で話すエヴァンと違って、自分の声はやけに掠れていた。
今まで気にしないで使っていたブライトという家名がやけに響いて聞こえた。
自分はブライトに戻ったのだと、なぜだかこの時に実感したのだった。
□□
エヴァン・ジルクロッドは、ジルクロッド公爵家のご令息で、若手の集まる社交界では華のご令息と呼ばれ令嬢達の注目の的らしい。
その見目麗しい容姿に惹かれて、たくさんの令嬢達が我先にと集まるらしいのだが、どんな美しい令嬢が現れても、なぜか誰とも付き合うことはないという。審美眼がありすぎるのか、そもそも女性が好みではないのか、色々と噂が絶えない人だということだ。
なんと表現したらいいのか分からない、胸のざわつきを感じるのだ。もしかしたら、今まで引っ張り回されたパーティーで会ったことがあるのかもしれない。
何しろアイリーンが紹介する男性の範囲からは完全に離れた世界の人だ。若手のグループなど近づきもしないし話したこともなかった。
人がじゃがいもにしか見えない状態だったので、意識しなくても目に入って、心のどこかで気になってしまったのかもしれない。
エヴァンは今年、十八歳になられるそうだ。私こと、シャーロットの十歳も年下になる。
本来のシャーロットであれば、まぁ、可愛らしいなんて言って微笑んだのかもしれない。
しかし、私にそんな余裕などない。
なぜこんなに、もやもやと彼について考えているかと言えば……。
「シャーロット、本当に行くつもりなの?あちらはきっと気まぐれなお遊びよ。悪いことは言いたくないけど、あなたは十も年上だし、一度結婚した身なのよ……」
「……ええ、それは十分に、分かっています」
あの夜会で隠れていた庭園でエヴァンに見つかってしまい、出ていかないわけにはいかなくなった。
そこでエヴァンはいきなり、今日はもう遅いからと謎のワードを出してきて、またポカンとする私に、君をデートに誘いたいと言ってきたのだった。
「私はひどいことを言いたいわけではないの。シャーロットあなたは、結婚前はほとんど外へ出なかったし、結婚後はかごの鳥だったでしょう。どこか幼い感じがするのよ。若い貴族の男性はゲーム感覚で年上を誘う人もいるらしいわ。あなたにもう傷ついて欲しくないのよ」
アイリーンの言うことはもっともだった。彼女がバカにしたり傷つけようとしているわけではないということは理解していた。
「……なにか心に引っかかるものがあるんです。お会いして、それだけ……確認したいんです」
アイリーンはまだ何か言いたそうだったが、私があまりにも思いつめた様子だったからか、分かったわと言ってくれた。
くたくたに疲れて自分の部屋に戻った。ちっとも気が休まらない部屋だが、今日ばかりは深く寝られそうだと部屋のドアを開けると、おめでとうございます!というテンションの高い声が耳に飛び込んできた。
「シャーロット様!やったじゃないですか!デートですよ!それもジルクロッド家のご子息なんて大物ゲットじゃないですか!!あっこの話は先ほどの盗み聞きさせていただきましたー!」
「……アンジー、とりあえず寝かせ……」
「デートは週末ですか!?ドレスは何にしますか!?あっ!下着もセクシーなやつにしましょう!この際大人の余裕ってやつを見せてやりましょう!さぁ、今から試着を始めて…」
「おやすみなさい」
まだ喋り足りないアンジーをひきつった笑顔で部屋から押し出してやっと一息ついた。
そしてベッドに転がって気を失うように眠りについたのだった。
夢を見た。
あの頃の夢だ……。
もう何度目かの告白に失敗して、先輩の前で泣いてしまった。
いや、泣くのは毎回だ。
思いが叶わなくて泣いてしまう。
そうすると先輩はごめんねと言って申し訳なさそうな顔ををする。
申し訳なさそうな…悲しそうな…
いや、先輩は……先輩の顔は……
「シャーロット様!迎えの馬車が来ましたよ!」
アンジーの弾んだ声に、ぼんやりしていた私は我に返った。
今日はデートの約束の日。エヴァンの誘いは冗談ではなかったようで、本当に馬車に乗って迎えにきた。
楽しんできてくださいねと明るく背中を押されて送り出された。
先日の夜会とは違い、明るい日差しの下、金色の髪はサラサラと輝いて、まるで天使のような神々しさのエヴァンが微笑みながら馬車から降りてきた。
「今日は突然誘ってしまって悪かったね。予定は入っていなかったの?」
「は…はい。大丈夫です」
緊張気味の私と違ってエヴァンは慣れていて、優雅に馬車の中にエスコートしてくれた。
ぼけっと座席に座ったが、私も少しは大人な対応を見せなければいけないのだ。
せめて言葉遣いを柔らかくしそうと試みることにした。
「どうして…私を誘ったの…です…じゃなくて、誘ったのかしら?」
「もっと話してみたいと思ったんだ」
「え……、あんなところに一人で隠れていたのに?変な女だと思わなかった……の?」
「なんでこんな所にってびっくりはしたけどね。でもまぁそのおかげで君に出会えたから……」
エヴァンは目を細めてからからと笑った。恥ずかしいくらいストレートな台詞もエヴァンであれば、様になっていてむしろ輝いて見えた。
「と…年上が…すっ…好きなのかしら?」
この際だからこちらも、ど直球を投げてみた。そうでないと説明がつかないのだ。
「うー……ん。意識したことはないかな」
「……え?」
年上好きでなければなんなのだと、私の頭はますます混乱してきた。
「……あの、私、今年二八……なのよ」
「知っているよ」
もしかしてご存じないのかしらと、しっかり伝えてみたが、一言で返されてしまった。
だから何?という空気が流れてこっちが変なことを言っているような気になってしまう。
「もう少し君に早く出会いたかった…、とは思うけど、今からでも遅くないと思っている」
エヴァンは少し考えた後、そう言って私を見つめてきた。青い瞳は南国の海のような透明度の高い美しさで、時間も忘れていつまでも見ていたいくらいだった。
なぜそこまで、という気持ちばかりが頭のなかに渦巻いている。
会ったばかりで話したこともなく、お互い名前すら知らなかった。
こちらもそうだが、向こうもシャーロットのことなど何一つ知らないだろう。
アイリーンの言っていた、貴族の若者の間で流行っている恋愛ゲームみたいなものかもしれない。
年上の女が年下に夢中になって心惹かれていく様子を、楽しむとかそういうものなのかもしれないと思った。
目の前の天使のようなエヴァンがそんな悪趣味なゲームをしているのか分からないが、人は見た目とは違う生き物でもある。
私にはエヴァンという人を、まだよく知らなすぎて判断できなかった。
初日はそのまま町で食事をして、何事もなく帰宅した。
その翌週も、そのまた翌週も三日と開けずエヴァンはシャーロットをデートに連れていった。
おかげでアイリーンにパーティーに連れていかれる暇もなく、毎日アンジーがドレス選びに走り回っていた。
エヴァンにいつ本気にした?とバカにされるかと身構えていたが、いっこうにその様子は見られなかった。
エヴァンはその若さにしては、似合わないくらい落ち着いていて、会話をしていてもむしろ私よりも大人であると感じることが多かった。
私の拙い話にもじっくり耳を傾けてくれるし、言いたいことを最後にまとめてくれたり、真面目に話しすぎてしまい、固くなってしまった私を、和ますような冗談を言って笑わせてくれた。
若すぎて頼りない軽い感じなどない。気がつくと私の築いていた壁はひとつひとつ取り除かれていった。
どうしてモテるのに令嬢と付き合わなかったのかと聞いたとき、真顔で君に会うためだと言われて、私は気が遠くなって倒れそうになったほどだ。
何度も会っていても、エヴァンという人がさっぱり分からなかった。
ストレートに寄せられる好意が本当なのか、冗談なのか、それすら判断ができない。何しろ、恋愛スキルはただの女子高生レベル。
男性の気持ちなんてさっぱり分からない。駆け引きなんて技術はないので、もう正直に聞いてみるしかないと心に決めたのだった。
空がだんだん赤くなり始めた空を、エヴァンと並んで話しながら見ていた。
今日は観劇をして食事をして、食後は町をブラブラと散歩していた。
途中、露天で私が見ていた髪飾りを気がつかないうちにエヴァンは買っていて、それをさりげなくプレゼントしてくれた。
素材は陶器で出来ていて、花の絵が描かれたもので、早速髪の毛につけてもらった。
その時に私は気づいてしまった。
ずっと、もやもやと胸の奥に挟まっていたもの。
エヴァンが先輩の面影と重なるのだ。
そんなわけがあるはずないと何度も心の中で否定して除外していたが、やはりそう思えて仕方がない。
姿形は全く別人だ。
性格だってスポーツマンだった先輩の方が、明るくて爽やかな人だった。
エヴァンのようなミステリアスな雰囲気など真逆と言っていいほどだ。
それなのに、どこか重なるような気がして、時々胸が壊れそうなくらい鳴り続けて止まらなくなる。
もしかしたらと思い付いたのは、先ほどの髪飾りをプレゼントしてもらった時だ。
少しずつ塗り込んでいくように、私はもうエヴァンに惹かれていた。
しかし、先輩に対する罪悪感からその思いを重ねて見てしまっていたのではないか。
ずっと好きだった人なのだ。もう会うことも出来ないし、思い続けても無意味なことは分かっている。
だからこそそれを認めたくなくて、先輩がエヴァンだと思い込もうとしていたのかもしれない。
「……どうしたの?急に黙りこんで」
「……今日こそ、はっきりさせましょう」
このままの関係では、自分の妄想が進むばかりでエヴァンに対して失礼になるだろう。私はもう心を決めてエヴァンに向き直った。
「何度か色々と誘ってくれて一緒にいる時間があったけど、いくら考えても分からない。エヴァン、あなたが何を考えているのか。色々と想像したわよ、もしかしてラブゲームでもしているのかとか、興味本位なのかとか……。だって十も年上の離婚された女よ。なぜあなたほどの恵まれた環境にいる人が、わざわざお古みたいなのを選ぶのか全然分からないのよ」
私が意を決して放った言葉を落ち着いた顔で聞いていたエヴァンは、ふと視線をそらして沈んでいく夕日の方に目を向けた。
「シャーロットは後悔したことがある?」
「……え?」
「俺は大切なものをなくした時、すごく後悔したんだ。自分勝手なことをして楽しんで……、そんなことをしても当たり前に幸せは手に入ると思い込んでいた。でも手の間から滑り落ちるように大切なものは消えてしまった」
夕日を見つめるエヴァンの瞳はオレンジ色に染まっていた。涙こそ出ていなかったが、その瞳に悲しみが見えて胸が切なくなった。
「自暴自棄になった俺は生きていながら死んでいるみたいな人生を歩んできた。次に大切なものを見つけたら、もう決して離さないと心に誓ったんだ」
エヴァンが生きてきたわずか十八年の中でそんな経験をしたのかと私は信じられない思いだった。確かにこの落ち着きぶりと、達観した感じは経験から生み出されたものかもしれないと思うに至った。
「そう、俺の大切なものは君だよ、シャーロット」
「…………え?」
「出会ったとき、運命を感じたんだ。言葉では説明できない。すぐにでも手に入れたいと思ったけど、まずはちゃんと恋人になりたかったんだ」
運命という言葉は私にとって重いものでしかなかった。恋が実ったのに死んでしまい、この世界に転生したのも全てひどい運命のせいにしていた。
しかし、エヴァンの口から出た運命という言葉は、私の考えていたものとは全然違った。
もっと明るくて、夢を感じるものだった。どうせならそちらの運命の方がずっと素敵に思えた。
「シャーロット、君が好きだよ。俺とこの先の人生、ずっと一緒にいて欲しい」
昼と夜の間、焼けるような空を背にしてエヴァンは私を見つめてきた。
運命という言葉がまた私の頭の中に浮かんできた。
エヴァンが教えてくれた運命なら信じてみよう、私はそう思った。
エヴァンが差し出してくれた手の上に自分の手を重ねて、はいと言ってエヴァンを見つめた。
嬉しそうに微笑んだエヴァンに手を引かれて、その胸の中に捕らわれた。
見上げた私の唇に、エヴァンの唇がそっと重ねられた。
二人をオレンジ色に染めていた夕日が沈んで暗くなっても、ずっと離れることなく抱き合ってキスをしていたのだった。
□□
令嬢達の憧れの存在だったエヴァンが婚約をした。しかも相手は離縁されたばかりの二八歳の女、という情報は瞬く間に社交界に知れ渡った。
最初は騙されているのではと半信半疑だった父や兄夫妻も、屋敷に挨拶に来てシャーロットへの想いを熱く語ったエヴァンに、結局折れてくれて婚約することになったのだ。
一方心配でしかなかったエヴァンの家、ジルクロッド家の人々の反応だが、こちらも嘘のように歓迎されて逆に戸惑うくらいだった。
どうもエヴァンは子供の頃から自分で決めた人としか結婚しないと断言していて、もし良いと思う人が現れなければ、一生独身を貫くとまで言っていたそうだ。
一度言い出したら聞かないそうで、家族は誰でもいいから現れてくれと願っていたそうだった。
十歳年上のバツイチはさすがに驚いていたが、良かったありがとうと、涙を流したご家族一同に囲まれたほどだった。
ジルクロッド家の庭園には見事に薔薇が咲き誇っていた。それを眺めながら、たくさんの人達が話に花を咲かせていた。
今日はジルクロッド家で開かれているガーデンパーティーに来ていた。
今年王立学校を卒業したばかりのエヴァンは、ジルクロッド公爵が手掛けている事業を手伝っている。仕事の才能もあるらしく、すでに貿易関係の仕事はエヴァンが中心になって進めている。
今日はその関係者を集めた慰労会みたいなものらしい。
婚約者となったシャーロットも紹介するということで、参加することになった。
一通り挨拶が終わって私は飲み物を取りにエヴァンの隣を離れた。
一人になってから力が抜けてため息が出た。なかなか気疲れのするものだった。
当然ながら私に向けられる視線は好奇に満ちたものや、明らかに不快な色をしたものもあった。
エヴァンに気づかれないように、年齢のことや、離婚の理由まで聞いてくる者もいた。
仕方がないと思いながら、大人の世界の残酷さに少しだけ心を痛めていた。
自分を選んでくれたエヴァンに、負担な思いはさせたくなかった。
いつまで我慢すれば、変な目で見られることがなくなるのだろうか。
それともエヴァンにちゃんと相談すべきなのか、大人とはこういう時どう振る舞うのが正解なのか、私の頭では全然計算が出来なかった。
並べられたグラスの中からつい綺麗な色をしていたので、シャンパンを取ってしまい慌てて戻した。
前世は未成年だったのでお酒は未経験だった。シャーロットと気づいてからも、どうなるのか怖くて飲んでいない。
エヴァンもまた、お酒は一切飲まない。一緒に食事に行った時にも断っていた。理由を聞くと、もう人生で十分飲んだからいらないんだと言っていたので、いったいどんな青春を過ごしてきたのか、全く想像が出来なかった。
葡萄のジュースを二つ手にとってエヴァンのもとへ戻った。
すらりと伸びた手足でカッコ良くスーツを着こなしているエヴァンの後ろ姿を見つけて、心がぽっと温かくなった。
声をかけようとして口を開けた私の後ろから、シャーロットと呼ぶ声がした。
その何となく嫌な響きに背中がぞわりとして振り返ると、そこには元旦那であるロス伯爵が立っていた。
まさかという衝撃で手が震えてしまい、両手に持っていたグラスが落ちていき、パリンと音を立てて割れてしまった。
「元気そうだな、家にいた時は暗くて地味な女だったくせに、若い男をタラシこんだとは、なかなかやるじゃないか」
離れた距離でもお酒の臭いが漂ってくる。相当酔っているようだった。招待客リストに名前は乗っていなかった。つまり、パーティーに忍び込んだのだ。
シャーロットになど関心の欠片も持っていなかったはずだ。今頃思い通り手に入れたものに囲まれて幸せに暮らしているはずだ。だが、ロス伯爵はよれたスーツに薄汚れた靴、乱れた汚ならしい髭でとても幸せそうは見えなかった。
「……私に何か言いたいことがあって、こんなところまでいらしたのですか?」
「はっはははっ…、何を馬鹿げたことを!全部お前が仕組んだんだろう!私を破滅させて満足か!?」
なんのことを言っているのかと、私は頭が真っ白になった。今の今までロス伯爵のことなど、一ミリも思い出すことなどなかったのだ。
それがなぜ、仕組んだと謎の文句を言われるような事態になっているのか理解できなかった。
「これは、ロス伯爵、パーティーにようこそ。招待したつもりはないんですがね」
「貴様がジルクロッド公爵の息子か!生意気そうなやつだな!」
いつの間にかエヴァンが横に来てくれて、後ろから肩に手を回して支えるようにしてくれた。
エヴァンが隣にいてくれるだけで、驚くほど気持ちが楽になって安心した。
「出資されていた事業が全て傾いてしまって、多大な借金を負ったとか……。再婚されたばかりの奥様とお子様も出ていってしまったそうですねー。お気の毒様です」
初耳だった。いつの間にそんな大変な事態になっていたのか、全く知らなかった。
父や兄なら知っていそうだったが、あえて私には言わなかったのかもしれない。
「シャーロットを疑うのはやめてください。そもそも後ろ暗い経営をされていたそうじゃないですか。内部からの裏切りもあったみたいですし、自業自得ではないですかね」
「きっ……くそ貴様ぁ…………………っっふふふははははっ!!」
怒りに燃えていたロス伯爵だが、突然可笑しくなったように笑い声を上げた。
「公爵閣下のご令息は変わった趣味をお持ちですな。どうやらお古が好きらしい!私の使い古したゴミを抱いてご満足ですかな。この女ときたらアレの時もちっとも声も出なくて……」
「ロス伯爵」
耳を塞ぎたくなる話に心が壊れそうになっていたが、そんなロス伯爵の声を遮るように彼の名前を呼んだエヴァンの声はよく響いた。
「俺はあなたには感謝をしているんです。シャーロットを手放してくれたことを。ずっと愛人に夢中で彼女に指一本触れなかったそうですね。シャーロットは使い古しでもなく、ましてやゴミなどではありません!これ以上の侮辱は今以上の悪夢を見ることになりますよ」
エヴァンの言っていることが本当だったのか、ロス伯爵は苦虫を噛み潰したような顔で黙りこんでしまった。
「あなたは可哀想な人だ。シャーロットは愛情深くて美しくて可愛い最高の人なのに……、何度転んでも諦めない強い心を持っている。それは、あなたがピンチの今のような時、きっと逃げずに支えてくれる力になったと思いますよ。近くにいながらそれに気づくことも出来なかった。本当に可哀想な人だ。まぁもう彼女は私のものなので、お返しするつもりはありませんけどね」
ロス伯爵が真っ赤になって、雄叫びのような声を上げて動き出そうとしたのを、駆けつけてきた使用人達が束になって掴んで捕まえた。
招待客でもないのに忍び込んだのはさすがにまずいのだろう。
そのまま、引きずられるようにして、連れていかれてしまった。国の警察みたいなところに引き渡されることになるだろうと思われた。
「シャーロット?大丈夫?怖がらせてしまったね」
呆然と立ち尽くしていた私に、エヴァンが耳元で話しかけてきた。私はハッと気がついてビクリと体を震わせた。
そして、言葉に言い尽くせない思いが込み上げてきて、ぽろぽろと涙が溢れてきた。
「……エヴァン……エヴァン、ごめんね……ありがとう」
「……シャーロット」
泣き出した私をエヴァンは優しく抱きしめてくれた。その温もりはずっと求めていたものだった。
「あなた…に、出会えて…よ…かった。好き……大好きだよ」
「あぁ…その言葉……」
エヴァンが抱きしめてくれる力が強くなった。
気がつくとパーティー会場のど真ん中であるということも忘れて二人でキスをしていた。
強く結ばれた二人の姿を見て、もう誰もくだらない質問をしたり文句を言う人は現れなかった。
□□★
「すっかり幸せそうな顔しちゃって…。本当に良かったわね、シャーロット」
ジルクロッド邸でシャーロットを訪ねてきたお義姉様アイリーンは、ティールームで優雅にお茶を飲みながら微笑んだ。
今日も花柄のドレスに頭にでかい花の髪飾りをつけている。目にうるさいセンスは今日も光っている。
婚約から間もなくして、エヴァンと二人きりで海辺の教会で式を挙げた。
静かで穏やかで、とても幸せな結婚式だった。
晴れて夫婦となり、一緒に暮らし始めてからもエヴァンは、私を宝物のように大切にして優しくしてくれている。
こんな幸せがあったのかと、これは幻なのではないかと不安になることもあるくらい、毎日浴びるほどの幸せで包んでくれていた。
アイリーンは私の様子を心配して、結婚後もよく訪ねてきてくれている。
父や兄からも言われているからだと思うが、素直に彼女の訪問は嬉しかった。
「いや…本当に肌ツヤが良いわ……、さすが若い旦那と結婚すると違うわね……」
「え?…すみません、今お茶をこぼしてしまって、何か?」
「あら、いいのよ。幸せそうで羨ましいって話よ」
アイリーンは小指をたてながら、カップのお茶をごくりと音をならして飲み込んだ。そして、体を前に持ってきて、聞いた話だけどと声を抑えて話し出した。
「ロス伯爵だけど、先代の築いた資産をかなり使い込んでいたようね。特に元愛人?かなり曲者ね。愛人時代から高価なプレゼントを貢がせてたみたいじゃない。まぁ…あなたには耳の痛い話かもしれないけど」
「いえ…あの、私は気持ちもありませんし……」
「投資に失敗して借金を負って、財産は元愛人が湯水のように使ってしまい、本業の不正も発覚。踏んだり蹴ったりで、完全に落ちぶれたわね。やはり幸運の目に逃げられたからだって皆噂しているわ」
なんのことかと思ったが、確かアンジーがそんな話をしていたことを思い出した。
シャーロットの目が珍しいとかそんな話だったかと思う。
確かに同じ色の人は見かけないが、人から言われることもなかったので意識していなかった。
「幸運だなんて…、御伽噺みたいなものでしょう。それに逃げたというか、追い出されたのだから…」
「まぁ、シャーロットは夢がないのねぇ。そうだ、こんな噂も聞いたのよ。ロス伯爵は誰かの恨みを買って貶められたのではないか…って。こんなに急に没落するなんて考えられないから」
「それで私が何か仕組んだと思って憤っていたのね」
シャーロットからしたら恨みをもって当然だとは思うが、私としてはもう関わりたくないというのが本音だ。
「確かロス伯爵が出資していた事業って…、あぁいいわ、何でもない。これは私の思い過ごしね」
そろそろ帰らないと言ってアイリーンは優雅に貴族の奥様らしく微笑んでフリフリドレスを揺らしながら帰って行った。
□□
私は遊戯室の前で緊張で額から汗が流れていくのを感じた。
今日はエヴァンの学生時代からの友人達が遊びに来ている。
たぶんあの夜会でエヴァンと話していた人達だと思う。
あの時は軽い印象だったが、エヴァンが言うには、口は悪いが悪いやつらではないそうだ。
式は二人だけだったので、ちゃんと会うのは初めてである。
部屋にいていいよと言われているが、さすがに顔を見せないわけにはいかないだろう。
挨拶だけでもと思って、お茶をワゴンに乗せて運んできたが、どうも部屋の中からの会話が耳に入ってきてドアを開けられずに真ん前で立っている状態だ。
まぁ仕方ないのかもしれないが、会話の内容からどのタイミングで開けていいのかがまったく分からない。
「それにしても急に結婚とはなぁ。どんな令嬢かと思えば年上とは驚きだよ。いくら美人でも十も上とは……ね」
「だいたい話が合うのか?まぁ女の話なんていくつになってもつまらないね。若さがあればまぁ許せるけど……」
「ああ、ドレスがどうのとか、どこの誰が付き合ったとか別れたとかだろう。それに年上なんて何を買わされるか、俺はわざわざ選ばないなぁ」
みんな言いたい放題に言っている。こんな会話の中に飛び込んでいけるほど、私はまだ人間ができていない。
まぁ可愛い方々ね、なんて笑って登場するのが正解だと想像するが、そんなこと絶対に無理だと泣きそうだった。
もう他の者に任せて、体調が悪いことにしようかと思った時、そこでやっとエヴァンの声が聞こえた。
「俺は別に年上が好きなわけじゃない。シャーロットだから好きなんだ」
私は悶えてドアにぶつかりそうになった。嬉しい、確かに理想的な答えで嬉しすぎるが、同時に恥ずかしすぎて顔が真っ赤になり、もっと入れなくなってしまった。
「お前達が何を言おうが勝手だけど、俺のシャーロットは世界一可愛い人だ。その辺の令嬢と一緒にするな」
もう立っていられなくてドアの前に座りこんでしまった。
おいおい熱いなぁと冷やかすような笑い声が上がって、部屋の中から聞こえてきた。
友人の前でカッコつけることなく、言いきってくれたエヴァンは痺れるほど素敵だった。
思わず感動してしまい、涙目になってきてよけいに動けなくなった。
しかし、座りこんだ時に物音がしたからか、中からドアを開けられてしまった。
「……え?シャーロット?なんで……そんなところに……」
エヴァンの戸惑うような声と、ご友人方の視線を感じて私はもう終わったと思った。
「こ…こんな格好で……お邪魔してすみません。ご挨拶をと思って…あと、あの…皆様、お茶でもいかがですか?」
半泣きでなんとか絞り出した声は静かになった部屋によく響いた。
もう、ただ早く部屋に戻りたかった。
しかし、なぜかもっとよく分からない事態になってしまった。
「俺は宝石の輸入をやってるんですよ。あぁ、シャーロット様にはイエローダイヤモンドがよく似合いそうだ。瞳にぴったりの色ですから」
「は…はぁ……」
「宝石で釣ろうなんていかにも若造の浅知恵ですよね。俺は今流行りのリイエスの劇団の関係者なんです。いい席を用意しますし、特別に控え室にも招待しますよ!」
「い…いえ…そんな…」
「ちょっと待った!そんなガヤガヤした場所は疲れるだけですよ。うちのプロルトの別荘はいかがですか?湖畔にボートを浮かべて最高の景色が見られますよ。ぜひ、来てください」
「あ…それは…素敵ですね」
エヴァンの友人達は確かに悪い人達ではなかったが、今まで年上がどうとか文句を言っていたとは思えないくらい態度が変わり、なぜか私が椅子に座らされてお茶を用意され取り囲まれて質問攻めにあっていた。
本人の前で文句は言えないとか、気を使っているのかとか、話を聞かれたと思ってフォローしているのか、色々考えて頭がぐちゃぐちゃになってきた。
「……お前らいい加減にしろよ。どうして揃って人の妻を口説いているんだよ!だいたいさっきまで年上なんてと言っていたのに……」
「……エヴァン、どうした?夢でも見ていたのか?」
「年上の女性は最高だよ!ぜひ俺も年上の方とお付き合いしたい!」
彼らのあまりの変わりように、エヴァンも開いた口がふさがらないようだ。大人びていたエヴァンだが、友人達といるときは年相応に見えて、新しい表情が見れたことは嬉しかった。
「シャーロット様、あいつは学生時代もたまにおかしなことを言い出すやつで、良かったらその話でもしませんか?」
「それは…、ぜひ知りたいわ」
「だっ…シャーロット!」
緊張したご友人方達との対面だが、どうやら歓迎してくれたらしく、とりあえずホッとした。
貴族は交遊関係が大事だと言うし、夫の友人達とはいい関係を築いていきたい。
学生時代の黒歴史でもあるのか、エヴァンはちょっと不満顔だったが、午後のひとときの和やかな時間を過ごすことができた。
ここのところ仕事忙しかったエヴァンは、疲れているのか朝はなかなか起きられなかった。
もともと朝が弱いらしく、私が起こすまでは絶対に起きない。今まで自分で寝起きしていたらしいが、いったいどうしていたのか不思議なくらいだ。
「エヴァン…、もう時間よ。今日はお義父様と出掛けるのでしょう。そろそろ起きないと……」
「う……ーん。シャーロット……あれを……」
分かったわと言って私はクスリと笑った。手を伸ばしてエヴァンの頭を優しくゆっくりと撫でてあげた。
逆に眠くなってしまうのではないかと思うのだが、エヴァンは撫でられるとなぜか安心するらしく、特に疲れているときはそうしてくれと頼まれている。
「……シャーロット……いるよね……」
「いるわよ。今頭を撫でているでしょう」
「………良かった」
エヴァンは目を瞑ったまま、半分眠りながら嬉しそうに微笑んだ。その顔がまだ幼い子供のように見えて、切なくて愛しい気持ちが溢れてきた。
しばらくそうしていると、やっと浮上してきたのか、エヴァンは寝転がったままパチリと目を開けた。
「シャーロット、明日海へいこう」
「……海に?……ええ」
突然の遠出の誘いに驚いたが、仕事が一段落したら出掛けようと言われていたので、その事だったのかと納得がいった。
「あの教会の近くに砂浜があったよね。あそこにしよう。また二人きりで散歩したい」
「ええ、楽しみだわ」
そう言って私が笑うとエヴァンも嬉しそうに微笑んだ。
「さぁ…そろそろ起きないといけないんだけど、まだあれが足りなくて動けないんだ」
頭を撫でていた私の手を取って、エヴァンは甘えるような目を向けてきた。
いつも私よりも落ち着いていて、しっかりして見えるくせに、こういう時は甘え上手だと思う。
その目線の意味はとっくに分かっているので、私は寝ているままのエヴァンに顔を近づけてキスをした。
「おはよう、私の旦那様。エヴァン、あなたが大好きよ」
満足そうに微笑んだエヴァンは、やっと体を起こして、私を胸の中に引き寄せて抱きしめてきた。
エヴァンに抱きしめられると、温かくてどこか懐かしい気持ちになる。
この優しい温かさの意味をいつか知ることができるのだろうか。
夫婦としてまだ人生のスタートラインに立ったばかり。
これからどんな険しい道も二人で乗り越えていくのだ。
お伽噺だと言ったが、もし幸運の瞳が本当なら、二人が行くべき道を明るい輝きで照らして欲しいと思った。
「シャーロット…俺も大好きだよ」
二人の世界から一日は始まり、二人の世界で終わっていく。
忙しい朝も、眠くなるお昼も、踊りたくなる夜も、エヴァンと一緒であるから全てに意味がある。
私はまた一つ新しい世界を見つけたのだ。
それは幸せで甘い夢、懐かしくて確かにここにある愛しい場所。
エヴァンと生きる世界は、輝きに満ちていた。
光の中をどこまでも手を繋いで生きていきたい。
あなたに会うために、生まれてきたのだから。
□完□
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