白い女・黒い女

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 暖房の効いたカフェの向こうに真っ白い女を見つけたとき、早央里は濃いめのブラックコーヒーを啜っていた。  向かいといっても同じテーブルを挟んで同席したわけではない。早央里が腰掛けた二人掛け席の、テーブルとイスとそれから通路をさらに挟んだ窓の際、三階から街並みをよく見下ろせる座面の低いソファに女はいた。  白いな、というのが第一の印象だった。  特段、目立つ言動があったわけでも、芸能人に似ているというわけでもない。早央里が厚ぼったいネイビーのコートを向かい側の背もたれにあずけ、仕事に愛用しているブラウンの合皮のトートバックから手帳を出して、明日の予定を書きつけ、店員の若い男の子から注文の品を受け取ったあたりで彼女に気付いた。視界に居た、ただそれだけの女だけれど妙に白いのが気にかかった。なんなら気に障ったと言っていい。その日の早央里は妙にいら立ってもいたからだ。深緑とチェックのスカートには、上司の小言を受け流す代償として、握りしめた皺が付いていた。  女はまず肩から背中にかけて、真っ白なニット素材のストールを掛けていた。室内だもの、それなりに暖かく調整されているだろうに、カーディガンのようにして上半身を覆っている。おかげで、早央里に見える姿のうちのほとんどが真っ白かった。  大通りを見下ろせる三階の窓へ、身体の右側を預けるようにソファが置いてあったから、早央里は彼女の左半身を何の気なしにじろじろと眺めることができた。勿論、不躾にならないようコーヒーのマグを口許へ運ぶ合間、合間にだけれど。女のスカートは薄いアイボリーに、クラシカルな花模様が焦げ茶で所々プリントされている。足元は荷物入れのカゴで隠れていたが、そのカゴから除いているのは着用してきたコートらしかった。白いウールの裾がのぞいている。ストールの隙間からちらりと見えるカットソーの袖口は、ロイヤルミルクティーを溢したようなベージュ色で、全体と相まってますます白い女の印象を和らげる。  あんな格好では、とてもケチャップが恐ろしくてナポリタンなんて食べられないなと早央里は思う。現にナポリタンを頬張っているのは自分の方で、白い女はキノコがたっぷりと入ったオイルソースのパスタを器用に口へ運んでいた。肩にかかる緩いウェーブの髪を時折、背中側へ流しながら、一口ずつ咀嚼している。  なにを食べたらあんな風に育つのだろう。悪くはない、よく似合ってもいるし他人の格好に文句など付けないが、早央里には何をどうすれば白いスカートに白いコートと白いストールを巻き付ける発想に至るのか理解できなかった。説明でもされれば理解するかもしれないが、少なくとも想像はとても付かなかった。湯気の立つコーヒーを握ると指先がじんわり熱い。 (少し似てるな)  かじかむ両手に白い息を吐いていた放課後を思い出す。 ***  小学校以来、同じ読み方の名前が同級生にいつも二、三人いたから、サオリたちは決まって苗字で呼ばれていた。樹(いつき)という姓を、クラスメートと重ならないという利便性以外の点で、早央里はすきではなかった。響きのどことなく男性っぽい感じがよくない。早央里自身は平均よりも背丈があって、あまり柔らかい顔付きではなく、真っ黒で太い髪質がうっとおしくていつも短く切りそろえていた。そんな自分に後輩からの「イツキ先輩」なんて呼び方が妙にしっくりくるところなど、いよいよ、すきではなかった。  高校は自宅から少し遠くへ進学したけれど、それでもやはり「サオリ」がもう一人いた。紗織とは一度も同じクラスにならなかったけれど、部活が同じで、気さくに話のできる仲だった。紗織は色素の薄い、ともすると染めて見える髪をまっすぐに背中まで下ろして、いつもハーフアップにして綺麗なバレッタで留めている。紗織は早央里よりもさらに遠くから通学していて、毎朝五時に起きて強情なくせ毛をアイロン片手に調教しているのだと、けらけら笑って話していた。五時なんて親のいびきに文句をつけてから二度寝する時間だ、と早央里が言えばそれにもまたけらけらと笑っていた。紗織はいいやつだった。  だけれども一つだけ問題があるとすれば、紗織だけはどこへ行っても「サオリ」のままということだった。  これまでは「サオリ」がいれば全員がそれぞれに苗字で、樹のほかは谷口とか吉野とか林とか、それで別のだれかと重なるときはあだ名だとか、とにかく「サオリ」以外で呼ばれていた。ところが紗織だけは畑中と呼ばれることはなく常に「サオリ」だった。映画同好会では紗織が「サオリ」で、早央里が「イツキ」で通っていた。紗織は気にする素振りもなかったし、早央里も、気にかけないよう努めた。たおやかな響きと字面が、清楚な印象の彼女に似合うんだろうと思えば納得もできた。二年になり三年になり、先輩と呼称され始めても、薄暗い視聴覚室で顔を合わせるたびずっと紗織は「サオリ先輩」で、早央里は「イツキ先輩」のままだった。  ただ一人、真っ白なあの子だけ除いて。  さおりセンパイ、と最初に呼びかけられたとき、誰のことだか分からなかった。続いてもう一度、今度は自分の至近距離で声がしたものだから、早央里はさっと教壇から視聴覚室を見回した。窓の外はしんしんと雪の降り積もる、なんていえば聞こえはよくても、実際は膝下までの長靴でうんしょうんしょと踏み越えなくては学校へ来られない豪雪の日だった。たまにあるのだ、四月になってからの降る年が。そうでなくても普段から始業チャイムぎりぎりの紗織は、田舎の休日ダイヤではなおのこと、時間通りに部活へ姿を見せるほうが珍しかった。 「紗織ならまだ。今日はバスが遅れてると思うけど」 「無視しないでください、早央里先輩」  黒板前に大きなスクリーンをぶら下げたところで、早央里はやっと近くへ視線を戻して声の主を確かめた。見逃してしまいそうに小柄で、だけど妙に目を引き付ける、華のある、二つ年下の女子生徒が教室の入り口に立っていた。 「えっと」 「花井です。花井今日子」 「そう、花井さん」 「今日子でいいですよ。早央里先輩」  今日子はぱっちりとした二重まぶたを瞬かせてにっと笑った。寒い外から、入ってきたばかりなのだろう、白い頬に赤みが差して制服が冷気を纏っている。早央里は一瞬あっけにとられていたが、今日子がずずっと鼻を啜った音で我に返り、「そんなとこいないで入りな」と入室を促した。古い校舎だったから、年季の入った石油ストーブしかなくて、そのすぐそばへ椅子を置いて今日子を座らせた。 「いじわるされたかと思っちゃいました」  あはは、と今日子はあどけなく声を出す。まだ制服に着られるような年頃、ひと月前まで中学生だったはずの今日子は、それでもやけに高校生がさまになっていた。糊の利いたセーラー服に、白いPコートを羽織って両手をストーブにかざし、寒かったあ、なんて呟いている。自分もそんなふうだったかしら、と早央里は思って、すぐに内心で首を振った。今でこそ袖も短くなりつつあるセーラーもプリーツスカートも、違和感なく鏡で確かめられるようになるまで、三か月はかかった。 「紗織はいつも遅いんだよ。ほかも、この雪じゃ、遅れるだろうね」 「畑中先輩はもっときっちりしてるのかと思ってました」 「みんなそう言うね。紗織は見た目がああだから真面目に思われるんだ。べつにだらしないとかじゃないけど、とにかく家が遠くってさ。親が厳しいらしくて下宿は認めてくんないの、箱入り娘なんだって。だから大学は絶対に東京行くんだって言ってた」 「ふうん」 「あ。また勝手に話して怒られるかな、まあ映画部ならみんな知ってる話だから」 「早央里先輩は? もう志望校決めてるんですか」 「……ねえ、その早央里先輩ってのなんなの」  今日子は目をぱちん、と閉じてすぐ開け、きょとんとして首を傾げた。 「だって先輩ですよね、早央里先輩」 「そこじゃない」 「え。あれ、ひょっとして先輩には『さん付け』の文化でした? 間違えたかな」 「そうじゃない、っていうか、そんなにうるさくないでしょウチの部。じゃなくて、みんな樹のほうで呼ぶから」 「なんだそんなことですか、早央里先輩」  今日子はさっきと反対側へ首をこてん、と倒して上目遣いに早央里を見つめてくる。なぜだか早央里は妙に――ぎくりとしたけれど、それがどうしてかを見つける前に今日子の目はストーブの火へと向いて、手をかざし続けることに切り替えたらしかった。二人きりは妙に気まずく、どうしていつもみたいに早く来ちゃったんだろう、この雪だもの、遅れても構わなかったのにと早央里は自分の習慣を恨んだ。  四月の中ごろ、今日子は入部したての女子生徒で、なんだったら一年生の半数はまだ所属先を決めかねている。  新学期が始まってまだ三日か四日ほどの頃に、見学者の受付に早央里が立っていた日、立ち寄ったのが花井今日子だ。もともと見学するつもりで、というわけではなく、本当にふらりと通りがかりに、といったふうだった。  彼女の通った鼻筋は光を照り返して透けて見え、今日子が見学者名簿へ名前を書き込む間、早央里はその白い肌を何気なく目でなぞったものだ。やけに、はかなげで透けるような子だった。なにが決め手になったものだか、翌日も訪れた今日子はその場で入部を決めて帰っていった。  今日子は見学に来たときとおんなじに白い頬を、ふっと持ち上げて首を傾げている。早央里はなんだかばからしいような、自分のほうがとんちんかんなことを言っているような感覚になって、目と話題を窓の外へ逸らした。 「雪すごいね」  すごいですねえ、と返事が来たので安堵した。別の後輩が駆け込んでくる二分後まで、早央里は今日子の顔が見られなかった。 ***  深煎りコーヒーの香りが鼻を抜けて、早央里は我に返る。窓の外は、この街にしてみればずいぶん降った気もするけれど、地元の豪雪と比べたらものだ。カフェの三階フロアはエアコンで暖かく保たれていて、灯油のにおいのしない代わりに、肌の乾燥は気になってしまう。そもそも、早央里は石油ストーブ特有のにおいが嫌いではなかった。部屋がいっこうに暖まらないので、近くによって手指を翳さざるを得ないのは面倒と億劫があったけれど、寒い寒いと言いながら友人と身を寄せ合って笑ったのは、それはそれで冬の風物詩だった気がしてくる。  マグカップを握る自分のささくれだった指先を見、年齢は手と首に出るってどこかで聞いたな、とぼんやり思う。 (今日子はいつも爪が綺麗だった)  今にして思えば甘皮の処理とか、つめやすりだとか、よくケアをしていたんだろう。理由を訊ねたことはなく、ただ、いつも薄ピンクの自爪がぴかぴかとしていた。それを寒そうに両手、すり合わせながら、真っ白な息を吐いて鼻の先を赤くしていた。  そこらじゅう雪で白いのに、ことさら肌が白くてコートまで白いものだから、ともすると街並みに紛れてしまいそうで、それなのに妙な凄みみたいなものが今日子を背景から浮かせていた。あれを華とか、存在感とか、言ったのだろう。  早央里の生まれた町はひどく寒くて雪深い土地だったから、昇降口で防寒ブーツを履いて外へ出ると、目に刺さるほど眩しかった。積雪に陽光が照り返して、視界がちかちかとする中に今日子がいた。余計にいつもコートが白く、ことさらに肌も白いから、ほくろのほかは、えくぼのわずかな影だけが彼女の輪郭みたいだった。おまけに今日子は、首の後ろの自分では見えない場所にあるほくろが気に食わないといって、隠せる限りいつもマフラーで隠していたから、いよいよえくぼとまつ毛の影だけが彼女を縁取るのだった。マフラーだけは、今日子にしては珍しく落ち着いた深緑と黒のタータンチェックだった。 ***  ややこしくならないの、と訊ねたら今日子は首をこてんと傾げた。  どか雪の四月から半年以上経った年末のことで、早央里はチャコールグレーのマフラーへ首から顎先までをうずめ、紺色のダッフルコートのポケットに単語帳を弄びながら、今日子が靴を履き終えて追い付いてくるのを待っていた。期末テストの時期だとかで映画部は中止だったのか、たまたま今日子がさぼったのか、どちらだったか。ともかく、二か月か三か月もすれば(上手くいけば)この真っ白い雪の町から出ていこうという早央里は、短くとも向こう二年か三年は雪の中に居続ける予定の後輩と連れ立って、わずかに最寄り駅までの距離を歩いていた日だった。最寄り駅、といったって、雪道を一〇分も二〇分も歩くような土地だ。 「なにがです?」 「皆、紗織のほうを名前で呼ぶでしょ」 「はあ」 「今日子だけが『畑中先輩』で紛らわしくないのってこと」 「だって畑中はほかにいないですよね」 「……分かってて躱すんじゃない」 「あはは。ばれちゃったか」  笑い声と同時にえくぼが現れる。今日子はなにが面白いのか両手をポケットへ突っ込みながら、校門の脇に積みあがっていた雪山の裾のあたりをえいやっと蹴飛ばした。彼女の細い脚では山も崩れやしなくって、裾野にわずかな吹雪が起きただけだった。雪崩が起きなくてよかった、とだけ早央里は思って駅への道に視線を戻す。三、四歩後ろに今日子の、雪を踏みしめる足音が聞こえている。 「カンタンですよ。私が先にさおり先輩だ、って思ったのが早央里先輩だったから。そっち先に呼んでるだけ」 「それだけ?」 「それだけ。ほかに何かあったほうがいいですか?」 「や、無くていいけど。要らないし」 「公平だと思うんですよね」  きゅうに冷めた声色に思えた。  なにか引っかかる感じがあって、早央里は思わず立ち止まる。今日子は歩きにくそうに(雪と氷と轍の道で歩きやすいも何もなかったけれど)数歩の距離を詰めてきて、けれど何事もなかったかのように早央里を見上げた。くるりと上向きのまつ毛、わずかに粉雪の付着したそれに瞳が縁どられて、ぱっちりとした一組の二重まぶたが早央里を見つめていたけれど、すでにそこには、早央里の覚えた違和感のかけらも残っていない。 「公平、って?」 「似合うとか、似合わないとか、そんなので呼び分けられるの不公平じゃないですか。早い者勝ちだったら別に。仕方ないでしょ」 「それでいったら、紗織のほうが四月生まれで私より早いけど」 「ええ、もう。私にとっては早央里先輩が先だったからいいんです。なんなんですか、先輩、自分の名前嫌いですか?」 「嫌いでは……」  ない、と言いかけてもごもごと言い淀んだ。首元のマフラーを直す仕草で、誤魔化せていたかどうか分からない。かといって、本当は姓で呼ばれるほうが嫌いだなんて態々言うのも憚られて、早央里ははあっと息を吐き、白いのを確かめた。会話の隙を埋めるみたいに、寒いねとだけ小さく口にする。 「寒いですねえ」  ふ、と今日子のふっくらした頬が持ち上がる。両頬にひとつずつ小さく影が差して、その陰影がやけに、一面眩しく白い帰路で彼女ひとりぶんをくっきりと際立たせた。 「名前ね。先輩、私は」  そのあとで、今日子がなんと言ったのだったか早央里は思い出せない。 ***  無心で食べているうち、ナポリタンの皿は空になっていた。真っ白なオーバルの上にケチャップののたうち回った模様だけが残っている。早央里は傍らにあったペーパーナプキンを一枚取り、自身の口元を拭う。何度も拭くことでようやく紙にオレンジ色が付着しなくなったので、きっと拭き取れたのだと思うことにした。  いつの間にか、窓の外にちらついていた雪は止んでいたようで、大きな窓からは晴れ間も見えている。手首の時計は十三時十二分、休憩に入ったのが十二時半だからそろそろ戻らなくてはいけない。出したままだった手帳とスマホをカバンへ戻し、コートを羽織ったところで、空の皿の上にぬるりと人の陰が差した。 「先輩?」  はた、とボタンにかけていた手を止める。早央里は首の骨が凍結してしまったみたいに、ぐぎぎぎとぎこちない動きで声の主のほうを見上げた。 「あ、やっぱり。早央里先輩」  あはは、と声を上げた白いストールに白いスカート、ベージュのカットソーの白い女は、笑って初めて頬にえくぼを作り、それでようやく早央里はそれが誰なのかよく分かったのだ。首から下げた社員証には野暮ったいゴシック体で『花井』とだけ書かれている。
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