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1:一輪の花
「坊や、あんたに名前をあげよう。私の代わりに色々なものを見られますように」
扉の無い部屋に閉じ込められて、あんたの声だけが聞こえた。
弱っているのがわかる。声に力がない。
最後のあんたの顔を見たのはいつだったっけ?
「一緒に外に出て旅をしようって約束しただろ? 名前なんていらない! 逃げよう」
小さな窓から強い日差しが差し込んで俺の肌をチリチリと焦がす。血の匂いが漂ってくる。
宵闇のような黒い髪、赤銅色の滑らかな肌、太陽の光を閉じ込めたような琥珀色の瞳……もう随分見ていない。
ヒトの血を啜り、ヒトを憎み、罠に掛かって掴まった俺なんかを、奴隷として引き取った物好きな女。
最初に会ったとき、手足を銀の枷で拘束された俺は、新たに捕らえた怪物の幼体として地面に転がされていた。そんな血と泥に塗れていた俺に手を差し伸べた物好きはどんなやつなんだと、顔をあげたんだ。そうしたら、綺麗に光る琥珀色の瞳から目が離せなくなった。
ぼうっとしているところを笑われて、宵闇色の髪をした女に俺が見とれていたことに気が付いた。
だってこいつは、他のどんな宝石よりも獲物よりもきらきらしていて、甘い香りがした。だから、特別なんだと思ったんだ。
それなりにうまくやってきたはずなのに、今はこいつの顔すらまともに見れていない。高いところに申し訳程度に開いた窓からは、愛しい相手の声だけが降ってくる。
「私を誰よりも綺麗だなんて言ってくれた可愛い坊やが、名も無い怪物のままなんて、悲しいじゃないか」
「ザハラ! 名前なんてどうだっていいから……俺はあんたが無事なら死んだってかまわない」
名前なんていらなかった。ずっと怪物と呼ばれるのだってかまわない。ザハラと共に過ごせるのなら俺は、怪物のままでいいっていうのに。
壁を殴る。しかし、銀を混ぜられた漆喰で塗り固められた壁は俺の手を焼いただけでビクともしない。
「酷い名で呼ばれることに耐えられないくらい大切な相手には、素敵な名を与えたいし……自分を犠牲にしても幸せになって欲しいんだ」
俺が夜になって異教徒共を皆殺しにすれば、ザハラだけでも逃げられる。そのはずなのに。
「やり残したことがある魂は、また現世へ戻るそうだよ。だから……そうだね。永く生きられるあんたなら、私をまた見つけてくれるだろ?」
「……クソ! 出せよ!」
「あんたに会ったら、それまでに見たものを教えておくれ。私の魂なら、きっとまたあんたに惹かれるだろうから」
喧噪が近付いてくる。耳をつんざくような破裂音が何度も響いている。
「……約束だよ、私の両目」
俺の名を呼んだザハラの声がして、落ちてきた瓦礫が喧しい音を立てた。埃がいっきに小さな窓から流れ込み、差し込んでいた日差しは届かなくなる。
この扉も無い部屋は随分と頑丈なお陰で天井も壁も崩れてはくれなかった。
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