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誘菫なんぞ魔術師が娼婦や貴族に売るために危険を冒して取りに来るような代物だと思っていたが……。
逃げることを諦めて、体を丸めて両腕で頭を覆いながら震える女は、少なくとも魔術師には見えない。
手首を爪で傷つける。昼だとは言っても吸血鬼の血は魔物にとって厄介な存在だ。少しはこちらを見るはず。
「のろまなトカゲ野郎。獲物はこっちだぞ」
思った通り、狼蜥蜴は女から注意を逸らし、背後から近付いて来た天敵である俺の方を注視する。
ああ、腹が減っていなければこんな雑魚なんて、夜にならなくとも一捻りで殺してやれるのに。
さっと屈んで足元の手頃な大きさの石を拾う。
「そら、逃げるぞ」
腕を振りかぶって投げた石が右目に命中した狼蜥蜴は、尾を踏まれた狼のように情けなく鳴いて、体を大きく仰け反らせた。
驚いて伏せていた顔をあげた女の枯れ枝みたいな腕を掴んで立ち上がらせる。ダメだ。遅い。
低く唸った狼蜥蜴は、怒りに満ちた咆哮を上げて俺たちへ宣戦布告をした。
仕方なく女を担いで走り出す……が、逃げ切れそうも無い。
「あの……あの……わたし、聖水を……腰のポーチに」
やっとのことで声を出した女の言った通り、腰元を見ると白い山羊角に似たものが雑に腰紐に吊り下げられて揺れていた。
直接触れなければなんてことはないが、それでも聖水が入っていると言われた容器に触れることには多少抵抗がある。
まだ太陽は高い位置に居座っている。腹も減っていて、女を担いでいる上に、俺を追いかけてくる狼蜥蜴は激怒している。迷っている暇はなさそうだ。
どうにでもなれという思い半分で女の腰紐にぶら下がっている角筒を引きちぎった。
角の先端にある切れ目より少し上を強く引っ張ると、蓋が外れた。みすぼらしい女が持つ唯一の財産かもしれない……このまま投げて良いものかと悩んでいる間にも狼蜥蜴はどんどんと背後に迫ってくる。
「悪い」
一言だけそう告げて、俺は狼蜥蜴の大きく開いた口を目がけて角筒を投げつけた。僅かに飛び散った聖水の滴が数滴、俺の肌を焼いた。
白い煙を出しながら狼蜥蜴はその場に倒れて悍ましい声を上げる。チラリと後ろを見て、煮えた油のように泡立つ聖水によって喉から体を焼かれてのたうち回る狼蜥蜴が見えて肌が粟立つ。聖水に焼かれた可哀想な獣から目を逸らした女は、俺の火傷にも気が付く余裕はないようだ。
なにも正体を隠さなくても良いのだが……、あんな化物に追われて怯える女を更に怖がらせるのは気が進まない。これがどうでもいいヒトの子ならば……。
考えたところで仕方が無い。傷痕は幸いにも目立たない腕部分だ。身につけていた服の袖を伸ばして傷を隠してから、抱えていた女を地面へ下ろした。
「ここまで来れば、獣の心配はないだろう」
村がどこにあるかは知らないが、道が慣らしてある。ここから先はニンゲンの領域なのだろう……。
数人の足音と共に、男の声が聞こえる。耳を澄ませてみたが、この女を探している様子はなく非常に呑気な会話を交わしているようだ。
「あ……」
かさついた薄い唇を半開きにした女の瞳に明確な怯えの色が浮かぶ。
逃亡でもしているのか、それとも森に来ていることを他人に知られてはいけないのか……。
「その……ごめんなさい」
それだけ言って、女は背中を丸めて縮こまると踵を返して駆けていく。
見つかると困るなら、少しだけ手助けをしてやろう。
彼女はザハラとは違う。どんな名で、どんなものが好きなのかも、どんな場所に住んでいるのかも知らない。
だが、放っておけないと思った。俺を初めて見て手を差し伸べたザハラも、こんな気持ちだったのだろうか。
息を吸って願いの言葉を囁く。森の精たちが応える音を聴いた。
これで、あの女が村へ戻るまでの間くらいは森にいる男共は外に出てこられないだろう。
彼女の怯えた瞳を思い出して、少し腹立たしくなる。
手酷く扱われている奴隷だって、たかが話し声が聞こえたくらいではあそこまで怯えた顔をしない。
いてもたってもいられなくなった俺は烏に化けて空へ飛び立っていた。
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